現代版ノアの方舟

紅りんご

現代版ノアの方舟

時は2018年7月、70歳のノアは主からのお告げを聞いた。


『人間は増えすぎました。人間は傲慢に自然を破壊し、資源を浪費する。堕落しすぎたのです。私はそれをもう見ていられない。罰を与えよう、そう思ったが、どうやら人間は何もしなくても自滅する運命にある。そこでだ、ノア。私と歩む正しき人、君にはその運命を回避する方法を教えてあげましょう。』


『恐れ多いことです……。』


『巨大なシェルターを作りなさい。大きなシェルターとなる舟を。』


『はぁ。どうしてシェルターなのですか?』


『もうすぐ人間は未知の病に見舞われます。原因は……言えませんが。その発生は決定事項ですが、そこから先は未知。私とて人間が全て滅ぶことを良しとは思わないのです。期待していますよ、ノア。』


そこで飛び起きた。身体は汗でびしょ濡れだった。ノアは信心深い男ではあったが、こんな経験は初めてだった。彼は早速、舟の製作へと取り掛かった。

幸いな事に、彼は金持ちだった。彼は莫大な資源を投げ打ち、職人を全国からかき集め、舟を作り上げた。彼の周りの人間は老人の酔狂、錯乱だと考えたが、彼は気にしなかった。

完成したのは2019年10月。マツで出来た本体は3階建て、内部に多数の小部屋を抱える「方舟」と呼ぶべき舟。舟の外部は木のタールでしっかりと塗られた。

問題はそこに誰を乗せるか、だった。彼の妻、三人の息子とその妻達の他に。病である以上、動物を乗せる事には問題がある。リスクは最小限に留めておきたいからだ。

結局、彼は自分が雇っている使用人とその家族を乗せることにした。皆、疑問に思う事はあれど、ノアという人間の信心深さを知っていたので、神の啓示と言う彼をとどめおく力は誰にもなかった。そして舟は海に運ばれ、静かに漕ぎ出した。


何ヶ月かが経ち、備え付けのTVからニュースが流れる。


『T国で新種のウイルスが発見され………重症者が…………』


ノアはお告げを実感し、乗員達に改めて説明した。舟にはどんな病気にも対応できるように多くの医師、マスクといった資源も用意されていた。

2020年、世界がウイルスの波に呑まれていく中、ノアの方舟はゆったりと海の上を漂っていた。食料も無くなる気配は無い、屋上で育てる事も出来る。ただあるのは、この災禍がいつまで続くのか、それだけだった。


『感染源は…………マスク不足……………転売対策………………発症すると………副作用は…………ホームステイを推奨………一斉休校……テレワーク……外出自粛を…………感染者数過去最多…………専門家は………緊急事態宣言………。』


TVからは一年中、不安が流れ込んでくる。映る人々の目つきはどこか暗く、目より下はマスクで隠れている。疑心暗鬼、どの情報が正しいのか、間違っているのか、ウイルスの前に人類は不安という病に侵されてしまったらしい。感染してもしなくても地獄、これ程自分の信心深さに救われた事はない。


そして、舟は海の上で年を越し、2021年。未だに人類はウイルスと戦っていた。ウイルスの進化スピードは凄まじく、人類の叡智が追いつかなくなっている。人々は未知の事態に困惑し、娯楽を失い、その未来には暗雲が立ち込めた。


『ワクチンの開発……………投与時期は………北極基地でも感染………副作用は……………オリンピック開催の是非……………人類滅亡の危険……。』


日本では、来年の話をすると鬼が笑うという。今は来年どころか明日の事さえどうなるか分からない、まさに一寸先は闇。人類は諦めない、それでもウイルスの脅威は留まることを知らなかった。


『………………。』


あれから何年が経ったのか、TVは物言わぬガラクタと化してしまった。TV番組自体が無くなってしまったからだ。人類は衰退し、遅ばせながらもシェルターを作り始め、そこに篭りだした。それでも、ラジオは通じていた。だが、それもシェルター内初の感染者について触れた後、途絶えてしまった。後、どれだけの人類が陸に生き残っているのだろうか。


やがて、ノアに寿命がやってきた。百二十歳の大往生だった。主は彼を称賛し、天へ導いた。彼を手始めに病にかかることなく、乗員達は寿命で舟を去っていった。


そして何百年かが経ち、主はノアの子孫に舟から降りる許可を出した。地上の人類は絶滅してしまったからだ。子孫達は行く宛のない船を進ませ、やがて1つの大陸にたどり着いた。舟を降りた人々が目にしたのは、自然に近代文明が呑まれている幻想的な光景。植物がより良い緑に輝いていた。


『ぐるるる。』


誰かの腹の虫が鳴いた。舟の中は安全、食料もあったが、健康的な物で肉類は少なかった。若い彼ら、感染症の危険を知らない彼らにとってはただただ退屈な食事だったのだ。彼らは手始めに近くのビルの中に入り、食せる動物を探す。ビル内には多くの文字が書かれているが、掠れてよく見えない。漢字、というものだっただろうか。よく見ようとした時、物音がした。動物が動いた音だった。苦戦はしたが、彼らはそれを持ち帰り、軽く焼いて食べることにした。生の部分を残したのは生肉の感覚を味わいたかった、それだけの理由。それを噛りながら、彼らは語り合う。


『何だろうなこの生き物、鳥のようでネズミっぽくて。』


『何だっていいだろ、久々の肉なんだから!』


『いや、ご先祖達が書き記した書物にこれだけは食べるな、っていう動物がいた気がして…………まぁいいか。』


『そういや、さっき古代の文字を見つけてさ、ここってどこの国だったんだろうな?』


『一旦、舟に戻って考えるか。』


彼らは食べながら、皆が待つ舟へと帰っていった。ここはT国、最初に感染者が出た国とされ、その原因は一説ではイソップ寓話で卑怯な生き物とされる鳥と獣の間、コウモリである、とされている。


『やはり、人間は滅びる運命にあったか。』


主は残念そうに呟くと、人口の増えすぎた天国をどうすべきか考え始めた。

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