平凡な伊上くんの快走と回想

江東蘭是

第1話 食後のキスはピザの味

 1993年4月になると、僕は大学院に進学した。と言っても、今までと同じ部屋、同じ研究室で、机の場所も変わらなかった。ただ身分だけが、大学生から大学院修士課程1年(M1)に変わっただけだった。

 M1になると、4回生より暇になった。大学院生向けの講義がいくつかあるだけで、あとは修士論文に向けての研究テーマを決め、4回生の卒論指導をすればよかった。修士論文は、基本的に卒論の内容を発展させればいいので、僕は引き続き、ターボジェットエンジンの圧縮機の気流を解析することにした。今回は、低圧圧縮機と高圧圧縮機の動翼と静翼の配置を最適化して、圧縮効率を上げることをテーマとした。

 数ヶ月もすると、僕はなんだかぬるま湯に浸かってるような、張り合いのなさを感じるようになっていた。講義は学部にいた頃より幾分高度になっていたが、科目数が少ないので、こなすのは楽だった。修士論文の方も、本格的に取り組むのはまだだいぶ先のことであり、今はたいしてすることもなかった。僕は、今回のテーマに必要な最適制御に関する専門書を読んで勉強していたが、あまり身が入らなかった。高度な専門性を身に付けるために進んだ大学院だったが、このままでは、かえって4回生の頃よりレベルが下がってしまいそうだった。

 菜摘は仕事が忙しくなっていて、休日出勤もするようになり、以前ほど会えなくなっていた。皮肉なことに、菜摘が忙しくなればなるほど、僕は暇になっていった。だから最近は、一人でよくドライブに行くようになっていた。行き先は、和歌山か三重が多かった。好きな音楽をカーオーディオから流しながら、ランドクルーザーをドライブしている時間が、唯一無聊を慰める時間になっていた。

 暇な時間を持て余しているうちに、夏休みになった。家にいても仕方ないので研究室に顔を出していた。教授に相談しながら修士論文のストーリーを考えたり、時々、M2の先輩に頼まれて実験の手伝いをして過ごした。

 8月になったとき、僕は一度、鎌倉の実家へ帰ろうと思ったのだが、家庭教師の方が忙しくなって、帰るのを諦めた。サトミちゃんは高3になっており、この夏休みが受験勉強のヤマ場だった。僕さえ良ければ、夏休み返上で勉強を見て貰えないか、とお願いされたので、僕はOKした。サトミちゃんは、昼間は予備校の夏期講習、夜は週に4日、僕が勉強を見た。この時期になると、僕が教えてあげることはほとんどなかったが、わからないことが出たときに、すぐ質問に答えてあげることができるように僕が傍で控えていると、なにかと心強いとのことだった。

 彼女は、僕と同じH大学の薬学部を目指していた。薬学部は工学部より入るのが難しいと言われていたが、合否ラインぎりぎりのところまで、成績を上げていた。あと一息というところだが、その一息がなかなか難しいことは、僕も経験上、わかっている。時々、思い詰めたようになっているサトミちゃんの心をほぐしてあげるのも、僕の役目だった。この日は珍しいことに、勉強前に彼女が少し外を歩きたいと言うので、軽く近所の公園まで散歩に行くことにした。もちろん、彼女の両親の許可は貰った。

 すぐ近所に、小さな公園がある。日が暮れかかっている街中の公園。誰もいない。公園の中に入ると、不意にサトミちゃんは僕と菜摘のことを尋ねてきた。

「先生はまだ、菜摘さんとお付き合いしてるんですよね?」

「うん、続いているよ」

「そうですか」

「なんで?」

「いえ、あの、なんでもないです」

 そう言ったきり、黙り込んでしまった。

 それにしても、今日のサトミちゃんはちょっと様子がおかしい。昼間、予備校で何か嫌なことでもあったのだろうか。そもそも勉強前に外を歩きたいなんて言い出すのは、初めてのことだった。

「もう5分ほどしたら完全に日が暮れるから、そろそろ戻って勉強始めようか」

「……」

 サトミちゃんは鉄棒に寄りかかったまま、うつむいて黙っている。

「どうしたの?」

「先生、今日はもう少し、ここにいたいです」

「でも早く帰らないと、お母さんが心配するよ」

「今日はもう少しだけ、いさせて下さい」

 ここまで頑なに言い張るのも珍しいことだった。だから

「わかった。じゃあ、あそこのベンチにでも座ろうか」

 僕がそう言うと、サトミちゃんは素直に付いてきて、二人で並んでベンチに座った。

「今日、何かあったの?」

 僕がそう聞いても、サトミちゃんは黙ったままだ。困ったな。あまりこういう状況に慣れていないので、どうしていいかわからない。

「ま、いいや。もしなんか困ったことがあるんだったら、勉強以外のことでもいいから、遠慮しないで言ってね。いつでも話、聞くから」

 そう言うと、サトミちゃんはコクリと頷いた。

 10分ほど、僕らは黙って座っていた。サトミちゃんは、何も話す気配はない。僕が「サトミちゃん、大丈夫?」と声をかけると、ようやく帰る気になったらしい。小さく頷いて、ベンチから立ち上がった。

 家に戻ってからのサトミちゃんは、割と普段どおりだった。予備校の化学の授業でよくわからなかった部分をきちんとノートにメモしてあって、そこを重点的に復習した。開始が少し遅くなった分だけ延長して、その日の勉強を終えた。

 次の日、僕は3週間ぶりぐらいに菜摘に会った。今日から5日間の夏休みが取れたようで、忙しさもピークを過ぎたらしかった。とりあえず今日は僕の家でゆっくり過ごそうということになって、宅配ピザを注文し、あとは簡単なサラダを菜摘が作ってくれた。

 ピザを二人でつまみながら、僕は昨夜のサトミちゃんのことを話した。さほど年齢が離れているわけではないので、同じ女性同士、昨夜のサトミちゃんの様子について何か分かるのでは、と思ったのだ。

 僕がひととおり話し終わると、菜摘は「ふーん、そうやね……」と言って黙り込んだ。何か物思いに耽っているような感じだった。サトミちゃんの気持ちになって考えているのかな、と思いながら、ピザの一片に手を伸ばしたとき、おもむろに菜摘は口を開いて

「それって、恋、かもね」

と言った。

「やっぱり。僕もそうじゃないかと思ったんだ」

「誰に恋しているか、栄ちゃん、わかる?」

「彼女、女子高に通ってるから、同じ学校の子ではないとして、まあ、予備校で好きな人でもできたと考えるのが順当かな」

 僕がそう言うと、菜摘はびっくりしたような顔をして、

「本当にそう思ってる? 私は違うと思う。相手は、たぶん栄ちゃんよ」

と言った。僕は驚愕した。サトミちゃんが、僕に? あり得ない。少なくとも僕は、そういう対象でサトミちゃんを見たことはない。

「それは、あり得ないよ」

「どうして? だって中2の時からずっと勉強を見てあげてるんでしょ。そういう気持ちを栄ちゃんに抱いても、全然不思議じゃないよ」

「でもなあ」

「私の考えでは、彼女の態度が変わり始めたっていう高1のとき、栄ちゃんに恋心を抱き始めたんだと思う」

「まいったな。でもそれは、あくまで菜摘の推論だからな」

「たぶん、間違ってないと思うよ」

 そう言って菜摘はワインを一口飲んだ。

「栄ちゃんは全然自覚がないみたいだけど、実は栄ちゃんって、結構モテるんやから」

「まさか」

「私の大学時代の友達で、優子ちゃんって子がいたでしょ? あの子なんかも栄ちゃんのことがいいなって言ってたし、もっと昔に遡れば、中学時代」

「えー?」

「栄ちゃんのことが好きって言ってた女の子、何人か知ってるよ」

「信じられないな。それって、誰?」

 僕がそう言って頭を振ると、「それは、教えない」と言いながら、菜摘は両手で僕の顔を包み込み、

「モテることがわかったからって、これからやたらと女の子に声をかけたりなんかしたら、承知しないぞ」

と言った。

「しないしない、そんなこと」

「だったら、よろしい」

 菜摘はそう言って、そのまま僕の顔を引き寄せてキスをした。ほのかにワインの香りがした。

「だけど栄ちゃん、そのサトミちゃんのこと、どうにか考えてあげた方がいいよ。大切な時期でしょ。恋に悩んでいるようじゃ、勉強に差し支えるんじゃない?」

「まあそうだけど、あくまで推測に過ぎないわけだし、とりあえず今までどおり接していく以外、何もできないよ」

「それもそうやね。だけど……なんかちょっと妬けるな。最近は私より、彼女の方が栄ちゃんとよく顔を合わせてるわけだし」

「さっきも言ったとおり、僕は他の女の子に心を奪われるなんてことは、絶対にないよ。信じられない?」

「ううん、ごめん。信じてる」

「だったら、よろしい」

 今度は僕が菜摘の顔を引き寄せ、キスをした。ほんの少し、ピザの味がした。

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