一夜目
ガシャン……!
広い室内に響き渡る、グラスが割れる音。
それを聞いた者はわずか二人だった。
グラスを落とした私と、グラスを渡した彼と。
「か……は……!!」
飲んだものを吐く。
全て吐いた私が、更に吐いたのは──血だった。
喉が胃が、焼けるように熱い、痛い。
込み上げる嘔吐感と共に、血を私は吐き続けた。
「がはっ、う……げほっごほっ!!」
苦しい苦しい苦しい……!!
これは何なのか。一体何なのか。
必死に原因を探ろうと、記憶を掘り返す。
確か私は、話があるからと婚約者であるリルドランの部屋に呼ばれたのだ。
伯爵家である彼の家は何度も来ていたから。
屋敷に入ってから彼の部屋まで迷うことなど無かった。
いつもは誰かしらに会うはずが、今日は誰にも会わなかったのが不思議だったけれど。
屋敷の前でリルドランが出迎えてくれると言う、珍しい歓迎ぶりに驚きながら。
彼の部屋に入るまで、結局私は誰にも会わなかった。
そして彼の部屋に置かれた立派なソファに座るよう促された。
話とは何かを尋ねたら、彼が「喉が渇いただろう?冷たいジュースを用意したんだ。どうぞ」とグラスに入ったジュースを差し出してきたんだ。
確かに今日は少し歩けば汗ばむ程の暑い日だ。だから私は喜んでそれを受け取った。
そして飲んだ。
飲んで暫く──リルドランはなぜか、ジッと私を見つめていて。話をしないのかと首を傾げたその瞬間。
喉や胸が焼けるように痛みだし、息が出来ないほどの苦しみを感じた。続く嘔吐感。
そして今に至る。
自分が吐いた血の海の上で横たわる、この現状に至るのだ。
これは、ひょっとして──いや、ひょっとしなくてもそうなんだろう。
確信をもって、私は唯一動かせる目を、彼に向けた。
「リルド、ラン……あ、なた……まさ、か……」
絞り出した声は自分のものではないような、しわがれた酷いものだった。
少しでも声を出すのは苦しいけれど、何とか絞り出した。
そうして彼を見れば。
「良かった、毒が効いたんだね。偽物だったらどうしようかとハラハラしたよ」
その言葉に、目を見開いた。
驚愕をもって彼を見る。
「ごめんね、ジュリア。僕のために死んでよ」
ああ、やはり。
やはり彼は、私に毒を盛って殺そうとしたのね。
一体、なぜ──
「君も知ってると思うけど、他に好きな子が出来たんだよね。でも君との婚約をうちから解消申し出なんてしたら色々面倒になりそうでさ。だから君には死んでもらうことにしたんだ。──そうだな、僕が浮気したと勘違いして、腹いせに僕の目の前で毒を飲んだ、でどうかな?」
なんだそれは
なんだそれは
なんなのだそれは!!!
私の家は公爵家で。たしかに伯爵家のリルドランから解消を申し出た場合、莫大な慰謝料が必要となるだろう。
それから逃れる為に、私を自殺に見せかけて殺すと言うの?
なんて、酷い……!
ああ、でももう声も出ない。
睨みたくても目を動かす事も出来ない。
私にはもう何も出来なかった。
体を動かす事も。
話すことも。
──息をすることも。
目の前が真っ暗になる直前。
ニヤニヤと笑うリルドランの醜い顔が見えた。
許さない、許さない、絶対許さない!
呪ってやる!
リルドランは大声で笑っているようだが、もう私の耳には何も聞こえなかった。
けれど同様に、彼の耳に私の声は届かない。
お前を絶対許さない──
そうして。
私の意識は闇へと呑まれる。
その寸前、思い出すのは彼の顔──
会いたい、貴方に会いたい。
言いたい、貴方に言いたい。
会ったのはわずか一度。
けれど確かに私は恋した。
私が恋したあの人に、会いたいと思った。
「アッシュ様……」
私の呟きは、誰にも聞かれる事無く。
意識は完全に途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます