第8話 アーロン視点(1)地下牢での出会い

投獄されてから、今日で何日目になるのか、俺はもうわからなくなっていた。


毎日のように続く高熱、胸やけ、それに恐ろしい寒さが責め苦のように続く日々だった。


意識は朦朧とし、朝も昼も、そして夜さえも感じる事が出来ないこの牢獄の中で、もう生きていく希望が無くなるほど、俺は疲弊し、疲れ果てていた。


ただ、一つだけわかっていたことは、この地下牢が恐ろしく寒く、水は腐っていて、家畜の餌のような食べ物が毎日同じ時間に届けられる。


それに匙を付けたかどうかは関係なく、看守たちは、ひたすら毎日のルーティンを壊れた機械みたいに繰り返すだけだった。


そんなある日のこと、何日も空であった隣に、誰かが運ばれてきたことは、なんとなく理解していた。そして、珍しく衛兵が慌てる声は耳にしていた。


それにしても隣が煩い。熱にうなされる合間合間に、ひっきりなしに誰かがやってきては、去っていく音ばかり聞いていた。


しかし、俺は、起き上がる気力さえないのだ。冷たい床の上に転がったまま、隣人がどんな人間か、確認することもしなかった。


酷い熱は相変わらず俺を苦しめ、寒さがそれに拍車をかける。


そんな状況なのに、隣の新入りがさかんに声をかけて来る。


……当然、うるさいので無視していると、こつんと、腕に小石が当たった。


「全く、何すんだよ」


機嫌の悪さを声に出してみるも、そのまま身を起こさずにいると、なんと隣の奴が手を伸ばして自分の額に触れるのがわかった。


その手の感触を知った時、俺はあまりにも驚き、ぱっと目を開いた。


ほっそりした女の手。それも、まだ若い女だ。


こんな牢獄に、なぜ女が?


そう思っていると、また、しつこくこちらに声をかけて来た。


「……さっきから煩いぞ」


少しの好奇心が体調の悪さに勝って、顔だけ動かして振り返ってみれば、そこにいたのは、まだうら若い女だった。


銀色の艶やかな髪に、抜けるような青い瞳。

それに隣の地下牢に運び込まれた調度品の数々。


明らかに、貴族令嬢のような娘は、熱いお茶とお菓子があるから一緒に食べないかと誘って来るではないか。


もう何日もまともなものを食べていなかった。俺はなんとか頑張って、格子越しに近寄ると、娘は、陶器に入った熱いお茶と焼き菓子を渡してくれた。


湯気を立てている熱い紅茶なんて、何日ぶりなのか。熱のせいで頭がくらくらするも、熱いお茶を飲むと少し楽になった。


彼女はそれだけではなく、毛布やクッションも渡してくれた。彼女が寒くなるのでは、と心配したが、やはりもう限界に近かいのだと思いなおし、彼女からしばらく借りることにした。


毛布を受け取ろうと、格子に近寄ると彼女の姿がはっきりと見えた。


色白でほっそりした華奢な令嬢だった。銀の長い髪は、まるで銀糸のようで、その瞳はサファイアのような青く澄んだ色をしていた。


宝石を紡ぎ合わせて作られたような、そして、まるで壊れやすい芸術品のような容貌を見て、俺は一瞬、息が止まった。


どうして、こんな華憐な令嬢がこんな所にいるのだ。俺は、よく回らない頭で考えたが、具合の悪さに負けてしまって、力なく貸してもらった毛布にくるまり眠りに落ちた。


ひさしぶりに暖かい毛布の感触を久しぶりに感じながら、何日ぶりかに、安堵に包まれながらぐっすりと眠ることが出来た。


しかし、驚いたのはそれだけではなかったのだ。


その後、食事の時間になると、いつも通り、看守が食事を運んできた。


牢獄の食事は、それはもう酷いもので、大の男である俺でさえ、心が折れそうになるような代物だ。彼女にはさぞかしきついだろうと俺は思っていた。


「……たったこれだけ?」


「犬畜生にも劣る罪人に、食わせる飯なんかこれで十分だ。お姫様は初めて見たのかなあ?」


思った通り、今にも消え入りそうな声で呟く彼女に、看守が意地悪な言葉を吐くのを聞いた。


俺が元気だったら、彼女にあのような無礼な態度をとることは許さない。


看守に何か言ってやらねば、と俺が立ち上がろうとした時だった。


「だから、何なんですの? この雑魚が」


凛とした涼し気な声で、堂々とした言葉が響く。その言葉は堂々としていて、俺でさえ、一瞬、聞き耳を立てたほどだ。


は?


もう、目が点になりそうだった。花のように美しい令嬢から出て来た言葉がそれだったからだ。


「は、もう一回行ってみろ。このアマが」


いきり立った看守が、彼女の首根っこを掴み上げそうな勢いで怒っていたが、彼女は、なんでもないような涼しい顔をしている。むしろ、喧嘩上等という態度で平然としている。


おいおい、貴族令嬢じゃなかったのか。この威厳は一体何なのか。王族にも劣らないほど、立派な態度だ。


俺の心の声をよそに、彼女は、見事な反撃を看守にくらわせたのだ。


「そのお言葉、撤回したほうがよろしくてよ? 貴方、わたくしを階段から突き落としましたわよね? わたくし、はっきりと覚えておりますのよ。卑しくも、マクナレン公爵家令嬢、元王太子殿下の婚約者であるこのわたくしを、貴方は後ろからいきなり階段から突き落とした」


「お前のような罪人が何を言うか」


「あら、どこの裁判でそう決まりましたの? わたくし、まだ未熟者ですから、存じ上げませんの」


彼女は持っていた扇をパタパタさせながら、看守を遣り込める。男はぐうの音も出ないほど、驚いていた。


そんな看守に、彼女は畳み込むように続ける。


「正式には、まだ裁判が終っておりませんから、わたくし、罪人ではありませんわ。貴方は、囚人ではなく、立派なマクナレン公爵家の令嬢に怪我をさせたのですわ」


そう言って彼女が顔に笑みを浮かべたが、とても冷たい笑顔である。目は全く笑っておらず、むしろ敵を目の前にしてとどめを刺すような武将のような顔をしていた。

これほどまでに綺麗で、これほどまでに凄みのある笑顔を浮かべる令嬢を俺は今まで一度も見たことがない。


もう、そこからは彼女の勝利だった。自分の身分と相手の弱みを巧みに操作して、自分に有利なほうへと引き込んでいく。


なんて女だ。


俺は彼女に対して、尊敬の念を抱く。


彼女は、こんなにも美しいのに、とほうもなく賢く、抜け目がない。


この会話がどう進んで行くのか、さらに好奇心が湧いて、俺は彼女の一挙一同から目が離せなくなった。


そして、彼女は、看守にお粥を投げつけ、最終的には自分の僕のように扱ってしまった。

自分にふさわしい夕食を調達するようにと、金貨を投げつけ、必要なものを買ってくるようにと言う。


ぐずぐずしている看守に怒号を飛ばすと、男はいそいそと命令に従おうとする。人を従わせるカリスマ的な度量をこの娘は持っている。


それだけでも驚きなのに、さらに驚くことがその後に待っていたのだ。


「あ、ちょっと待って」


買い物に出かけようとする看守を娘が呼び止める。


「お嬢様、まだ何か?」


「ああ、釣銭だけど」


「はい、一銭もくすねず、ちゃんとお返しします」


「おつりは取っといていいわよ」


「は?」


男は彼女の言うことがよく呑み込めなかったようだった。


「だから、おつりはお駄賃。あげるわ。私、細かいことにはこだわらない主義なの」


彼女は男の足元にすっと視線を落とすと、猫のように目を細めた。


「残りで、お前のそのみすぼらしい靴なんか捨てて、新しいのに変えなさい。こんなに寒い所で指が出てるじゃないの」


男の顔はみるみるうちに上気して、飛び上がらんばかりに、嬉しそうな顔をする。


「お、お嬢様、す、すぐに、夕食をお持ちします」


「あ、それで、お前の名前は?」


男は驚いたような顔をした。今まで、名前を聞かれたことなどなかったようだった。


「が、ガスです。ガスパール……」


「そう。ガスパール、申し訳ないけど、お願いね」


そして、彼女の顔の上には、まるで花が咲くような綺麗な笑顔が浮かぶ。


あっと言う間の出来事だった。


こんな牢獄の中だと言うのに、彼女は自分に必要なものを立ちどころに手に入れただけでなく、看守の人心を完全に掌握して、あっさりと自分の配下に控えさせてしまう。

なんて女なのだろう。


こんなにびっくりしたのは、まだ青二才だった頃以来だ。


「すげえ……」


思わず、感嘆の声が口から出てしまう。彼女はどこの令嬢とも違う。強くて、賢くて、そして気概がある。


貴族としての器の大きさと、彼女の豪胆さに、俺は度肝を抜かれた。

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