最終話 邪竜を倒したロイン 後編
ライラがすぐさま複雑な口笛を吹くと、馬達が一斉に洞窟の奥へと避難した。ロッドがロインの隣へ走り出て、剣を構える彼の前に見慣れない蔓草模様の魔法陣を描く。
「フルム=スクラ!」
呪文が唱えられると、ぐるっと魔力の光が回転して、いつもの黒ではなく陽光色のまま魔法陣が光を強くする。
「神殿の、火の神官が使う、盾の術」
ルーミシュが小さな声で言った。戦いを司る火の女神に仕える火の神官達は、戦闘のプロだ。そんな術、いつ覚えたのだろうか。
「術が黒くないけど」
「あれはロッドの趣味で、無駄な魔力を消費して色を変えているだけ。術の性能を上げることに、全部の魔力を使っているのだと――っ!」
銀髪の少女の可憐な声はそこで途切れ、鋭く息を呑む音へと変わった。巨大な漆黒の頭が洞窟の前に現れ、凄まじい風を起こしながら通り過ぎてゆく。真っ赤な瞳がぎらりと光り、翼が風を切り裂く音以外何も聞こえない。
盾の術ごと、ロッドとロインが吹き飛ばされて洞窟の中へ転がった。慌てて駆け寄る。外を見ると、竜は太い樹木を薙ぎ倒しながら森を滑空し、悠々と旋回すると、バサバサと翼を打ち下ろしながら折れた木々の上に降り立った。
「なんで、急に」
「魔獣は人を襲う習性がある。身を守るためでも、食べるためでもなく、まるで人間を憎んでいるかのように」
ロッドが言う。ロインが奥に隠れた馬達をちらりと見て「出るぞ」と言った。
「俺達がここを離れれば、馬は襲われない」
「わかった」
皆が頷いて、武器を手に洞窟の外へ走り出る。足が震えた。ここから出るのは死にに行くのも同じだと、本能が叫んでいる。イーリの姿を強く思い描いて、踏ん張った。
低い低い、地の底から響くような声で魔竜が咆哮した。と、ビリビリと何か、意思に反して急激に全身が竦み上がるような奇妙な感覚がして、ライラは腰を抜かして地面にへたり込んだ。
「
苦しそうに片膝をついたロインに向かってロッドが叫んだ。ロインが顔を上げ、暗く
「すまない……俺のせいだ。俺のせいで、皆を犠牲にしてしまう。許してくれ、どうか、どうか……俺が、あんな夢を真に受けて、世界を救うなんて馬鹿なことを言ったから」
それを聞いたロッドが「惑わされるな!」と叫び、ルーミシュが「ロインが許しを乞うなら、私は全部許す! 大好きだから!」と場違いなことを言い、そしてライラは思った。
(やべえ! ロインが正気に返っちまった!)
◇
仲間達は焦りに焦っていた。魔竜の放つ瘴気を浴びたロインが、ついに正気を取り戻してしまったからだ。ただ思い込みだけでめちゃくちゃ強くなっていただけの彼は、我に返ってしまえばただの純情な青年でしかない。
「ロイン、瘴気に狂って我らの使命を忘れたか! 汝の覚悟とはその程度だったのか!」
ロッドが叫ぶ。するとロインは言った。
「いや、狂ってまではいないよ。ちょっと気が塞いでるだけで……お前達だけでもなんとか逃げられないか、俺も最後まで考えるから」
(おいおいまずいぞ、言ってることがまともすぎる……)
ルーミシュが頬を寄せて「ロイン、元気出して」と囁いているが、ロインは力なく首を振るばかりだ。そうしている間にも、魔竜はじっくりと狙いを定めているかのようにこちらを見つめ、低い唸り声を上げている。
一気に襲ってしまえばひとたまりもないのに、まるでライラ達が恐怖するのを楽しんでいるかのように、視線で射竦めるばかりだ。「邪竜」という言葉が急に重みを増して、ライラの心を苛んだ。あれは普通の獣じゃない。何か一線を画する、邪悪な気質を備えている。
「俺が囮になるから、その間にお前達は馬に乗って逃げるんだ」
「嫌だ、私はロインと一緒にいる」
「ロイン、君が弱気になってどうするんだ」
ロインが折れたことで、仲間達の心も折れかけていた。ライラはそんな彼らを魔竜の間でせわしなく視線を往復させながら、必死に何か打開策はないかと考えていた。とにかくロインを、元のお花畑なロインに戻さないと、僅かな可能性さえ
もうダメかもしれないと思いかけたその時、ライラは突然、ものすごく馬鹿な案を思いついた。流石にこれはないなと思ったが、彼女は一度頭をかきむしって、やれることは全部試すべきだと自分に言い聞かせた。
そしてライラは、両手で胸を掴んで地面に崩れ落ちた。
「ライライラ!?」
ロインが驚いて声を上げる。よし、いいぞ。ライラはぜいぜいと息を荒くし、絞り出すように言った。
「熱い……体が熱い。全身が燃えてるみたいだ……!」
「どうした! ルーミシュ、水の魔法で――」
とそこでライラはすっと苦悶の表情を引っ込め、ゆらりと立ち上がった。ロインは突然のその行動に困惑している。よしよしと思って、ライラはできる限り落ち着いた、低く滑らかな声で言った。
「……我は火の女神フランヴェール。戦いと守護を司りしもの。我が父たる光の創造神の愛し子へ神託を与えんがため、この体を借り受けておる」
◇
「火の、女神……!?」
ロインが目を剥いた。ルーミシュが何か言おうとして、さっとロッドに口を塞がれた。ライラは顔から火が出そうだった。
「使命を見失いし人の子よ。そなたからは最早、世界を救わんとする意志は感じられぬ。父はこれを悲しまれ、我に汝を救うよう命じられた。故に我フランヴェールは、汝ローイエン・ユエン=アルエンへ火の祝福を与えよう。汝に与うは燃え盛る勇気。愛する仲間を護らんとする強い信念。そして信念から導かれし力。神界最強の炎の力を、汝に授ける」
ライラは心の中で「火の女神様ごめんなさい!」と何度も唱えながら、顔だけは冷静に、ロインの額へ触れた。見開かれたロインの瞳からみるみる暗い色が抜け、青い海のような輝きを取り戻す。
「感謝いたします、火の女神」
ロッドがそう言ってライラに向かって跪き、恭しく頭を垂れた。ロインとルーミシュもそれに続く。それを見ているとなんだかライラも、本当に女神が自分を介して仲間達へ勇気を与えてくれているようなそんな気がした。本当に、体が熱くなってきた気がする。
「行け、ロインよ! 邪竜如き、一太刀のもとに倒してみせよ!」
ビシッと魔竜を指差すと、ロインは「女神のおっしゃるままに」と好戦的な笑みを浮かべ、すらりと剣を抜き放った。剣身が真っ赤に燃えている。
「ロッド、
「一瞬でも隙ができれば、あるいは」
ロッドが魔導書を開きながら言う。魔竜がまたしても咆哮を上げたが、彼がすぐさま大きな盾を作り、ルーミシュが浄化の魔法を振り撒いたので、誰も膝をつくことはなかった。
強い雨が額を打つ。相手が屈しないと見た魔竜が、ついに翼をばさりと開きながら突進してくる。
その時のライラはどうかしていた。もしかすると、ロインのノリに当てられていたのかもしれない。未だぽかぽかとあたたかい体は少しも雨で冷やされなくて、何も怖くない気がした。漆黒の竜が迫り来る最中なのに、まるで時の流れがおかしくなったように全てが遅く見えた。
真っ直ぐ弓を構えて、魔石に魔力を注ぎ込む。淡い陽光色に染まるはずのそれは、なぜか炎のような真紅に色を変えた。
「フルム=アゼナ」
静かに呪文を唱える。弓に組み込まれた魔法陣が発現し、光を放つ。
引き金を引くと、真っ赤に熱された鋼鉄の矢が、流星のように輝く炎の尾を引きながら飛んでいって、走る魔獣の右目に突き刺さった。突然片目を失った竜がバランスを崩して倒れ込んだ。
「ネルヴァール!」
ロッドが呪文を叫ぶ声。冷たい風がざあっと通り過ぎ、立ち上がろうともがいていた竜が動きを止める。何か見えないものに押さえ込まれているようだ。
「ロイン!」
「わかっている!」
燃える剣を携えたロインが光のような速さで飛び出した。魔法を使っているのか、一歩地を蹴るたびに速度を上げ、次第に残像しか見えなくなって――
そして彼は、明るい炎をひらめかせながら、ザッと竜の首の横を通り過ぎた。ロインが剣を鞘に収めると同時に、ズズッと、巨大な竜の首がずれて地面に落下する。
「スクラゼナ=イルトルヴェール!」
ルーミシュが浄化の呪文を唱えると、流れ落ちた膨大な魔竜の血が泡立つように空気に溶けて消え、そしてそれをすぐさまロッドが風で谷の方へ吹き飛ばした。
◇
「た、倒した……? これ、終わったんだよな?」
呆然と、ライラが言った。ロインが足取り軽く戻ってきながら、爽やかな笑みで言った。
「ああ、皆のおかげだ。そして君は覚えていないだろうが、火の女神に俺は救われたんだ。世界を救うなんて使命は俺には荷が重すぎたが……お前達を守りたいという気持ちだけは、たとえ邪竜のもたらす絶望と恐怖であっても、俺から奪うことはできないと気づかせてくれた……」
「そ、そうか」
ライラは顔を引き攣らせながら頷いた。ロインが「でも、君は何も覚えていないんだろう? 女神をその身に宿した君は美しかったよ、ライライラ」と言う。ロッドが頷いているのが腹立たしい。
「……うん、何も覚えてない」
しかしライラは、満面の笑みを浮かべるロインをぶん殴りたい気持ちを抑えてそう言った。ライラが自分であれをやらかしたのだとこのお花畑男に認識されるくらいなら、そこの崖から飛び降りた方がずっとマシだったからだ。
「ありがとう、『女神の化身』ライライラ」
「や、やめてくれよ……恐れ多いだろ。今まで通りでいいから」
「なんて気高いんだ。君がそう言うなら、もちろん俺達は今まで通り気安い友人で居続けるさ。『大地の乙女』ライライラ」
「うん……それはそうと、一発殴らせてくれないか? 深い意味はないんだけどさ」
「構わないよ。俺が勇気を失ったせいで、君達を危険にさらしたんだから。それを救ってくれたのが君だ」
「くそ、もう我慢ならねえ――!」
「ライラ、落ち着いて。ロインを叩いてはだめ」
――こうして、ロインは仲間達と共に邪竜を倒したのだった。
(次回『エピローグ』)
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