14.「普通」の手当て(2)

 ステンドグラス越しに、初夏の陽光が淡く降り注ぐ聖堂。

 昼なお、人を瞑想の世界へと誘うような薄暗い空間に、ふたりの男女がいた。


「なあ。どうか色よい返事をくれ」


 ひとりは、すらりとした長躯に、豊かな黒髪、深い藍色の瞳が印象的な精悍な青年。

 シンプルなシャツとパンツ、そして胸のあたりに騎士団の紋章が刺繍された濃紺のベストをまとっている。

 彼は、その長身をかがめて、壁際に追い込んだ人物を覗き込んでいた。


「恐れながら殿下。パーソナルスペースが近うございます」


 それに対し、抑揚なく答えるのがもうひとりの人物。

 彼女は、小柄な身体に黒のドレスと白いエプロン、そしてブリム――つまり侍女の制服と、おまけに分厚い眼鏡を身に着け、先ほどから淡々と青年に応えている。


 青年の正体とはもちろんルーデン王国第二王子ルーカス、そして侍女の正体はエルマであった。


「その手の単語でごまかそうとしてくれるな。俺は本気だ。おまえが必要なんだ」

「その手の言葉でごまかさないでくださいませ。私は道を踏み外したくございません」


 男が女に顔を寄せて囁く様子や、その内容から、一見した限りではまるで男女の駆け引きのようにも思われる。


 しかしながらその実態は、


「なぜだ。騎士団に所属することのなにが、外道だというんだ」

「女、それも平民ですらない身分の人間が騎士団に加わることが、前代未聞、つまり普通ではないと申し上げているのです」


 ルーカスによる騎士団へのヘッドハンティングであった。


 先日、料理対決――という名の、もはや天下一武闘会――でエルマが大立ち回りを見せてからというもの、ルーカスはこうして折に触れて、熱心に入団を勧めてくるのである。


 今の彼の騎士団での身分は、中隊長。

 年齢の割にかなりの地位と言えるが、それは第二王子という生まれではなく、優れた剣技と、時間をかけて築き上げた人望によって獲得したものだ。

 多少色は好むものの、ルーカスの騎士団への忠誠は厚く、彼は心からその発展を望んでいた。


 そしてその「発展」を考えたとき、エルマというのは喉から手が出るほど欲しい人材だったのである。


「前代未聞がなんだというんだ。おまえが入団すれば、それが『前例』になる。その後それに勇気を得て、武に優れた女や、身分に恵まれなかった者たちが続々と入団してくるかもしれないぞ。そうすれば、見事おまえは『普通』の女だ」

「屁理屈にすらなっていない謎理論を展開するのはおやめくださいますか」


 エルマは取り付く島もない。

 接触を重ねるうちに、ある程度本性はばれてしまっていると考えたのだろう。当初のような「男性への恥じらいを見せる初心な少女のふり」すらしなくなっている。


 可愛げのなさにも少々思うところはあるが、それ以上にエルマの頑なさに業を煮やして、ルーカスは顔を顰めた。


「おまえの『普通』への妙なこだわりはなんなんだ。それ以上に、その基準はなんだ? 見学だけでいいと連れていったときには、たったひとりで団員全員の手当てまでしてくれたというのに。あのときは、割と乗り気に見えたが」

「……あれは、教科書の解釈を違えた私の過ちでございます。ご放念くださいませ」


 エルマは、眼鏡で素顔を隠したまま、少々ばつが悪そうな様子を見せた。


 彼女が現在吸収しつつある「常識」によれば、「騎士団の訓練を熱っぽく見守る」のも、「傷ついた男性をかいがいしく世話する」のも、「普通」のはずだったのだ。


 ただ、その延長で、見学中にうっかり副隊長の太刀筋を見切ってしまったり、世話のつもりで手当てをひとりで完結させてしまったりし、それをエルマとしては大いに反省していた。


「教科書?」

「普通の女の子を目指すのならばこの辺りを読めばよいと、ロマンス小説なるものを大量に貸していただいたのです」


 ルーカスは天を仰ぎそうになった。

 親切のつもりかもしれないが、なんというものを教科書として提示してくれたのだ。


「イレーネか? 勘弁してくれ……。あんなものに行動を準拠されたら、たまったものではない」

「いえ、恐れながら、貸してくださったのはゲルダ侍女長です」

「そちらか……!」

「ちなみにイレーネは、いわゆる薄い本と言われる系統のほうが好みだそうです」

「薄い本?」


 怪訝な眼差しを寄越したルーカスに、エルマは言葉を選ぶような間を置いて問うた。


「……ちなみに殿下におかれては、『攻め』の対義語はなんだと思われますか?」

「『守り』ではないのか?」

「――なるほど。殿下とは生涯無縁のジャンルの話のようです。今のやり取りはご放念くださいませ」


 あげく、そんなふうに誤魔化されてしまう。

 気になったルーカスは執拗に尋ねたがはぐらかされつづけ、むっとなったルーカスは「おい」とエルマの腕を取った。


 と、掴まれた腕をまじまじと見ていたエルマが、ふと顔を上げ、じっとルーカスのことを見つめる。


「……そういえば、のべ三十五冊のうち、三十三冊までもが、主人公ヒロインに険悪に接してくる騎士が、実は激しい恋情を秘しているというものでした。まさか――」

「待て二次元と三次元を混同するな。あれはフィクションですらない。ファンタジーだ」


 野暮ったい眼鏡姿の侍女に、「うわ……」みたいな視線を向けられて、ルーカスは素早く手を離した。

 というかこの眼鏡はなんなのだろう、素顔を隠しているはずなのに、まざまざとドン引き感を表現してかかるなど、もはや眼鏡の域を超えたなにかだ。


「今こそ俺の微表情とやらをよく読んでくれ。これが、女に恋する男の顔か?」

「どちらかといえば、未知の生命体を前に緊張と好奇心を隠せないでいるような表情にお見受けしますね」

「すごいな微表情」


 ストライクゾーンの広さには自信のあったルーカスだが、不思議なことに、この少女には現時点でちらりとも欲が刺激されなかった。

 好奇心は大いにそそられるし、面白い娘だとは思うのに、なぜだろう。


 それはこの冴えなく見せている容貌のせいかもしれないし、――あるいは、彼女のほうがひとかけらも、こちらに異性としての興味を抱いていないからかもしれない。


 そういえば、第二王子という身分やこの顔、あるいは騎士として鍛えた身体や振舞いに、まったく興味を示されなかったのは、これが初めてかもしれないということに、ルーカスは今更のように思い至った。

 駆け引きでも腹の探り合いでもなく話せる異性など、貴重だ。


「――なあ、おまえ。やはり、騎士団に加わらないか?」

「なにがどうやはりなのか、わかりかねます」


 ルーカスはこれまで以上に真剣に誘い掛けたのだが、エルマはついと顎を引き、次いで滑らかな動きで接近を躱すと、床に置いていた掃除道具を拾い上げた。

 聖堂の掃除を言いつけられていたところを、王子に見つかったのだ。


「お話がそれだけのようでしたら、恐れながら、聖堂の清掃業務に取り掛からせていただけますでしょうか」

「この広い聖堂内を、すべてひとりで掃き清めるのか?」


 怪訝な声での問いにも、エルマの答えは淡々としていた。


「一瞬で済みますので」

「……やはり入団――」

「殿下もどうぞ、騎士団の訓練にお戻りください。即位式に向け連日式典準備に追われているさなか、中隊長ともあろうお方がこのように職務を離れてよいはずがございません」


 食い下がろうとしたところを、ぴしゃりと跳ね除けられる。

 が、それに対してルーカスはにやりと笑ってみせた。


「どうせ今日はパレードの予行演習だけだ。鎧をかぶれば誰が誰かはわからんから、俺の馬に勝手に乗ろうとした愚か者の新人を、罰として代役に立ててきた。やつも本望だろう。よって、今日の俺は正々堂々自由の身だ」


 ぬけぬけとしたサボり工作である。

 それは正々堂々とは言わないのでは、と、エルマがもっともなツッコミを入れようとしたところに、しかしそれは起こった。


「ルーカス様――!」


 聖堂の扉が慌ただしく開いて、少年が駆け込んできたのである。


 そばかすの残った顔に汗の粒を浮かべた彼は、どうやら騎士団の小姓のようであった。

 ルーカスよりは色の浅い紺色の、紋章入りのベストを身に着けている。


「マルク? どうした? よくここがわかったな」

「よくわかったな、じゃありませんよ、めちゃくちゃ探しましたよ……! 逢引するなら、もっとそれっぽい場所にしてくださいよ、もう!」


 マルクと呼ばれた少年は、あどけなさの残る瞳できっとこちらを睨みつけてから、表情を引き締め、拳を握った。


「トラブルです。ルーカス様の乗るはずだった馬が、パレードの演習中に突然暴れ出して人をふるい落とし――代役をしていたテオが、足の骨を砕かれました。はっきり言って……ひどい怪我です」

「なんだと――?」


 ルーカスが眉を寄せる。


「今、慌てて聖医導師を呼びに行っていますが……ひとまず、ルーカス様もお越しください。そちらのお相手には悪いですけど――って、あ! エルマさん!?」


 険しい顔で報告していたマルクが、ルーカスの背に隠れていたエルマに気付き、声を上げる。

 彼は逢引などと言っていたくせに、ルーカスとエルマの恋仲を疑うことすらせず――あまりにありえない取り合わせだからだ――、ぱっと顔を輝かせた。


「エルマさん、よかったら我々と来ていただけませんか!? 聖医導師にもいろいろ派閥があって、今日はフェリクス殿下側のいけすかない新人しか駐在していないみたいなんです。彼が来るまでに、エルマさんが手当をしてくれれば、少しは状態も――」

「馬鹿を言うな。それは聖医導師の領分だろう」


 言い募るマルクを、ルーカスが遮る。

 彼は素早く踵を返すと、早くも事件の現場へと足を向けはじめていた。


「ですがルーカス様。エルマさんなら、その辺の女性と違って血を見て卒倒することもないでしょうし――」

「言っておくが、俺だってこいつ相手に、男だ女だの問題を云々するつもりはないさ。だが、それほどの怪我だというなら、手当などしても意味がないだろう」


 必要なのは回復魔法だ。

 お姫様の看病で騎士が回復するのは小説や歌劇だけの話で、現実に今求められるのは、確実に傷を癒すことのできる聖力である。


 冷静に言い切ってその場を去ろうとしたルーカスだが、その背を、淡々とした声が呼び止めた。


「お待ちください」


 眼鏡を反射させた、エルマである。


「二次元と三次元を混同させてはなりません。魔法で怪我が癒えるなどというものは、フィクションですらなくファンタジーだと、私は【貪欲】の兄に教わりました」

「なんだと?」


 彼女は、人差し指でブリッジをくいと持ち上げて、さも常識を告げるかのような口調でこう言った。


「普通、大怪我をしたときに必要なのは、祈りよりも――外科手術オペですよね?」

「――……おぺ?」


 耳慣れぬ言葉に、ルーカスとマルクは顔を見合わせた。

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