3.「普通」のお茶汲み(3)

 ユリアーナは苛立っていた。

 こんな侮辱を受けるのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。


「――それで、今日わたくしにお茶を用意してくれるのは、あなただというのね?」

「恐れながら」

「グラーツ夫人でも、アマーリエでもコリンナでもなく、今日が初出仕の、あなただと」

「さようでございます」


 慇懃に頭を下げられて、ユリアーナは思わず扇をぱちんと閉じた。


 隠居生活の――いや、この息苦しい王宮生活での唯一の楽しみは今日、台無しになるのが確定したようなものだ。

 ついため息が漏れる。


 ユリアーナがこれまで、お茶の淹れ方を理由に侍女を多くクビにしてきたのは事実だ。

 ただしその多くは、己と息子の身を守るためだった。


 たとえばかつて、とある侍女を半裸で屋外に追い出したのは、紅茶に毒を仕込み、服の下に短剣を忍ばせていたためだった。

 またある侍女を虫責めにしたのは、幼い息子の寝室に、彼女が毒虫を撒いていたからだった。

 どちらも、第一王子フェリクスを確実に即位させたいという、とち狂った親心と妬心を炸裂させた、正妃の差し金だ。


 ユリアーナは水際でそれを躱しつつ、正妃を糾弾することもまた避けた。

 同時に、「苛烈妃」との謗りを受け、後宮内で孤立することも、自らに許した。

 自分のもとに出入りする侍女が限られれば限られるほど、安全性は高まる。


 結局、自分に仕える侍女たちは、極端にお人好しな侍女長を除けば、始終ユリアーナに怯える者たちばかり。実の息子すら、彼女の真意を理解しているかわからない。

 だが、ユリアーナはそれで構わなかった。

 悪評に胸を痛めるなど、命と尊厳が守られて初めてできることだからだ。


 とはいえ、ヴェルナー王の崩御でフェリクスの即位がほぼ確実となり、正妃もようやく矛を収めたであろう今、もはや必要以上に悪評をばら撒くこともない。

 ようやく、怯えている侍女にも、多少は優しく接することができる――そしていずれは、だいぶ綻んでいる息子や侍女長との関係も修復をと思っていた矢先に、これである。


(……わたくしの大好きな紅茶は、このぱっとしない新米侍女に煮詰められてしまうのかしら)


 まずい茶を淹れられると不機嫌になること自体は、事実である。

 ユリアーナは、目の前の侍女に懐疑的な視線を向けた。


 簡素にまとめた黒髪に、顔の半分ほどもありそうな分厚い眼鏡。

 服装は清潔なのに、どこか野暮ったい。

 表情も乏しく、全体的に冴えない、平民上がりと思しき侍女――


(――……え?)


 とそのとき、不思議なことが起こった。

 エルマ、と名乗った少女が、すっと身を起こし、ほのかな笑みを浮かべたのである。


 まるで、頭の上からぴんと一本の線で引っ張られたような、しなやかに伸びた立ち姿。

 とたんに、どこか身の丈に合っていないようだったメイド服が、絶妙に体のラインに沿っているように見える。

 均整の取れた、美しいスタイルだ。


 ほんのりとした笑みを象る唇も、どうして今まで気付かなかったのかというほど、美しい形をしている。

 左右が完璧に対象で、品のある口元である。


 ただ背筋を伸ばして、笑みを浮かべただけ。


 それなのに、目の前の少女が、冴えない平民から、急に典雅な貴婦人へと変身したかのように思える、それは劇的な変化であった。


「あなた……」


 思わず、ユリアーナが扇を握った手を差し伸べかける。

 しかし、エルマはふと空を見上げ、太陽の位置を確かめると、「頃合いです」と静かに頷き、


「それでは恐れながら、お茶のご用意をさせていただきます」


 庭にセットされた椅子に腰掛けるよう、ユリアーナに向かって優雅に頭を下げた。





 それから数十分の間に起こったのは、すべてユリアーナの想像を超える出来事であった。


「お茶の銘柄はいかがいたしましょう。初摘みのレーベルクのほか、シュトルツ、クレーデル、お好みでハニッシュもご用意しております」

「そ、そんなに……? しかもレーベルクの、それも初摘みですって? ならばそれを」

「かしこまりました」


 レーベルクの茶葉は、険しい山の山頂付近でしか取れない、流通量も限られた大変貴重な茶葉だ。

 紅茶好きの貴族の多かった母国ならまだしも、ルーデン王国に嫁いできてからはほとんど口にしたことがなかったため、ユリアーナは一も二もなく飛びついた。


 それにしても、平民上がりとは思えぬ紅茶への精通ぶりだ。


「なお、ミルクは三種用意しております」

「さ、三種……?」


 なにをどう三種なのかと思えば、牛の種類を取り揃えているのだという。

 母国でもなかなか見ぬ充実ぶりである。


「レーベルク、それも初摘みですと、ミルクは加えなくてもよいくらいなので、最も風味の控えめなアーベライン種などお勧めでございます」

「で……、では、それで」


 この時点で、もはやこの少女が淹れる紅茶は、母国の最高位貴族クラスのクオリティとなるに違いないと、ユリアーナは確信した。


「それはようございました。本日、アーベライン牛・モーリッツの機嫌は実に麗しく、ミルクも間違いなく最高の味わいでしょうから。――モーリッツ、カモン!」

「今から搾るの!? というかその牛は今どこから現れたの!?」


 いや、超すかもしれない。

 ユリアーナは、牛に話しかけながら手際よくミルクを搾る侍女を、呆然と見つめた。


 新鮮なミルクを確保し、牛を視界から丁重に追い出すと、続いてエルマは、滑らかな手つきで茶葉をポットに移し、傍から見ても間違いなく適温とわかる湯を注ぎ入れ、コジーをかぶせた。

 蒸らす間、邪魔にならない程度の、かつ実に興味深い、軽妙なトークで場をつなぐ心憎さである。


 そうしてあっという間に蒸らしを終えると、彼女は軽々と白磁のポットを抱え上げ、もう片方の手に持ったカップへと紅茶を注ぎ入れた。


 折しも、陽光のまぶしい昼下がり。

 空高くから差し込む祝福の光は、琥珀色の液体をきらきらと輝かせ、滑らかな軌跡を描きながら優雅にカップに収まっていく紅茶は、まるで天と地上とをつなぐ虹のようだった。


(う……美しいわ……!)


 ただ紅茶を注ぐだけの行為の、その芸術性に、ユリアーナは頬を張られたような衝撃を覚えた。


「どうぞ、お召し上がりくださいませ」


 やがて差し出された紅茶は――完璧だった。


 そう。完璧。

 色も、香りも申し分ない。


 直感が告げている。ミルクなど加えず、まずはこのまま飲めと。


 その声に従い、紅茶好きの妃は、逸る手つきでカップを掲げた。


 ひと口含めば、舌に心地よい温度と繊細な渋みが広がり、飲み下せば優雅としか言えない戻り香を感じる。

 なんということだろう。

 こんな、好みのど真ん中を全力で仕留めに掛かってくるような紅茶、初めてだ。


「――……ああ……!」


 感極まって、ユリアーナは恍惚の叫びを漏らした。


「最高よ……!」





 庭へと足を踏み出しかけたルーカスとゲルダは、その姿勢でしばし固まり、互いの顔を見つめた後、ふたたび庭で茶を嗜むユリアーナの姿を見やった。


 美貌を険しい表情で固めていることの多かった彼女が、今や満面の笑み――いや、陶然の色に頬を染め、叫んでいる。

 心からの歓喜が漏れだしたと言わんばかりの面持ちは、傍目にも実に眼福で、見ているこちらの心まで洗われそうである。


「で……殿下の満面の笑み……? なんなの……? 幻覚なの……?」


 ふと、斜め後ろから呆然とした呟きが聞こえる。

 ぎょっとして視線を向ければ、そこには顔色を真っ白にした金髪の侍女――イレーネが佇んでいた。いや、佇んでいるというよりは魂が抜けたような状態で、茂みに半ば倒れ掛かっている。

 憧れの第二王子がすぐ傍にいるというのに、しなを作る余裕もないようだった。


 どうやら、ゲルダ侍女長からともに謝罪に参じるよう命じられたのち、一足先にこの場に到着し、ルーカスたちと同様硬直していたらしい。

 微笑を見ただけで夏に雪が降ると言われる苛烈妃の、渾身の笑みを目の当たりにして、その激レア度に身震いしているようだ。


 いや、厳密に言えば、イレーネに衝撃を与えたのはそればかりではない。


「四人が一日かけて完遂する仕事量を、午前中だけで終えたばかりか、そのすべてが完璧だなんて……」


 ユリアーナの茶の準備よりも前にエルマがこなした仕事の数々が、ことごとく恐ろしいレベルで完了していることに、イレーネは心底慄いていたのである。

 しかも、紅茶を振舞うエルマにはかけらも疲労の色は見えない。


 さらには。


「スコーンまで召し上がりましたら、続きましてこちら、本日のスイーツでございます。完成までの過程を楽しめるよう趣向を凝らし、あえてティースタンドにはセットせず、直接取り分けますこと、なにとぞご容赦くださいませ」

「まあ……!」


 三人が見守る先では、エルマが恭しくスイーツの用意を始めるではないか。

 それも、イレーネやゲルダはもちろん、ルーカスですら見たことのない調理器具がセットされたワゴンを押してきて――もはや、ここからなにが起こるのか、想像もつかない。


(なんだあれは……? とろみのある生地と薄い鉄板を見るに、クレープでも作るのか……?)


 第二王子として、古今東西のスイーツを口にしてきたルーカスは、辛うじてそんな当たりをつける。

 が、エルマの行動は、それよりももう少しだけ上を行っていた。


「まずは口当たりよく、とろけるような柔らかなクレープを作り」


 手際よくクレープを焼き、美しくひだを寄せながら鉄板の中央に集める。


「続いてアルコール度数の高い蒸留酒を振りかけ――なお本日は、香り高いグロースクロイツ産のブランデーを使用しております」


 踊るような手つきで鉄板上のクレープめがけて瓶を傾け、エルマはさらにマッチの火をかざした。


「フランベ」


 ――ボッ!

 とたんに、美しい炎が天をめがけて飛翔していく。


「きゃあ!」


 ユリアーナは悲鳴を上げ――といっても、恐怖ではなく歓喜の悲鳴だ――、息をつめて胸を押さえた。


「なんてこと……胸の高鳴りが、止まらないわ……!」


 興奮のあまり、表情がもはや少女のそれになっている。

 エルマは手早くクレープを皿に装い、フルーツやソースを散らして盛り付けると、手早く用意したほか二品のスイーツと併せてユリアーナに差し出した。


 そして、くいっと眼鏡のブリッジを持ち上げた。


「本日の品は、東洋の神秘、スピリチュアル・ゼンにインスパイアされた三部作。左から順に、『カルマ』、『涅槃ねはん』、『悟り、その先へ』と申します」


 ――なんかすごい名前付いてる――!

 ルーカスたち覗き見三人衆の心の声が、奇しくも一つになった。


「素晴らしいわ……! なるほど、人を魅惑し堕落させる馥郁たる香りを残しながらも一瞬の残像を残し消えてゆく炎というのが生まれながらにして人間に宿命づけられた禍々しくも甘美なる罪業すなわちカルマを表しているというのね……!」

「仰るとおりでございます」


 ――しかも通じ合ってる――!

 ルーカスたちは、冷や汗を浮かべながら互いの顔を見合わせた。


『ああ……! なんということなの、ルーデンの地を踏んでからはや二十年。いえ、ラトランド時代まで遡っても、このように含蓄に富む美しいスイーツに出会ったことはなかったわ!』

『過分なお言葉を頂戴し汗顔の至りでございます』


 あまつ、興奮のあまり母語のラトランド語で捲し立てはじめたユリアーナに、エルマはがっちりとミートしていくではないか。


 ――語学堪能――!?

 再三、ルーカスたちは声をそろえて脳内で叫んだ。


 が、衝撃はそれだけにとどまらなかった。


『――あら、それにしても、ずいぶんと量が多いわね?』


 我に返ったユリアーナがふと首を傾げると、エルマがひとつ頷き、かと思うと次の瞬間には、テーブルにあと三人分の席が追加されているではないか。

 動体視力に優れたルーカスですら目を疑う、一瞬の早業だった。


 まさか、と三人が息を呑むよりも早く、エルマが声を上げた。


「そちらの茂みにいらっしゃるお三方。本日のこの陽気、さぞ喉も渇いておいででしょう。――ユリアーナ殿下に申し上げます。ご令息ならびに侍女長、そして願わくは私の敬愛する先輩侍女に、ご相伴の栄誉を頂戴しても?」


 ルーカスたちが覗き見していたことなど、お見通しというわけだ。

 いけしゃあしゃあと同席の許可を求められたユリアーナは一瞬きょとんとし、それからルーカスたちの姿を認めると、弾けるような笑い声を上げた。


「まあ! あなたたち……!」


 なにがそんなにおかしいのか、涙まで浮かべて笑っている。


「ええ。……ええ、そうね、そうしましょう。ふふ、……なんだか夢みたい」


 本当は、ずっとこうしてみたかったの。

 小さなラトランド語の呟きは、おそらくルーカスとエルマだけに聞こえた。



 ついでに言えば、三人が初めて口にしたスピリチュアル・ゼン・スイーツは、どれも軽く昇天しそうなほどの美味しさであった。

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