羽音スタンドアローン

ふにゃこ(水上える)

第1話

 ちらちらと目の前がちらついては、俺は焦点を結び直す。


「なにやってんだてめえ! ふざけんな!」


 不愉快なほどの怒号を発して殴りかかってくる男を流して避ける。頭に血が上ってるやつは動きが単調になる。足をかけてやったら顔面から地面に突っ込んだ。


 ぶわっ……と、耳に障る羽音をあげて、衝撃に反応したのか、男の頭あたりから黒いざわざわした虫のようなものが大量に空中に舞い上がった。

 ああ、それとも、動きが単調なのはやつらに操られているからなのかもしれない。


 鼻血を吹きながら男は虚ろな目で立ち上がる。

「許さねえ……こいつ……もうががわかたなへばらときとおっさめめ」

 駄目だ、きっと既に脳の深いところまで侵されてしまったに違いない。

 つらかっただろう……俺が救ってやるよ。もう苦しまなくていい。もはや自分の意思とは無関係に怒り狂っているのだ。


 俺はそっと男の頭を抱え込むと、首にナイフを突き立てた。


 □ ■ □


 いつからか俺にはそれが見えるようになっていた。


 蟲、と俺はそれを呼んでいた。羽虫のようだったり、ムカデのようだったり、形はさまざまだったが、虫よりおぞましい蟲、という字が合っているように思えた。見るからに邪悪な存在だった。


 無闇に怒りを撒き散らしている人の頭には、必ずと言っていいほどそれが付いていた。負の感情を放出すればするほど、そいつらは数が増え、大きくなっているようだった。


 やがて俺は気付いたのだ。この蟲が原因で、彼らはどうしようもなく怒り狂ってしまっているのだと。これに取り付かれると、理不尽に怒り出し、凶悪な性格へと豹変してしまうのだと。この蟲は負の感情を食うために人に寄生しているのだと。


 そしてこの蟲はどうやら俺にしか見えないようなのだった。



 ある日の放課後、なぜか担任教師に呼び止められた。困ったような顔をして、俺の授業中の態度やなんやかやについて注意してきたのだが、いまひとつ俺には思い当たることがない。

 些細なことについてだらだらと話していたかと思うと、教師は突然激昂した。


 俺は気付いた……蟲だ。


 わけのわからないことを叫び出した教師の耳から、たくさんの足をもった巨大な蜘蛛のようなものが這い出してきた。

 足を大きく広げてこちらを威嚇してくる。

 まさか、俺が蟲を「処分」していることに気付いた蟲たちが……俺を狙ってきたのだろうか?


「先生、落ち着いてください。話はできますか? できませんか?」


 声をかけてみるが、もう教師は髪を振り乱して奇声を発するだけだった。人間とは突然感情を抑えられなくなることがある。いったんそうなると誰にも止められないのだ。俺はそれを何度も見てきた。制御できない怒りの感情に飲まれたとき、人は他人の声など耳に入らなくなってしまうのだ。よく知っている。俺はそれをよく知っている。


 こうなってしまったら、もう取れる手段は他にはないという、そういうことなのだ。


 蟲に取り付かれて狂乱した人間は、凶悪な人格へと書き換えられてしまい、元には戻らない。しかし、かすかに残った本来の人格が、いやだこんなことはしたくないのだと、心の奥深くで泣いているのだ。そして願うのだ、こんなことを無理やりさせられるくらいなら死んだ方がましだ、と。誰か救ってくれと、悲鳴をあげ続けているのだ。

 俺は覚悟を決めた。

 だが手元に武器がない。いったん逃げようと教室の出口に向かった。


 飛び出した廊下でクラスメイトにぶつかった。危ない。おまえ、はやく逃げろ。そう言おうとしたのだが、


「ああいうの、よくないよ?」


 クラスメイトは眉をひそめて俺を引き止めた。

 なにをやっているんだ。あのおかしくなった教師の声が聞こえないのか?


「注意されて逆ギレとかありえないでしょ」

「いきなり向こうがキレたんだよ!」

「いややりとり聞こえてたから。いつもそういう嘘つくのもやめなよ。人のせいにしないで。ちゃんと話を聞きなよ。前から思ってたけど、なんなの君? 人と会話できないの? なんで突然怒り出して逃げたりするの? キレ癖付いてるくせに他人を非難するときだけ立派なこと言うよね、なんなの正義のつもりなの?」

 それはこっちの台詞だ。こいつまったく会話ができないじゃないか。

 俺は思い当たった。まさかこいつにも蟲が付いているのか……!

 これは罠だ……!


 俺は廊下の端まで走り、掃除用具入れを開けると箒を掴んだ。これでやれるか?

 考えている暇はなかった。きっと、学校内で蟲が増殖しつつあるのだ。汚染がはじまっているのだ。俺が止めなければならない。発狂した蟲付きが見境なく暴力をふるい人を傷付ける前に、俺が止めなければ。俺がみんなを守らなければならない。それは蟲が見える俺にしかできないのだから。


 立ちはだかっていたクラスメイトの腹を俺は箒の柄で突いた。腹部を押さえてうずくまった肩を蹴って転がし、スカートを踏み付けて動きを止める。怯えた表情で見上げてくるその目をさらに突き、上を向いた彼女の喉に柄を振り下ろす。助けて、助けてと彼女の悲鳴が聞こえている。ああ、蟲に操られるのはさぞ苦しかろう。こんなことはしたくないのだろう、わかってる。助けてやる。終わらせてやるから。人のものとは思えないような絶叫が響き、そんな声しか出せなくなった彼女がかわいそうで、俺は肩を踏んで固定して、その声が聞こえなくなるまで何度も何度も箒の柄をえぐるように喉に突き立てた。


 人が集まってきた。やはり包囲されていたのだ……虚ろな目でこちらを見つめる生徒たちはどいつもこいつも蟲だらけだった。

 後頭部に衝撃を受けて振り返ると、教師が震えながら椅子を掲げていた。

「何をしてるの……あなたはなにをしてるの……!!」

 ぼろぼろ涙をこぼして教師は泣き叫んでいる。

「110番、したから……」

 パトカーのサイレンが近付いてくる。

 ああ、ここまでなのか……守り切れなくて、すまない……


 警察に捕まれば、俺がやったことは許されないことなのだということは理解していた。表向きだけ見れば殺人なのだ。当然だ。

 でも、後悔はない。誰かがやらなければならないことだったのだ。みんなを救うために。誰も傷付かない世界をつくるために。


 弁護士が開口一番に言ったのは


「反省はしてるの?」


 ということだった。


「みんなを守りたかったんです」


 俺はそれだけ答えた。

 弁護士は目を見開いて、「ほんとに……」と呟くと、ゆっくりと話をはじめた。

「先生に注意されて逆ギレして、諌めようとした生徒の言葉に逆上して殺してしまった……と聞いています。あなたは誰を守ったの?」

「世の中の善い心を持った人たちを守りました……わかってくれなくていいです。理解されるとは思ってません。死刑でいいです。でも、悪いことをしたとは思ってないし反省することなんてなにひとつない。みんなを守るために、俺は精一杯やっただけです」

「あなたは、善い心を持った人を、殺したんです」

「俺が殺したのは、人の心を失ってしまった、悲しい人たちです。怒りを収めることもできず、話し合いもできなくなってしまった、対話の道を失って暴力をふるうしかなくなってしまった人たちです」

「それはあなた自身のことではないの? 自分のいやな面を他者に投影してそれを攻撃しているのでは?」


 この人はなにを言っているんだろう。もしかしてこの人にも蟲が付いてしまっているのか。

 いままで俺が見てきた蟲付きは、ろくでもない人間ばかりで、負の心に引かれて蟲が寄生するのかと思っていたけれど……弁護士なんて立派な人ももはや汚染されてしまっていたのか……この世界は、本当に、いったいどうなってしまうのだろう……

 俺が死んだあと、誰かがこの蟲と戦ってくれるんだろうか……

「話を聞いていますか? 会話がしづらいと聞いてはいたけど……急に立ち上がって叫び出すなんてどうしたの? そういうことをするからあなたは……暴れないでらまはなかかかかてへ……話を聞きまぎゃばらあめまめめ」


 俺は耳をふさいで頭を振った。蟲だ。蟲のせいだ。


 ああ、俺が死ぬことで、すべての人の罪を償えればいいのに。だって俺は許すよ、おまえらみんなが、俺にしてきたひどい仕打ちはぜんぶ蟲のせいなんだろう?


 □ ■ □


 私の恋人は殺されてしまった。

 通り魔らしい。

 たまたま、道ですれ違って口論になった、らしい。

 たしかに彼はガラの悪い人だったし、よく揉め事を起こしていた。でも、私は彼を愛していた。彼も私を愛してくれていた。二人で暮らした日々はこの上なく幸せだった。


 メールの着信。

『あんな男死んでよかったじゃない! やっと解放されてせいせいしてるでしょう(笑) これからがあなたの本当の人生よ!』

 長い付き合いの友達からだ。どうしてそんなことを言うの。


 なにもやる気が起きない。

 せめて音楽をかけようとパソコンの電源を入れる。事件のネットニュースが目に入ってしまう。やめればいいのに読んでしまう。

『学校の同級生を校内で殺害して通報されてその場で逮捕。なんとそれまでに通り魔的に6人も殺害していた。加害者の少年は、ふだんからキレると手が付けられなくなるので周囲も困っていたらしい。だが、取り調べでは人を守るために罪を犯したのだと言っているそうだ』


 彼の知り合いの証言。

『へんな事件ですけど、でも、もしかしたらそうかもしれないって思っちゃう部分もあって。正直、借金もかなりあったらしくて。彼女は純粋だから、騙されちゃってたんですよ。殺人はもちろんよくないですけど、犯人がそう言ってるんならそうだったのかもしれない。少なくとも彼女は守られたんだと思います。ほんとに駄目な男でしたから。死んだ人を悪く言うのもなんですけど、まあほんとにろくでなしで。これをきっかけに新しい人生を歩んでくれたらいいと思います。彼女には幸せになってほしいですね』


 どうしてそんなことを言うの。

 どうして……どうして。

 彼が死んで、一晩ですべてが変わってしまった。まわりの人間すべてが敵になってしまった。温かく見守ってくれているのだと思っていた友人たちは、手のひらを返したように彼をなじり出した。


 ずっとあの人はおかしいと思っていた。


 いつかこんなことになるんじゃないかと思っていた。


 被害者でよかったじゃないか、加害者になっていたらおまえも一緒に後ろ指差されるところだった。


 よかったね。

 よかったね。


 みんな善意でそれを言うのだ。私をフォローしようと、私を気遣って、私のためを思って、それを言うのだ。私は彼に苦労しかしていなかったはずだと、私を理解しているのだ。

 そして私は気付いた……いや、いままで気付かないふりをしていた、気付かずにいたかった。

 自分の幸せなんて「幸せではない」のだ。他者から見て幸せだと認識されなければ、その幸せは存在しないのと同じなのだ。それは不幸せに見えても駄目だし、幸せすぎても駄目だ。不幸せに見えたら見下されてマイナスだし、幸せすぎたら嫉妬を買ってしまって不幸せ以上に不幸せというふうに扱われる。現実が見えてないから不幸。身の程を知らないから不幸。人の気持ちが思いやれない人は不幸。明らかに幸せと見てわかる、かつ他人が放っておいてくれる程度の、そこそこの幸せがいちばん高得点で勝ち。狂人が見たとしても明らかにそうであることが示せた人が勝ち。

 この人間社会とはそういうルールのゲームなのだ。


 ああ、そんなくだらないルールなんて考えなくても付き合えたから、私は彼を愛せたのだ。誰が文句を言おうと好きにやるあの人だから、私は深く、本当に心の底から愛していたのだ。偽りのない気持ちがそこにあったのだ。


『あんな男と付き合っててみんな心配してたんだよ。結婚したら絶対DV夫になるし、子供も絶対虐待してたから! 身も心もすり減らされる前に縁が切れて本当によかったよ! ぶっちゃけ、悪夢から目が覚めたような気がしてるでしょう? 無理してたんだって気付いたでしょう、みんなわかってたからさ! 恋人が死んだんだから落ち込まなきゃいけないとか世間体気にして閉じこもってるのかもしれないけど、そんなこと気にしなくていいんだよ! ほとんど洗脳されてたんだから。本音言っちゃえば楽になるよ。喜んだってバチ当たらないよ。うちらもみんな喜んでるから大丈夫だよ! あ、さすがに人が死んで喜ぶのは不謹慎かな(笑) とにかく、人生のどん底は抜けたんだよ! これからもうあとは幸せになるだけなんだから、胸張って行こう!』


 そのメールの文面が私の心をおもしろいように削っていく。

 彼を美しい思い出にすることすらも、このゲームは許してはくれないのだ。私の幸せは偽りだったということでなければ認められないのだ。私が幸せだと思い込んでいるだけの、洗脳と脅迫の結果なのだ。彼と共に過ごして幸せだった私は誰の心にも存在せず、つまりそんなデータはどこにもセーブされていないのだ。

 しかしゲームに参加しない人間は、人間とは認められない……しかしゲームに参加するからには人間的な喜びは捨てなければいけない……私にとっては。私にとっては。ただの獣と呼ばれたくなかったら家畜になれ……そんな選択肢、それがこの場で人間であるためのノルマ。


『正直、別れさせてくれなくて困ってたんだ。殺人鬼に感謝しなきゃね。でも彼とのお付き合いはいい経験になったよ。二度とあんな男に引っかからないように、見極める目は成長したから(笑)』


 そんな「正解」の返信を打っては消してを繰り返す。


『怠惰だし、金遣いはひどいし、自分勝手だし、言うこと気分でころころ変わるし、人の気持ちは考えないし、本当にろくでもない男』


 本当に、ああ。そこが好きだった。だから好きだった。

 私はどうすればいいのだろう。

 こんな世の中、いったいなんの意味があるんだろう。

 彼が部屋に置いていった酒の空き瓶に挿した花が茶色くうなだれて、はやく捨てろと主張してくる。彼が散らかした雑誌。彼の食べかけのスナック菓子。明日また履くから置いといてと言って脱ぎ捨てたままの彼の靴下。


 睡眠薬を握り締めて、私は、彼の側に行くことばかりを考えている。


 □ ■ □


 今日もたくさんの観客が来てくれた。


 舞台の上から見る客席は、怒りに満ちている。一様に刺すような非難の眼差しを私に向けてくる。私は内心の怯えをなるべく見せないように、怒りの形相が視界からはずれるように虚空を見つめながら、ただひたすらに歌う。


 声はホールを包むように響き、そして蟲の羽音もまた振動を重ねる。まるで私の声に応えているかのようだ。


 観客の頭上にはたくさんの蟲が、這ったり飛んだりしている。大きい蟲が付いている人もいれば、数え切れないほどの数の蟲が付いている人もいる。


 蟲が付いている人も付いていない人も、どんな数形の蟲を付けている人も、みな等しく怒っている。


 そうして一曲歌い終わる。拍手と怒号。怯みそうになるのをこらえて、私は深くお辞儀をする。ざわめく音が一段と深くなる。


 あれは喝采なのだと天使が伝えてくるが、もはや私にはどちらでもいい。


 それは私にそう見えているだけで、みな私の歌を称賛してくれているのだと天使は言う。


 天使はきっと正しいのだろうけれど、天使を信じることは正しくはないのかもしれないし、称賛であることだけを受け入れるのは、怒りであることだけを受け入れるのときっと変わらない。


 ただ、ただ私は、いま私を殺さないでここでこうして歌うことを許してくれる観客たちに感謝し、平和への祈りを込めて歌う。


 隣人同士で殺し合わないでいてくれる観客たちに、深い感謝を捧げる。


 ありがとう。


 できれば、このホールの外でも、みながなにかを許しあえますように。


 どうか、世界が静かで安らかでありますように。


 □ ■ □


 今日も彼女の歌は最高だった。

 観客の誰もが拍手喝采し、惜しみない称賛を送った。

 ライブの帰り道、電車の中で僕は感動を噛み締めながら、かの歌姫の動画を見てまた今日の彼女の姿を思い出す。

 彼女の歌を聞いて、平和への祈りを感じない人はいないだろう。

 でも、きっと彼女のことを本当に理解しているのは僕だけなのだろうと思う。

 時折ひどくなにかに怯えたような様子を見せるのだ。その正体に気付いているのはきっと僕だけだ……なぜなら、他の人間にはあの蟲は見えていないのだから。


 彼女の美しい世界を守るためなら、僕はどんな罪だって犯そう。彼女を脅かすあのおぞましい存在を、いつか必ず、一匹残らずこの世から殲滅してみせる。

 僕にしかできない、使命なのだから。

 鞄の中のバールを握り締め、蟲を狩るために僕は夜の街へ歩き出した。



《了》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

羽音スタンドアローン ふにゃこ(水上える) @funyako666

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ