不敗の男

朝倉亜空

第1話

「なんだてめー、表出やがれ!」

「ああ、やってやらぁ!」

 見るからにガラの悪そうなその男に促され、おれは居酒屋の外に出た。

 俺は二十歳の大学二年生。今日はバイト代が振り込まれる日だったので、その金を引き出し、まずは一杯と、馴染みの居酒屋へ入っていったのだが……。

 事の次第はこうだ。

 おれがカウンター席で飲んでいると、ちょっとした騒ぎが始まった。あるお客のグループが店の接客のカワイイ女の子にちょっかいを出し始めたのだ。当然のようにそれはエスカレートしていき、初めは何とか軽くいなそうとしていた女の子なのだが、それでは全く手に負えず、しまいには大声で嫌がり始めた。おれとそいつら以外にも、チラ、ホラ、と客はいたにも拘わらず、これまた当然のようにみんな知らん顔、店の連中も困った顔で観てるだけ。自分で言うのもなんだが、曲がったことが大嫌いで、正義感が熱く燃えだすタイプのおれはそこで立ち上がり、グループのリーダー格と思しきひときわ大柄な男に対し、止めに入ったら、冒頭のセリフが出てきた、という訳である。

 肩をいからせ、大股で店の玄関に向かって歩いていくその男の後を、おれも静かに歩き出した。おれの視線は丁度そいつの首筋あたりだった。そして、おれは歩を進めながら、ゆっくりとすぅー、と息を吸い、それを今度は、はぁー、と丹田に集中させるようなイメージで吐き出した。もう一度、すぅー、と吸い、丹田を意識し、はぁー、と吐く。

 店の前の路地におれたち二人は出た。この野郎、一体何様のつもりなんだと言いながら、男がくるりとおれの方へ振り返った。そして、おれの顔を見た瞬間、男の目から戸惑いの色が滲み出てきたのをおれは確認した。

「さあて、何様なんでしょうか~」

やや男を見下ろしながら言った後、おれは三度目のおれ独特の呼吸をした。すぅー、はぁー。

「てめえみてえなクソ野郎をシバくのに、何様かどうかなんて関係あるのかよー」四度目の、すぅー、はぁー。男の目の戸惑いの色が恐怖の色に変わっている。「黙ってねーでなんか言えや、ゴルァ!」

 急角度で相手を見下ろし、おれは吠えてやった。そして、すぅー、はぁー。

「い、いや……、あ、あ、あの」と、身長180センチ程の男が言い、

「何ィ~?声が小さくて、よく聞こえねえんだが」と答えたおれは恐らく身長約230センチはあっただろう。

 ここでまた、すぅー、はぁー。自分の体がググッと膨張したのが分かる。ウン、今のは結構いい膨張だったぞ、20センチ近くデカくなったか。

「店での威勢はどうした。おう!」

「え、その、なんで、……ドユコト……??」

「なにゴチャゴチャ言ってんだよ。てめえみてえなチビ、転がして踏み潰すぞコノヤロー!」

 おれは両手の指の関節をボキボキ言わせ、右足を大仰に振り上げ、バーンと地面に叩きつけた。「それとも、首引き千切ったろーかぁ!」

「は、はい。すみませんすみません。おれ、わたしわたくしが悪かったですゴメンナサイ。ほ本当に許してください。ではしし失礼致します~」

 男は血の気の引いた青白い顔して、おれの前から一目散に走り去った。

 おれは、一息ふぅー、と深く息を吐いた。と同時にみるみるおれの身長が縮まり、168センチ、つまりおれの通常の背の高さに戻った。そのまま再び店の暖簾をくぐり、店内に入っていった。

「おい、お前ら、リーダーは尻尾巻いて逃げやがったぜ。どうすんだ、おれとやれる奴いんのかよ」

 おれは店内に残っていたチンピラ子分どもに言った。

 所詮、親分がいなきゃ、何もできない金魚のフン揃いだ。飲み代だけ残して、即行、店から散っていきやがった。

 おれはその後、店側のお礼の奢りということで、たらふく飲み食いさせてもらい、店を出た。

 おれにはちょっと変わった能力がある。

 もう、分かってもらえていると思うが、自分が戦闘状況に立たされた時、独特の呼吸法で自分の身体を大きく膨らますことができるのだ。

 よく、格闘技の世界では「大男はただ立っているだけで黒帯である」などという。

 この能力を持っているおれからしたら、まったくもってその通りである。格闘素人のおれだが、この力のおかげでケンカは今まで全戦全勝、と言いたいところだが、勝った訳ではないんだなぁ。今回のように、戦う前にいつも相手が逃げるので、全戦不敗が正しいだろう。まあ、全戦不戦勝、と言えなくもないんだが。

 なんにせよ、敵をビビらせたことと、居酒屋で貰った酒がいい感じに回ってきたことで、おれは気分よく商店街を歩いて帰路についていた。

 ドンッ、と不意に左の肩に衝撃が走った。いてぇ、と思ったのだが、おれは気にせずこのまま歩き続けようとした。

「ちょっと待てよ。、人にぶち当たっといて、あんた何も言うことないのかよ」

 背後からおれを呼び止める声がしたので、おれはその声の方へ体の向きを変えた。そこには赤いTシャツを着た男が立っていた。背丈はおれとほぼ同じだ。

「何言ってんだ。お前がおれに当たってきたんだろうが」おれはそう言い返した。

「なんだと。こっちが悪いって言うのか」

「違うのかよ」

「なんだとー、よーし、やってやる。かかってこいや!」

 赤シャツの男は両手をスー、と前に出し、構えた。その手をフワリと下げては元に戻し、フワリと下げては元に戻しを繰り返している。「セイヨ……、セイヨ……」

「ほぅ、空手か。いいぜ、相手になってやっても。後で吠えヅラ掻くなよ!」

 こっちにはあの能力がある。おれはおもむろに例の呼吸法を始めた。すぅー、はぁー。

 相手は双手をふわりふわりさせる動きのまま、ジリ、ジリ、とこちらへにじり寄ってくる。

「セイヨ……、セイヨ……、チイ……、チイ……」何やら小声でつぶやいているが、空手独自のタイミングを計る発声法なのだろう。

昔、格闘マンガで見たような気がするが、確か前羽の構えだっけ。ま、不敗の力を持つおれにしちゃ、どうでもいいことだが。すぅー、はぁー。すぅー、はぁー。すぅー、はぁー、は、はぁ~?

な、何故だ、おかしい。身体がちっとも大きくならない。集中だ、集中。すぅー、はぁー。すぅー、はぁー……。いかん。何の変化もなし。ヤバイ‼ さっきの一戦で力を使い果たしちまったのか? 一日二戦は無理なのか⁉ この緊急事態に、おれの心臓が早鐘を打ち始めた。

「チイ……、チイ……、セイヨ……、セイヨ……」両手をフワ、フワ。

 すぅー、はぁー。すぅー、はぁー。心臓ドキ、ドキ。

「セイヨ……、セイヨ……、チイ……、チイ……」両手をフワ、フワ。

 すぅー、はぁー。すぅー、はぁー。心臓ドキ、ドキ。

 ダメだ。ここはもう謝ろう。ちょっと酔っ払っていたんで、粋がってしまいましたごめんなさいって素直に謝ろう。

「まあ、よく考えたら、肩が当たったぐらいで大人げない。止めようや、お互い」赤シャツの男が突然言った。

「?」おれは一瞬、言葉が出なかった。「お、おう、お前がそう言うなら、し、勝負はお預けだ……」

 おれたちは道を左右に分かれていった。ふ~ぅ。今回は何とか助かったが、しかし、どうして能力が発揮されなかったんだろう……。


「しかし、どうして能力が発揮されなかったんだろう」赤シャツの男がいぶかしげに言った。「おれには背よ、背よ、小さくなれ、小さくなれ、とつぶやきながら、相手に向かって伸ばした手を下に、下にと動かしていれば、見る見るうちに相手が小さくなっていくという力があるのに、何故、さっきの若造には通用しなかったんだ。危なかったぜ」

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