闇、喰らう

笛希 真

プロローグ


 真っ暗な闇に身をゆだねると心が落ち着く。母のお腹の中で羊水に守られている胎児に戻ったような安心感があるのかもしれない。

 美姫みきはそんな居心地のよさを改めて噛みしめつつ、いつも通りその場でひざを抱えると彼女に声をかけた。


「ねえ」


 返事はない。

 ぴーんという高い耳鳴りの音だけが響いている。その耳鳴りだって美姫にしか聞こえないものなのだから、実際のこの場所は静寂に包まれているということだ。


「この世界はなんのために存在しているんだと思う?」


 質問を投げかけたところで答えてなどくれない。しかし、この質問は無意味なんかではない。美姫にとって答えを得ること以上に質問をすることのほうが大事なのである。


「わたしはさ、わたしとして生まれて、わたしとしてここまで育ったからさ、わたしの中ではこの世界の中心はわたしになるわけ。つまり主役。そして、それ以外の人達は脇役、あるいはエキストラになるわけよ」


 相づちすら返ってこない。だが、美姫が彼女に怒りを覚えることはなかった。


「でも、あなたも知っての通り、わたしが主役とするこの世界はあまりにも酷いもんでしょ? そんな世界になんの価値があるんだろうって思っちゃうんだよね」


 美姫が自虐的に笑ってみせるも、彼女は慰めてくれないし、励ましてもくれない。そんな言葉を端から期待していない美姫は、気にすることもなく彼女に話しかけ続けた。


「わたしにだってわかってるよ、世界にはいろんな側面があるってことくらい。この世界は他人から見たら、その他人が主役になって、わたしのほうがエキストラになるんでしょ。とはいえ、やっぱりわたしにとっての世界は、わたしからの視点で進む最悪な世界でしかないんだ」


 言葉は目の前の闇に溶けて消える。少し手を伸ばして探してみたが、やはりそこに言葉は落ちてはいない。

 そんな状況に、ふとこの世界が存在していないもののように思えてきた。他人も、自分の体も、そして発した言葉も、すべてが空っぽで意識だけがあるような感覚。


 孤独だ。

 この空間は絶対的な安心感を与えてくれる代わりに、鋭角な孤独感に襲われることがある。

 でも、そんな孤独感は、実際の生活でもいつも味わっていることでもあった。この世界には何十億という人がいるらしいが、その中に美姫が自身の悩みを相談できる相手などひとりもいない。

 だからこそ、美姫は毎日のようにこの場所にきて彼女に語りかける。


 彼女――なんて人称代名詞を用いているが、実際には美姫が言葉を向けるその先には闇が広がるだけで誰もいない。彼女は、ただ自分の苦悩を吐露するためだけに創られた架空の人物だったのだ。

 中学に入学して数ヶ月経った頃からである。美姫はこの暗闇に彼女という存在を創り出し、こうして愚痴をこぼすようになっていた。

 ちなみに、彼女の名前や容姿はなにも決めていない。美姫としては、彼女に不満をぶつけたいだけなので、そういう無駄な設定は不要なものといえた。

 無論、彼女は実在しないのだからこちらを助けてくれないし、的確なアドバイスをくれるわけでもない。でも、話を聞いてくれる。日々蓄積されていく鬱憤を吐き出させてくれる彼女の存在は、だれにも助けを求めることができない美姫にとって唯一の心の支えとなっていた。


「最悪な世界。本当に最悪な世界だよ。だけど、わたしにはこの世界を変える力も知恵もない。だからさ、諦めるしかないんだ。我慢して生きていくしかないんだ」


 そう、我慢するしかない。中学を卒業するまで、あと二年ほどである。それまでの期間を耐えしのげれば、きっと報われる日がくるはずだ。


 でも、もう我慢するのもつらい。毎晩、明日がこなければいいのにと思って眠りについている。耐えなくちゃと思っているくせに、その内心ではこの日々を消し去ってしまいたいと思っているのだ。


 ふと、心の奥底に秘めていた考えが美姫の口からこぼれ出た。


「わたしはなんのために生きているんだろ」


 彼女は、やっぱりなにも答えてくれなかった。


 わかってる。無意味なんだ、こんなこと。結局、こんなところでひとりで愚痴をこぼしたってなにも変わらないんだ。


 美姫はそう思い、この場所から離れようとした――その時だった。


「――そんな最悪な世界なら壊しちゃえばいいのに」


「え?」


 ふすまに伸びた手が思わず止まる。そして、視界は闇に閉ざされているとわかっているはずなのに、反射的に暗がりを見回していた。


 いま、確かに声が聞こえた。だが、ここには自分以外誰もいない。ということは――ただの気のせいか。


 美姫はそう結論づけると、その場を後にするのだった。

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