第60話 case:跡取り少年の幕間

「なんなんっすかあの人!?」

「まぁまぁ……禊だろ?」

 突然の来訪者は、間違いなく何かがおかしかった。

 腰巾着のちび助じゃなく、その親を僭称する黒髪の方だ。無碍にもできない、どころか当の師範代が快く承諾してしまったので、今は離れ小屋を貸していた。

 だから、普通は師範代にこんな文句は言ってはならない……筈なのだが、今回はそうでもなかった。

「あいつは昔からああなんだ。生まれる時代を間違えたんだろうなぁ」

 そりゃそうだ。前代未聞の境地である。

 それなりに経験を重ねれば、刀を抜く前に勝ち負けがなんとなく分かる。それは、分からなくもないが――しかし、実際に刀を抜く前から勝っていいはずがあるか。

「……知り合いなんすね、やっぱ」

「同門の仲なんだよ。同じ学校にも通ってたしな」

 まぁ、そりゃそうだ。

 普段の生活っぷりならさておき、剣の腕まで知っているのであればそうなる。それも真っ当な心を保って、となると……まぁ、相当仲が良かったんだろう。

 どこか所帯じみた穏やかさを持つ彼の言葉遣いが、少し気さくになっていた。俺達にも、連れていたちび助にもそんな態度は取っていない。

 師範代の親友、と言ってもいいのかもしれない。

 ……だがその男に、門下生の大半が挑み、そっくりそのまま再起不能になっている。

 比較的のどかに雑談をしているのも、アレに話しかけるのは逆効果だ、と引き離された結果なのだ。果たして彼らは立ち直れるのだろうか。

「まぁ、なんだ。あいつ相手なら、真っ当に斬りかかってもああなるぞ」

「異能じゃないんすか?」

「違う違う、そんなおっかないもんじゃあない」

 あいつの異能は、ただちょっと幸運を引き寄せるくらいだからなぁ――と、軽く笑い飛ばされた。

 特に目元を隠すような格好でもなかったから、それ自体は事実なんだろう。ほとんど黒と言っても差し支えないような、暗い藍の瞳。転移ができないのなら、さしてぱっとした異能はない。

 当たりともはずれとも言えない、なんとも微妙なところだ。

「俺達が一生懸けて辿り着くような境地に、一人でさっさと行っただけだ」

 ――あれが、天才なんだろうな。

 そう零した言葉が、重々しく耳に残った。


「しかし、今日は少し暑いな」

「っすね。麦茶淹れますよ」

 都会に比べればそうでもないのかもしれないが、今日は暑い。梅雨に入る前のひと頑張り、というのだろうか。早朝とはえらい違いである。

 茶を淹れてこよう、と襖を開けた。

「……あれ?」

 すると、どういうことだろうか。

 風になびいた黒髪が、目に入った。この道場に、女も長髪もいないにも関わらず。

「禊? ちょうど良かった、こっち来てくれ」

 師範代の言葉にさえ、応じる気配はない。

 そもそも彼は、まるで病人のように髪をくくっている。風に負けてなびくようなものじゃあないだろうが――まぁ、暑い日だ。髪をほどいた方が、まだ涼しさはある。

 あまり見ていて気持ちのいいものじゃないが、師範代がそこに強く言わないところを見るに、恐らく本物の病人だ。だからってあんな強くてたまるか、というところはあるが。

「……ちょっと。師範代が呼んでるんすよ」

 だが、いくらなんでも、だ。

 強いのであれば、それ相応の態度というものがあるだろう。例え気心の知れた間柄だろうが、だ。

 にも関わらず、まるで何も言い返さない。

 まるで知らない相手かのようだ。

「ちょっと――」

 あまりにも、手応えがなさすぎる。

 舌打ちをするだけして、さっさと去っていくその背を引っつかんだ。一つ怒鳴ってやるくらいは、許されるだろう。


 そう思っていたのが、間違いだった。


 パチン。

 指を鳴らす、軽い音がした瞬間――猛烈な寒気に、襲われた。

 身体に、力が入らない。

 まるで、俺の物じゃあなくなったかのようだ。重く重く、何か冷えている物が、のしかかる。

 冷や汗が、止まらない。

「……」

 紫色の瞳が、一瞬だけ俺を見下した。

 まるで温度一つない、冷えた冷えた視線に射貫かれる。たったそれだけで、視界が眩む。

 立って、いられない。いやそもそも、俺は立っているのか。それさえ分からない。次の一歩さえ踏み出せない。

 ――これは、駄目だ。

 剣さえ抜かずに勝てた理屈を、今ようやく理解した。

 こんな物に耐える稽古など、受けたことがない。どんな稽古を受けようと、己のまま耐えられる気がまるでしない。


 否。

 こんな物を生み出してしまう人間が、存在してしまう事すらおぞましい。

 あまつさえこれが、一生懸けて至る、境地だと?


「……おい、おい! 大丈夫か!」

 いつの間にか、気を失って倒れ伏していたのだろう。

 青空と、師範代の顔とが、視界を埋め尽くす。

「禊お前、医者だったろ!? 何か、深刻な病気とかじゃあ――」

「本人に聞かないと分かんないんだってば……ほら、目は覚めたから、ね」

 少なくとも死んではいないでしょ――と、ややぶっきらぼうながら答えている。間違いない、あいつだ。

 ……というか、医者だったのか。

「外傷はひとまずないけども……どこか、痛むところはない?」

「……あんたがやったんでしょうが」

 何を言っているんだこいつは。

 どう見ても原因お前だろうが。この期に及んで、言い逃れでもする気か?

「あのよくわかんない技を掛けて! それも、自分がムカついたからって……」

「……どういうことかな、それ?」

 まだすっとぼける気か。

「なぁ禊、俺も跡取りは疑いたくないんだが……どういうことだ?」

「いやどうもこうも……先輩なら気配くらい読めるでしょ? こっちでは消さないようにしてるから」

「お前の普通は俺の普通じゃないんだよ。まぁ、例のちびっ子と話してたのは聞いたが」

 巾着のちび助だろう。確か、咲良という名前だったような気はするが。

 ……本当に稽古なのかも怪しいが、だとしてもなんとか逃げおおせてきそうな感じがある。見た目よりは聡明な部類だったし、何の異能なのかまったく見当も付かない灰色の目をしていた。

 あの幼さで、それなり以上に苦労はしているのだろう。

「私、あの子にお稽古付けてたからね。そんな状況で離れられるわけないでしょ」

「あぁうん……森貸せって言ってたな」

 ……本気で稽古を付けられていたのか。やっぱり死ぬんじゃないか?

 あの森、普通によく分からない生き物がぽこじゃか出てくる魔境だった筈だ。

 誰が言ったか龍宮の森。あの森で生き延びるんならジジイになるまで出てこられない、そういう魔境である。


「時間が時間だし、少しお昼ご飯頂くね。二人の分も持ってくるよ」

「……お前、それは大丈夫なのか?」

「もののついでだから」

 ……なんだか、妙だ。

 師範代とあいつとは、親友らしいから、それで疑いきれていないのはあるんだろうが。しかし、キレたからと言って舌打ちをするような人間性ではない。若干機嫌は悪そうだが、それでも医者としては真っ当な部類だった。

 すっと立ち上がって、厨房へと去っていこうとするその姿を――師範代が、おい、と呼び止めた。

「……やっぱお前、小さいよな?」

「遺伝だよ。姉さんも大概このくらいでしょ」

 なるほど、確かに。だいぶ小さい。

 気配やら気迫やら抜きにしてしまうと、こんなにも小さいのか、と仰天する。

 先のあいつは、ひょろっちいとはいえ、男と言っても特に違和感がないような体格だったはずなのだが。

「襖から顔が覗けなかったんだ」

「そんな巨人になった覚えはありません。むしろ私が欲しいよ、その身長」

「冗談じゃないな……」

 この道場は古い寺を改装したものなので、ゆうに築数百年を超えている。故に、さして扉が高いわけじゃない。現に師範代もかがむくらいだ。

 少し立ち上がってみると、確かに背は同じくらい。

 まぁ、数ヶ月後には間違いなく俺が抜くんだろうが……しかし、頭を見上げるほどの体格じゃあない。


剣斗けんと、そういうわけだ。謝れ」

「……すんませんっした」

 結論としては、完璧な人違いである。

 師範代の金をネコババしてもそうはならないだろ、と言わんばかりの見事な土下座をかます事になっていた。

 じゃああれは誰だ、という問題は残るが……恐らく、俺がどうこうできる相手じゃないだろう。

「いいよぉ、別に……そんな芸当ができる子、そんなにいないもの」

「お前以外にできる奴がいる方が驚きだよ」

 この口ぶりからして、師範代にもできないらしい。

 その事に、少しだけ安堵する。人の身でそう簡単に至れる境地じゃないのなら、一安心だ。

 ……アレは、それほどに危険だ。ある意味で、とんでもない才能と言っても差し支えないのだろう。

「じゃあ、私は戻っているからね。容態が急変したら、救急車を呼んでよ」

「頼って、とか言わないんだな」

「ここは病院じゃないでしょ。救急車で処置する方がいくらかマシだよ」

 まるで素っ気ないが、それでも悪くは思っていないようだ。事実、そこまで設備は揃っていないのだから。


 その後も二三言、どうでもいいような事を話すと――森の方へ、ためらい一つなく吸い込まれていった。

 心残りは、と言えば。

 彼でない彼は、一体誰だったのか、ということくらいである。

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