第28話 閑話休題・恋心、捻転
それから、しばらく後のことであった。
「とつぐさん、とつぐさんっ!」
ぽてぽてと駆け寄ってくる顔が、何やら明るいような気がする。何か吹っ切れたのだろうか、と察した。
「どうしたのよ、にやけちゃって」
「にやっ……そんなに顔に出てますか!?」
ぱっと口元に手を当てているが――それでもほっぺたが持ち上がって、くりくりした目が笑っているのが見て取れた。
年相応の中身だとしたらあまりにあざとすぎるが、しかし見た目が完全に幼児なのである。よって、ただの微笑ましい姿でしかない。
「えぇすごく。どうしたの」
「あっ……に、似合ってますよね、これ!」
その言葉で、とつぐはようやく服に目を落とした。
サスペンダーで吊ったハーフパンツに、襟付きのシャツだ。依然と大して代わり映えのしない姿だが、確かに似合ってはいた。
「まぁ、似合ってはいるわね。それがどうかしたのかしら」
「とつぐさんは、その……こういうお洋服、好きですか?」
多少なりとも褒められたことで、ちょっとした羞恥心が湧き上がってきたのか。それとも単に興奮か。頬を軽く紅潮させ、じっと見上げて尋ねてくる。
それはまさしく恋する少年の顔だと、指摘する人間は誰もいなかった。
「悪くはないんじゃないかしら」
「ほんとにっ……ですか?」
「嘘ついてどうするのよ」
そう答えると、へにゃりと口元が緩んだ。
くるくると変わる表情が、なんとも愛おしい。にこにこしたと思えば、少し不安げな顔も見せる。
「そ、そうですよねっ! えへへ……」
まぁでも、ちょっといじめすぎたかしら――と、軽く心の中で反省した。
「……他のも見てきたらどう。一着じゃ足りないわよ」
ちらりと時計を確認し、そう急かした。
咲良がうんうん悩んでいる間に、既に小一時間が経過していた。このままでは日が暮れてしまうかもしれない。
既に、きゅるるる、と弱々しく腹の虫が鳴っている。このままでは、帰る前にお腹がぺちゃんこになってしまう。
「そ、そうしますっ」
そう、ぱたぱたと走り去る咲良の背中を見送った。
「……やったぁ!」
一方の咲良は、小さくガッツポーズをしていた。
明らかに何かツッコミどころを抑えている顔ではなく、ゆるりと微笑んだような顔をしていた。
ただそれだけなのだが……その事が、ちょっぴり嬉しかった。
「風吹様、いかがでしたか?」
「あっ。とってもいい感じでした!」
爽やかな青年を見上げ、ありがとうございます、とお辞儀をする。
この快挙は、彼の助言なしにはなし得なかったことである。
例えどんなにしょぼいことでも、礼を欠かしてはなりませんよ――という母親の言いつけ通りに、咲良はしっかりお礼をした。持ち合わせなどないので、ありがとう、と言うのが限界ではあったが。
「お力になれたのでしたら幸いです。今後とも、よろしくお願いします」
「はいっ!」
そうして、ようやく服集めに取りかかった。
――時は、ほんの少し遡る。
「着こなしのコツですが、やはり風吹様が自然体でいられるものがよろしいかと」
「し、自然体……ですか?」
予想外にも程がある発言に、咲良はこてんと首を傾げていた。
クッソ辺鄙なクソ田舎、と揶揄されるほどの集落出身であるが故に、何も気負わずに服を選んでしまうとかなり残念なことになってしまう――そう、思い込んでいたのである。
「日常的に召される物でしょう? 肩肘張ってばかりですと、お疲れになってしまいますよ」
「……確かに!」
なので、完全に盲点を突かれていた。
着飾ってばかりでも大丈夫な人もいるのかもしれない……が、咲良の体力はまずそこまで保たない。何より、田舎根性に染まった咲良の精神性は、そこまできらびやかなものには適応できていない。
現になんとなく派手極まりない服だったり、最高級品の類だったりは、手が勝手に避けていた。
「風吹様は見る目のあるお方ですから。自信を持って選ばれてはいかがでしょうか」
「は、はい!」
そしてまた事実として、咲良は案外おしゃれな部類である。時たま街に足を運べば、西洋の風に身を包んだ男の一人二人はいたものだし……何より、母親がそこそこ身ぎれいであることを要求してくる、というのもあった。最も目覚めてからは周囲の顔面レベルが著しく高すぎるので、大概何を着ても似合ってしまうという弊害に隠れていたのである。
笑顔を崩さずに去っていった青年には目もくれず、そうして服を選び――そして、無事に褒められたのが先の出来事であった。
一度勘をつかめば、後は早いものである。あれもこれもと小さな腕を伸ばして、巣作りの如く服をかき集める。
そうして、上下合わせて百着の大台をなんとか回避したくらいの量の服を、よいしょと持ち上げた。無論、とつぐに見せに行くためである。
とはいえ、されど布である。とてつもなく重かった。その上、前も見えない。
わざわざこんなことをしなくとも、外商の青年を呼びつけてしまえばいいのだが……しかし、咲良はそういう買い物をした経験がなかった。
時につまずいてみたり、重さに負けてしまったり……そういうことを繰り返して、なんとかとつぐの声がする方へと向かっていく。
よいしょよいしょ、と不気味に蠢く服の塊をとつぐが目撃してしまい、珍しく見た目相応の甲高い悲鳴を上げたのは、そこから十数分程度後のことであった。
「……耳がまだキーンってします」
「悪かったわね」
ちょっとした鼓膜破壊ハプニングこそあったものの、二人してなんだかんだと無事に買い物を終えた。
「……おばけ、怖いんですか?」
「うるさいわね。あんなの誰だってびっくりするわよ」
とりとめもない会話をする二人の手元に、荷物らしい荷物はほとんどない。ほぼ着の身着のまま、といった様子である。
金額にしておよそ百五十万とんで七百円ほどにも及ぶ量の大荷物は、ただ一つを除き全て外商が事務所に送りつける――概ねいつも、そういう話になっているのだ。
そして常であれば、その一つは行きでただの布と化したとつぐの靴である。
だが、今回はそうでもなかった。
「お待たせいたしました花桐様。こちら、頼まれていたものでございます」
「ありがとね。じゃあまた」
何やらかわいらしい包装がなされた箱が、青年からとつぐへと手渡された。
はてな、と咲良が首を傾げる。
どう見てもプレゼントだが、とつぐが何かを贈る相手なんていたのだろうか。例の妹さん宛てなのだろうか、でもまだ数日は帰ってこないはずで、そもそもとつぐがそんなことを把握しているかすら怪しいし――くるくると思考を巡らせてみても、心当たりが全くない。
「あのぉ」
「なによ」
なので、聞いてみることにした。
「……それ、誰に贈るんですか?」
「あぁ」
もしかしたら、僕の知らない誰かかもしれない。家族ならさておき、彼氏だったりして。だってこんなにきれいな人だし。そう思うと、どきどきと鼓動が早まる。
「……やっぱ無理あったか。ほら!」
なので。
ぶっきらぼうに押し付けられたそれを、取り落としかけ……なんとか、落とす前に拾い上げた。
「ほえ?」
「あんた宛よ。ちょっとは奥ゆかしくさせなさい」
「そ、そう言われても……」
そもそも咲良は、そんなことなど一つも聞いていないのである。大体、一緒に買い物して贈り物とは何事だろう、という困惑に支配された。
包装紙を軽く破き、中身をちらりと見る。
それは、靴であった。
靴紐で編み上げるような、一般的なスニーカーである。サイズが咲良の足にぴったりという事実さえ除けば、およそ何の変哲もないものだ。
「……な、なんで?」
故に、さらに困惑した。
「だいぶ大事にしてたんでしょ、それ。手入れに出すからその代えよ」
そう、咲良の足元を指す。
そこでようやく意図を理解して、ほわぁ、と歓喜の声を漏らした。
もちろん、とつぐとしてはそれ以上の『あわよくば』があったのだが――そんなものを真正面から口に出せるほど、素直ではない。
「あ……ありがとうございます!」
「はいはい、どういたしまして」
それを最後に、ぷい、と顔を背けてしまったとつぐの表情は、咲良には分からない。
ただそれでも、真っ赤に染まった耳を見れば――なんとなく、察せるものはあった。
――緩慢な時間が流れていく。
これは、散りゆく桜の季節の一ページ。
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