第二章:なれはて者とはじかれ者、そして高機動式暗躍中佐
第29話 症例:探偵事務所マジック
「先生、結婚してください!」
珍しく閑古鳥が喉を休めたその日。
昼下がりの繁華街、その裏通りに、無謀なプロポーズが響き渡った。
「よっしゃあああああああ! 皐月賞代ゴチになりまーっす!」
「チッ、返しなさいよ十万円!」
……異常にいい声の、たった一人の歓声とともに。
――時を遡ること、ふた月前。
咲良が目覚めるよりだいぶ前、未だ冬の残滓が色濃く残るその日。
ある男が、人生相談にやってきたことに、端を発する。
その男は、単なるサラリーマンであった。
裏も表もない、くたびれにくたびれた、いわば社畜である。値段にして上下数万円程度のスーツに身を包んだ営業マンだ。
左手の薬指には、指輪らしい跡がついている。既婚者だ。いや、既婚者であった。
「実は、妻と離婚してしまいまして……」
もちろん、事件性はない。いわば単なる愚痴である。
そのために時間あたり一万円という、下手な
「……一体、この後はどうすればいいんでしょうね。俺は、あいつの為に働いていたのに」
ぽつりぽつりと漏らされる恩着せがましい言葉に、女性陣はすわこいつ見えている地雷じゃないかと退散したのだが――しかし、それに根気よく付き合っていた人間が一人だけいた。
「よく頑張ったねぇ、いい子いい子」
園原探偵事務所が所長、
そして、週に一度、休日を見つけては通い詰める――そういう金づる、もとい仲になっていた。
もちろん、状況は改善している。
勤めていた会社を転職し、やや小さいながらも残業の少ない仕事へ。
それにより睡眠時間は倍増。最近は趣味としてランニングを始めた。肉体の健康こそが精神の健康を形作る、という禊の持論によるものである。
それにより食欲を持ち直す。よく食べよく動くようになった男は、みるみるうちにたくましくなっていった。
そして、ひとまわり精悍になった男は新たな恋人を見つけ――そちらは非常に残念なことに、大した進展を見せてはいなかった。
というのも、目の前の男に恋心を抱いたからである。
当然、それだけなら良かった。
周囲の女性陣とて、別に彼の縁者というわけではない。よって、そのあたりは案外ドライであった。禊の両親は流行病に倒れ、既にこの世にはいない。親戚も疎遠である。
唯一の懸念は、単身アメリカに渡航した姉が有名人だった事くらいか。しかし、もういい大人同士である。そこまで露骨に煙たがられることもない。
だが。
そこまで円滑な環境があるにも関わらず、恋路だけは思うように行かない。
禊の身体が恐ろしいほどに虚弱で、長く生きる自信がなく……故に婚姻関係を結ばないというのは、当然話に聞いていた。だからこそ、支えたいと願ったのだ。
だが、それ以上に。
「えぇっと。まずはじめに、私は男だよ」
性別というどうしようもないものが、万里の長城よりも高く厚くそびえ立っていたからであった。
なるほど、確かに美人である。
濡れ羽色の見事な黒髪を下でゆわえ、儚げな雰囲気をたたえている。未だ四十代も前半。妙齢と呼ぶのがふさわしい、落ち着いた振る舞い。
だが男である。
「それでもいいんです! 結婚しましょう!」
「現行法で同性婚は認められていないけども……」
そして、かなりの理屈屋である。
あくまで本業は探偵なので、当然と言えば当然だが――しかし、それほどの無慈悲な宣告は、より男を奮い立たせるだけであった。
「性別の壁なんて些細な問題じゃありません!」
「誤解を招いているようなんだけど、私は男性を性的に見ることはないよ」
そして、あくまでも
外見が女々しいのも、八割方は遺伝。髪を伸ばして結わえているのは、入院の際に見栄えが良いから。そこにさしたる愛着もないし、切れと言われたら切ってしまう。
「……だ、駄目でしょうか?」
「端的に言えばそうなるね」
要は、単にそういうことであった。
意気消沈した初期であれば、もう少し言葉は選んでいたが――しかし、もう随分持ち直したのである。
ならば、多少率直に言っても問題ないだろう、と判断してのことであった。
「ほんの少し、私に対して夢を見すぎだよ」
「それでも……先生をお側で支えたいんです」
叶えさせたところで幸せになれないのだから、さっさと諦めさせた方がいい――そういう慈悲でもある。
病というのは、えてして手間がかかる。
禊の幼少期に比べれば、医療の発展もあって随分マシになった。入院期間もだいぶ短く済んでいるし、薬の量も少しずつ減ってはいる。理想の状態を保っている事もあって、年を重ねるごとに健康体に近づいているという希有な状態である。
だが、それは年がら年中己の身体と付き合っているから言えること。心得のない一般人には、あまりにも荷が重すぎる。
「……駄目だよ、まだ若いんだから。長生きできそうな子を探して?」
何より。
同じ事を言った人間が、今まで何人といた。
そして同じ口で、何人も愛想を尽かしていった。
そのどれも、ちゃんと本心だ。その上で、相当禊自身に執着していない限りは、心身にかかる負担に押しつぶされる。
身体ならまだ治せばいい。
だが、そうして駄目になった心は、そう簡単には直らないのだ。
「……」
当然、突き放せてはいない。
あまりにも優しく、あまりにも愛に満ちている。たかだか二ヶ月の親交しかない男の幸福を願っている、その事が言葉の端々からにじんでいる。
だが、その部下はクズである。
貴重な競馬資金を他人からふんだくり、非常に上機嫌な玲奈。己の給料の三割ほどをむしり取られ、非常に不機嫌なとつぐ。
そのどちらからしても、目の前で男に失恋した男はいい玩具である。
当然、諭されている間はそれぞれに皮算用を立てていたが――しかし、黙り込めば話は別。
「おやぁ? ここに惨めなお客様がいらっしゃいますね。二十五万紙くずにして叶わぬ恋を育んでいたんですって」
「あらあら、素晴らしい頭の持ち主じゃない。男の人はそのくらい楽観的なのがお似合いよ?」
素早いバイノーラル罵声が、男の耳をぶち抜く。
そこに遠慮はひとかけらもない。何せ、どうでもいい他人である。仮に今後一切相談に来なくなかろうが、余裕で生計を立てられるだけの儲けがあるのだ。
よしよし慰めてちゃんとお話を聞いて欲しいなら、入る扉を間違えている。それが持論である。
「クソバカダービー上半期の一番人気獲得おめでとうございまーす。ちなみに今年で所長への求婚は三人目なんですよ」
「良かったわねぇ、ちなみにあと六人この後に湧く予定よ」
「最終的にフルゲートになりますよ。高低差二〇〇メートルの坂に勝てるかな?」
こうしてさんざっぱらなじられ、いいように弄ばれ――数分もしないうちに、男は耐えきれずに逃げ出した。
「あっ待て金ヅル!」
「いい度胸ね、地の果てまでだろうが取り立ててやるわよ」
そして、またしても繁華街に人型突風が吹き荒れた。
一方。
園原探偵事務所からおよそ数十キロ、郊外のコンビニでは――不良が数人、伸びていた。
「ふん。所詮はこの程度か」
そう声を発したのは、二メートルを軽く超える巨躯である。
ライダースジャケットの上からでも分かる、鍛え上げられた肉体。それでいて無駄のない所作。そして、明らかに高給取りと分かる、いかにも高級そうなバイク。
間違いなく、軍人である。
それが煙草を灰皿に押し付け、静まりかえった場を後にしようと、ネオングリーンのバイクにまたがる――そんな折の事であった。
「……あ、あの」
一人の少女が、軍人へと話しかけた。
ブレザーを身に纏った、いかにもな女子高生である。だがしかし、その顔は明るくない。
「どうした?」
切れ長の青い瞳が、じっと少女の顔を見つめる。
「その……実は、助けてほしくて……」
「よく分かった。話す必要はない」
たった一言聞いただけで、軍人は頷いた。
それも、ただの拒絶ではない。全て理解した上での、許容。だが、青い目の軍人に何故そのような芸当ができるのか、と困惑していた。
「まだ、話は――」
「これを使え」
話を続ける少女を遮って、一回り小ぶりなヘルメットを渡す。
「ここから都心まで飛ばす。法定速度は守るが、くれぐれも手は離すな」
「は、はいっ!」
そうして――探偵事務所には、ようやくまともな客が訪れつつあった。
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