第42話 美容師が見た、一触即発(上)

「それじゃ、行ってきます」

「よろしく頼む」

 時刻は午前十一時。

 店長に肩を叩かれて新人と共に店舗を出る。

 向かうは近隣の大型書店。

 手には大量の広告用ティッシュを携えて。 

 平日の主婦層を対象としたキャンペーンの周知。

 これが本日の第一ミッション。

「こういうのって、効果有るんですかね?」

 到着するなり新人がボヤく。

 はち切れんばかりの紙袋にウンザリ気味の様子。

 その気持ちは痛いほどわかる。

 最近まで同じセリフを放ち毒づいていたから。

 だが、今は違う。

 微々たる事でも、やって然るべきなのだ。

 何かしら良い方向へと繋がるのならば。

「くだ巻いてないで、始めようや」

 先輩風を吹かせて少なめの袋を渡す。

 さぁ、得意の営業スマイルを掲げてスタンバれ。


 美容師として今のサロンに就職して幾年いくとせか。

 正式なスタイリストへの道のりは未だ遠い。

 簡単なカットを任されて数多の常連客とも顔馴染みになるも、アシスタント業務兼任の宙ぶらりん。

 同期は俄然焦りだす。

 だが、同調する程じゃない。

 責任の軽い仕事と遊べる金。

 それが有れば十分だ。

 万が一の時は誰かが手を差し伸べてくれる。

 最悪、実家を頼れば良い。

 そもそも、留年を機に大学を中退してこの道に入ったのも、より多くの出会いを狙ってのもの。

 この時点で真剣に取り組む気概に欠けている。

 しかし、考えても見てくれ。

 顔の造作もまあ良く、ファッションに敏感。

 喋りも達者で、大雑把に見えて手先が器用。

 これだけ揃えば自由気ままに生きたくなるだろ?

 そして、そんな生活に甘んじてきた。

 あの日、彼女に出会うまでは――。


 昨年度末に開かれた飲み会。

 そこに仕事の都合で少し遅れてやってきた彼女。

 過去に絡むことのない、落ち着いた……。

 いや、期待外れの地味でしかない人種。

 となれば、当然、攻略対象外。

 一瞥するのみで終える――筈だったのに。

 隣席の一軍女子との会話中も視界に入るその姿。

 ピンと伸びた背筋、綺麗な箸遣い。

 不快にならない絶妙な距離感で気を配る対応。

 そして何より、媚びのない自然な笑顔。

 仕草の一つ一つが、何故と疑うほど目に訴える。

 気付いた時には卑怯で下劣な手段に及んでいた。


『チャラ男はやることが違うよな』

『モテ野郎が地味女にまで領域広げんなよ』

『上位同士で乳繰り合ってりゃ充分だろ』

 嘲笑交じりの正論がこだまする。

 それでも正当化したいのが恋心。

 走り出したら簡単には止まらない。

 しかし、その全てを再会した彼女が打ち砕く。

 謝罪は一切受け付けない。

 時には、この存在までも否定する。

 想いを寄せる資格すらないと強い瞳が主張する。

 奥ゆかしく柔らかな笑顔女子とお近付きに――。

 その願いは罪以外の何ものでもないのだ、と。


 あの日、彼女は『見ている』と言った。

 これからの生き方全てを。

 その言葉と存在そのものが監視の意味を持つ。

 さあ、ちゃらんぽらんな人生はこれで終わりだ。

 誰の目にも正道と映る生き方を示す。

 例え、彼女の瞳に映り込む事が叶わなくても。

 これが唯一の贖罪方法だと強く信じている。

 

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