星屑の少女たち

夏木黒羽

♯00

 星屑の少女たち

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 熱砂のような孤独なマウンドの上、少女は立ちはだかっていた。

 それは相対する敵チームだけではなく、今までの十数年間、哀れみに似たような視線を送ってきた両親、チームメイト、コーチ、そして監督へ。

 自分自身しか信頼できない彼女は、その存在を認めさせるように彼女は腕を黙々と降る。

 細くしなるような左腕から放たれる直球は、咆哮の様に、大きく曲がる変化球カーブは獲物を喰う牙の様に。

 この場所に立っている間は自分が生きている、ということを実感できる唯一の存在場所。

 けれどもここにいられる残り時間も片手で数えるだけ。

 まだ投げていたい自分と、どこか冷めて俯瞰している自分の二人がせめぎあう中で、彼女は腕を振っていた。

 そして最後の打席。

 今日の試合で何度も顔を合わせている相手チームの細身の一番打者、背は自分よりも少し低いぐらいだが、何度も華麗な守備を披露し、こちらのチームに辛酸を舐めさせていた。

 泥のついたヘルメットから一つに結んだ黒い髪がはみ出ていて、時折この砂漠に吹く風で、揺れる。

 この打者も自分と同じ境遇を歩んできたのだろうか。

 勇敢な剣士のようにこちらを見据える眼差しを受け、二人の少女が向き合う。

 球を握り、右足を上げる。

 彼女が憧れた投手と全く同じ、スリークォーターと呼称される投球フォームから彼女の魂を載せ、軌跡を描く。

1

「ねえ、明日香(あすか)はもう部活何にするか決めた?」

 帰りのホームルームが終わった途端、園崎そのざき明日香あすかは隣の席に座る畑中はたなかさきから『入部届』と書かれた紙っぺらを眼前につきつけられる。

「いや……、特にないかな」

 ぶっきらぼうに答え、長く伸ばした髪を掻き分けると鞄を右肩にかけ、席を離れる。

「ちょっと明日香、今週中に入部届けださないとセンセイに怒られて面倒くさいよ」

 咲の忠告じみた言葉も今は、明日香にとっては、面倒くさいことの一つだ。

「私はそういうの、もういいからさ」

 それだけ答え、明日香は手をひらひらとさせ、咲をあしらうように帰っていってしまう。

「もう、バカ明日香、私一人でソフトボール部とかに入部しても知らないんだから」

 教室の喧騒の中、咲は行ってしまった幼馴染に向け悪態をつきながら、その後ろ姿を追いかけた。


「へえ、『私立しりつきょうつぐ西学院にしがくいん』こんなところにあの子がいるなんてね」

 西日の差し込む時間帯、校門からぞろぞろと同じ制服を着た生徒が出ていく様を、赤いクロスバイクに腰掛け、眺めている少女がいる。

彼女は通学カバンを背負い、腕を組み、一人一人値踏みをするように眺め、大きなプライドの塊のような双丘の上にストローの刺さったミルクティーの紙パックを載せていた。

よその学校の制服を着ている彼女のことを当然、皆口には出さないが、アブナイ奴、と察するので避けるように、触れないようにして帰っていく。

そんな中、彼女の目を引く、背が高いが、細身で目つきの悪い少女が校門から足早に現れた。

ちらっ、と顔が見えたのは一瞬だったが、彼女は天啓を得たかのような確信があった。

自慢の肺活量で一気にミルクティーの残りを吸い上げると、カバンに無造作に投げ捨て、クロスバイクに足をかけ、発進させた。


アスファルトを軽やかに蹴り、人の波を縫うように小走りの明日香は制服であることと、荷物を肩にかけていることを一切感じさせない。

大通りに面した街道をひたすらに駆け、家と学校の中間地点にあたる街の目印的神社のふもとにたどり着くと、火照った身体から汗が吹き出し、少し息を弾ませ、カバンを階段に投げ捨てる。

タオルを取り出し、額を拭っていると、

「たいした持久力ね」

 不意に声をかけられ、明日香は驚き、タオルを落とすと、風が吹き、飛んでいく。

 声の主である、少し派手目なメイクをし、スカートを短くしている少女は足元に落ちたタオルを拾い、掲げる。

「さすがは昨年優勝チームのエース様」

 どこか誇らしげに放たれた言葉にぴくり、と反応する。

「忘れもしない、去年の夏の全国大会決勝戦、出てきたのは無名チームで」

 肩をすくめ、無邪気そうに笑う彼女を明日香はにらみつけるように見つめる。

「やっぱり、マウンドからこっちを見下ろすような目つき、ブラックキャッツの園崎明日香でしょ」

 対照的な二人の異質な空気が混ざることなく、相対する。

「だったらなんなの」

 ぶっきらぼうに言葉を吐き捨て、腕を組み、笑みを絶やさない少女に言葉を返す。

 すると彼女は恥ずかしそうにはにかみ、頭を掻く。

「アタシと一打席勝負しない?」

 とだけ言うと強い風が吹いた。

 その表情は真剣で、先ほどまでのどこかおちゃらけた雰囲気はなかった。

「ごめん、もう私、野球は辞めたから」

 それだけ言うと明日香は背を向け、石階段に置いたカバンに手をかける。

「野球を、辞めた……?」

 明日香の言葉を口に出し、繰り返す少女はどこかショックを受けたように、うなだれる。

「嘘でしょ、ランニングシューズで身体に負荷をかけるようなスピードで走って、未だにトレーニングを欠かしていないようなその身体で、野球をやめた?悪い冗談はやめてよ」

 自転車を降り、明日香ほどではないが、女子高生にしては大柄な少女がゆっくりと明日香に詰め寄っていこうとした時だった。

「こら!明日香から離れろ!!」

 遅れてやってきた咲の怒声に驚き、少女は逃げるようにして、自転車に飛び乗った。

「アタシは諦めないからな!」

 捨て台詞はいっちょ前な悪役のように言い放ち、彼女はそそくさと自転車で走り去っていった。

「ちょっと明日香、大丈夫だった?カツアゲとかされなかった??」

 過保護な親のように、明日香の身の回りを心配する咲。

 二人は小学校低学年の頃から変わらない関係だが、思わず明日香は吹き出してしまった。

「ううん、大丈夫。ありがとね、咲」

 そう言って明日香は紅潮している咲のほっぺをつまむ。

 手が冷たかったのか、咲は小さく悲鳴を上げた。

「咲、甘いもの食べすぎだよ、ちょっと丸くなってる」

 それだけ言って明日香はまた走ろうとした時、彼女の言葉を思い出す。

「別にいいじゃない……走ったって」

 咲に聞こえない小さな声で呟き、また走り出す。

「ちょっ、明日香、待ってよ!一人だけダイエットなんてずるいよ!!」

 慌てて咲がその後ろを追いかけ、また走り出した。


2

 「ねえ明日香、昨日の結局何だったの?」

 もちろん話題はあの謎の少女。

 帰宅後、日課にしているランニングの最中、明日香ももちろん彼女のことについてずっと考えていたが、結局あの時見せたどこか寂し気な表情が頭から離れなかった。

「追っかけなのかな?まあ明日香かっこいいし、秋まではほんと美少年だったんだから」

 隣の席で呑気に頬を赤らめ、妄想に浸る友人の表情は面白可笑しかった。

「まあ、すっぱりと言ったからもう来ないはず」

 自身に思い込ませるよう、咲に言いながら、いつの間にか肩よりも伸びた髪に手をやった。

 枝毛を探しながらも、やっぱり昨日の彼女のあの顔が浮かんでは消えていった。

「はい、ホームルームやるよ」

 担任の奥原がまだ緊張したような面持ちを浮かべ、教室に入ってきた。

 ぺちゃくちゃとおしゃべりをしていた明日香たちを含める教室中が静かになった。

「の、前に転校生を紹介する、立木さん入ってきて」

 奥原の合図に、扉が開き、少し大柄な少女が入ってくる。

「でかっ」

「かわいいーっ」

 教室中の皆が感想を口々に出すが、明日香と咲だけは固まってしまった。

 昨日会ったあの小娘が二人の前に突如、転校生として現れたのである。

立木たちき彩乃あやのです、みんな仲良くしてね」

 朗らかな表情と、語尾にハートマークが付いていそうな挨拶に、クラスの男子の九割九分は撃ち抜かれてしまっただろう。

 そして明日香と目が合うや否や、にっこりと笑い、手を振られる。

「皆さん、私はこの京継西高で女子野球の花を咲かせたいと思っています!!来るもの拒まずの精神ですのでぜひ入部お願いしますね!!」

 そう言って、ぎちぎちに膨張して役目を果たせるのか分からない胸ポケットから入部届けを取り、ひらひらと揺らす。

 明日香に見せつけるようにでかでかと『女子野球部』の文字が奇麗な字で書かれていたが、明日香はそっぽを向き、一限の授業の用具を鞄から取り出すことに意識を向けた。

 彼女の紹介とともに朝のホームルームは終わり、奥原が去っていくと教室のボルテージは最高潮に上がり、アホな男子たちは牛のような乳を持つ彩乃を御神体のように拝んでいた。

 女子も新しく入ってきた彼女を取り囲んでいろいろと話をしているようだったが、明日香と咲はその輪には入り辛かった。


 あっという間にお昼になってしまった。

 誰も来ない空き教室で弁当を食べながら、話題は突如現れた転校生についてになっていた。

「あの子の熱意、あの入部届けの用紙にも女子野球部だって、すごいよね」

 つい話の流れで咲が女子野球部という話題に触れた時だった。

「でも私には関係ないよ」

 口にした途端、やっぱり明日香はどこか機嫌が悪そうに答えてしまう。

「なんでそうやって頑固になるの?野球好きなくせに」

「は?べつに私は好きでやってなんかないし」

「ほら、またそうやって頑固になる」

 咲に痛いところをつかれ、明日香は言葉を返せなかった。

「好きの反対は嫌いじゃない、無関心、よ。そうやっていちいち反応してるってことはまだ未練があるってことじゃない!」

「うるさいな!!」

 明日香が怒鳴って強く机を叩く。

 乾いた音が空き教室に響きわたり、二人は黙った。

「そんなに野球がやりたかったら咲、あんただけでもあの子と一緒に女子野球部に入ればいいじゃない」

 バカバカしい、と吐き捨て、明日香は空き教室を出ていってしまった。


「ようやく抜け出せたわー、ほんと肩凝る」

 クラス中の生徒から毎時間質問攻めにあっていた彩乃だったが、ようやくあの輪から抜け出すことができ、学校を探索がてら、この学校に来た一番の目的を探し出すべく歩き回っていた。

「ブラックキャッツの園崎明日香、それに畑中咲、どこでランチしてるのかなー、なんて」

 誰もいない廊下で笑みを隠しきれず、スキップを今にもしそうな勢いで二人を探していると、廊下の奥の空き教室から大きな物音がし、驚き足が止まる。

 それからすぐにそこから不機嫌そうな顔をした明日香が足早に、こちらに目もくれず、立ち去っていってしまった。

「さすがのアタシもあれにちょっかいだして、殴られたくはないので」

 昨日の今日なのもあり、慎重に、何があったのか、確かめることが大事。

 刑事である彩乃の父に日ごろから言われていることもあり、まずは現場を確認するべく半開きになった戸から中の様子をうかがうと、昨日彩乃を怒鳴った小さい少女が立ち尽くしていた。

 天才気質な明日香と昨日もいたことから、彼女が畑中咲であることを確信し、彩乃は声をかけた。

「大きな音したけど、何かあった?」

「でか乳女ァァァァァァァ」

 彩乃の顔を見るや否や、咲が立ち尽くし、大粒の涙を流しだす。

「え?え?」

 突然号泣する人を見てしまい、困惑する彩乃だったが、周りを見渡し、人がいないことを確認し、教室の中へと入り、後ろ手で戸を閉める。

「えっと、畑中、さん?大丈夫?」

 半ばカタコトのように咲を心配し、スカートのポケットからハンカチを取り出す。

 受け取った咲はお構いなしにハンカチで涙を拭い、最後にチーン、と鼻の中に残った鼻水を出し、彩乃に返す。

 そして唐突に咲は彩乃の豊かな双丘を殴りつけた。

「ちょっ」

 ブラジャーに守られているとはいえ、突然のことに戸惑う彩乃。一方殴りつけた張本人は痛かったのか、手を抑える。

「ただのでか乳かと思ったら、意外と筋肉だったのね」

 苦悶の表情を浮かべ、彩乃の顔を見る咲。

「ふふ、泣いたり苦しんだり面白い子だね、キミは」

 おかしくなり、笑う彩乃。

「去年の夏はもっと細身だったよね?」

「え?」

 突然、そんなことを言われ、彩乃は驚く。

「覚えてるよ、三茶シャークス唯一の女の子で、それも一番、遊撃手ショートのレギュラーなんだもん」

 子供のように純粋な憧れを体現した咲の笑みに、彩乃は少し表情を曇らせる。

 踏んではいけない地雷を踏んでしまったのかと、彼女の表情で咲は独自の嗅覚で察し、

「ごめん、明日香に用があった?」

 と慌てて話題を切り替える。

「ああ、そうだった、でもさっきここから出ていくのを見たんだけど……、どうかしたの?」

「ごめんね、ここ半年、ずっとあんな感じなの」

 長年連れ添った伴侶のように咲はかぶりを振った。

「あの試合から燃え尽きちゃったみたいなの、彼女」

 具体的に明日香の様子がおかしくなった時期を彩乃に告げる咲。

 開けっ放しにしていた窓から風がぴゅう、と吹き、二人の髪を乱す。

「燃え尽きた?」

「そうなの」

 彩乃が確認するように繰り返した言葉をうなずき、肯定する咲。

「でも、あんなに圧倒的だったじゃないか、女子野球の強豪校からも誘いが絶対あったはずじゃ」

「全部断ったって」

「え……」

 昨日彼女に一打席勝負を持ちかけた際言われた言葉がリフレインする。

——ごめん、もう私、野球は辞めたから——

 あの時の明日香の表情と、あの灼熱のグラウンドで見た自信に満ち溢れた表情の彼女、どちらが本物なのか、彩乃には分からなくなった。

「ねえ、立木さん、お願いがあるの」

 急に咲に手を取られ、まっすぐな瞳で訴えかけられる。

「明日香をもう一回あのマウンドに立たせてあげて欲しいの」

「えっ……でも昨日」

「もうあんな死んでるみたいな彼女、見たくないの!」

 彩乃の言葉を遮るように、咲は懇願する。

「明日香ね、男の子に勝つことだけ考えて今まで野球をやってたの、でもこれからは自分が楽しむために野球をやって欲しいの!」

 衝撃的な告白だった。

「その気持ち分かるよ。アタシもそうだもん」

「立木さん」

「分かった、オトコノコとかオンナノコとかメンドクサイこと抜きにした野球の楽しさを分からせてやろうじゃないの、燃えてきた!」

 咲を抱き寄せ、強めのハグ、数回、彼女の小さな背中を叩き、解放する。

「言ったからには協力してもらうよ、えーっと」

「あっ、畑中、畑中咲よ」

 彩乃が名前を分からず困惑しているのを察し、咲は改めて名乗る。

「畑中ちゃん、頑張るわよ!!」

「おーっ!!」

 意気投合した彩乃と咲は誰もいない教室の中、こぶしを突き上げ、叫んだ。


3

「部活の入部届け明日までだからな、一年生全員は必ず、何かしらの部活に入れよ、それじゃあ」

 担任の奥原がそれだけ最後に言い、帰りのホームルームが終わった。

 部活なんていうおままごとを強制して、一体何様のつもりなのか。

 反骨精神の塊である明日香の内心はやはり穏やかではなかった。

 今日もその言葉を意に介さず、鞄を右肩にかけ、帰宅しようとした。

「待て待てまてー、園崎明日香!!」

 猛牛のように走ってきた彩乃が明日香の鞄を掴み、止める。

「何、昨日断ったでしょ」

 触れたもの皆傷つけるナイフみたく、尖った言葉を彩乃に吐き捨てる。

 それに自分の身体を触られるのが嫌いな明日香はよけいにいら立っていた。

 彩乃の手を振り払い、拒絶する。

「おー、怖い怖い」

 ちゃかすような彩乃の言動にまた明日香は腹を立てたが、まだツーストライク。口には出さない。

「畑中ちゃんから聞いたよ」

 先ほどまでにやけていた彩乃の表情が急に険しく、真剣な面持ちになる。

 その一言に反応し、隣の席の咲をにらみつけると、申し訳なさそうな表情のまま、咲は両手を合わせた。

「アタシと一打席、勝負しな」

 昨日、神社で聞いた時はお願いをするようなニュアンスだったが、今は違う。

 さながら決闘を持ちかけるガンマン、命のやり取りを彷彿とさせる様子に、明日香は息を飲んだ。

「なんでそんなに私にこだわるのさ」

 私じゃなくってもいいじゃないか、つい逃げるように、そう言ってしまう。

「いや、あんたじゃなきゃダメなんだ」

 面と告白をするように、まっすぐな瞳で彩乃は言う。

 つい赤面しそうになり、目を逸らす。

「あの時、男の子に混じって、堂々とエースナンバーを背負ったあんたにアタシは惚れたんだ!」

 彩乃の告白を聞かさせられた咲も赤面し、両手で顔を隠す。

「おんなじなんだよ、アタシも、あんたも」

 その言葉が彩乃から紡がれると、明日香はそれを否定するように首を横に振る。

「私の何が分かるっていうんだ、偉そうに」

 下唇を噛み、もういいか、という表情で背中を向ける。

 私はもう離れたんだ、あの孤独なマウンドに立って、周りから奇異の目で見られることに。

 腕を振って速い球を投げられるようになった楽しさや、四番打者を打ち取った時の何にも代えがたい喜びから。

 私は離れたんだ、自分の意思で。

「逃げないでよ明日香!」

 今度は咲が声を上げる。

「野球に誘ったのは私だけど……、それからずっと五年間、何があっても辞めなかったのは野球が好きだったからじゃないの!?」

 明日香が振り向くと、目を赤く腫らし、また号泣する咲の顔が目に入る。

 あんな表情を見るのは小学校の頃、それこそ明日香が野球を始めるきっかけになったあの日以来だ。

「咲……」

「まっ、ごつくなったアタシから逃げたくなる気持ちも分かるよ、何せあの夏から女を捨て、五キロ、増量したからね」

 咲の肩を片手で抱き、開いたほうの手を広げ、見せつける彩乃。

「さすがの天才投手もおじけづいたか?オトコノコに勝ち逃げしたつもりが、まさかこーんなオンナノコに負けるなんて思わんもんな」

 先ほどとは打って変わり、少し小ばかにするような態度で、明日香をたきつける。

 もちろん、彼女の、彼女たち二人の作戦なのは分かっていた。こんな子供だましの古い手。

 だけどこの機会を逃したらもう永遠に自分の好きなものから目を逸らし続けてしまいそうな気がしたから。

「昨日会った神社の境内、そこで待ってる」

 明日香は二人にそれだけ言い放ち、足早に教室を後にした。


「おい、聞いたか、畑中ちゃん!!」

 明日香が去っていったあと、彩乃と咲は顔を見合わせ、抱き合った。

「立木ちゃぁぁぁん」

 汚い濁音のついたような発声で、咲が彩乃に抱かれ、わんわんと泣く。

「よしよし、あとはアタシがあのへそ曲がりをかっ飛ばすだけだな、うんうん、単純明快」

 子犬を撫でるように、わしわしと咲を撫でくり、彩乃も覚悟を決める。

「簡単でつまらん推薦校よりも、難しい環境の方が燃えるな、やっぱり」

 一年前、バットに当たってもろくすっぽ前に飛ばなかったあの時のリベンジをついに果たせることよりも、野球人として、再びあの天才と対決できることにしか意識が向いていなかった。

「ほれ、畑中ちゃん、いつまでも泣いていないで行くよ、審判がいないと勝敗が分からないからね」

 彩乃の剛腕に小柄な咲が引っ張られるように、二人も神社へと向かった。


 神社に二人が付くころにはもう明日香は階段の上で待っていた。

「さぼりすぎてるね、咲」

 万年階段と地元で呼ばれる長い階段に息を弾ませている咲を見て、笑みを浮かべる明日香。

「畑中ちゃんはこれからしばらくは陸上部で体力を戻さないとね」

 その横で得意げな顔で笑う彩乃の息はまったくといって上がっていなかった。

「二人が、おかしい、だけ、だから」

 息絶え絶えの咲はついに境内に仰向けに倒れて大きく息を吸ったり吐いたりしている。

「言っておくけど、負けるつもりはないから」

 挑戦的な表情で明日香はそう言い、境内の奥へと走り去っていく。

「おい、行くよ、畑中ちゃん、起きて起きて」

 去っていく明日香と倒れている咲の二人を交互に見ながら、催促するように彩乃は咲に告げ、追いかけ、走っていく。

「ちょっ、待ってよ!!」

 ぴー、ぴー、と咲も喚き、脇腹を抑えながら、二人の後を追いかけた。


 境内の奥、砂利道を抜けると、視界が開け、小さなグラウンドが飛び込んでくる。よく整備されたそこは、小さなマウンドらしきものも見え、よく手入れされているのも分かる。

そして何より、制服姿ではあるが、そのマウンドの上に明日香が立っており、彩乃は心を躍らせた。

「ここが天才投手の秘密の練習場所、か、ワクワクするね」

 階段を上がり、境内の石畳を走り、ここにたどり着くまで約十五分。身体を暖め、野球人としてのエンジンに点火するには十分すぎる距離。

「暑い!!」

 おもむろに彩乃が叫び、制服を脱ぐ、あらわになるのは下着ではなく、黄緑色のトレーニングウエア。

「まさかずっと着てたの!?」

「もちろん!」

 驚愕する咲にグーサインで答え、彩乃はカバンを放り捨てるとストレッチのように上半身を伸ばし、グラウンドへと向かう。

 二人ともグラブもボールもバットも持ってきていなかったが、グラウンドのベンチに整理され一式、手入れの行き届いている野球用具が置いてあった。

「ここ、備品もあるの?まるで野球神社ね」

「全部明日香の」

 一つ一つ触って確かめている彩乃に告げるよう、咲が言った。

 その一言に一瞬彩乃はポカン、とした表情だったが、くすり、と笑った。

「なんだ、やっぱり好きじゃない」

 ボール跡の残る金属バットを手にして、黙って立っている明日香の目線の先、左のバッターボックスに入る。

 それに遅れるように、ガチャガチャと慣れないプロテクターを着けた咲がホームベースより少し後ろに座る。

「作んなくていいの?肩!」

 少し挑発するように、彩乃がジェスチャーを交え、伝えるが、マウンドの上の明日香は首を横に振り、投球動作に入る。

 指先から放たれた白球は十九メートルに満たない距離をあっという間に走り抜け、咲の構えたミットへ吸い込まれていく。

 ただ、その威力を抑えられなかったのか、咲は取りこぼしてしまう。

 口笛を一回、軽快に鳴らし、一度、二度、打席から少しそれ、バットをスイングし、彩乃は再びバッターボックスに入り、構えた。


 咲からの返球を受け、さっきの一球に込めた意味を汲んでもらい、気を引き締めなおす。また孤独なマウンドの上に戻ってきてしまったことに後悔と隠し切れない喜びの混ざった複雑な感情に抱かれながら、打席からこちらをにらみつける彩乃の顔を眺めると、次第に、身体に熱が籠る。

 ああ、やっぱり私にはここしか生きる場所がないんだ。改めて実感させられる奇妙な高揚感に身を任せそうになったが、自制する。

 右足でマウンドを鳴らす長年のルーティンを終え、頭を冷やす。そして再び投球動作に入り、身体にしみこませたスリークォーターのフォームから球へ、力を載せる。


ミットにボールが吸い込まれる音が響く。

バットが出なかった。

「ナイスボール」

咲の言葉に彩乃は苦笑いし、白球が明日香に戻っていく様を見つめる。

内角高め、アタシの一番得意なコースに投げ込まれた速球に反応できなかった。

次こそは捉える。

バットを一度振り、構え直す。

今度こそ見逃さないように両目を見開き、ゆったりと、投球動作に入った明日香から目を離さない。


次は曲げる。

寸分たがわず一球目と同じ腕の振りから投じた球は鋭く、彩乃から逃げるように落ちる。

無様に空を切った彼女が悔しい、と叫び声を上げた。

思い出すのは夏の灼熱のマウンドと、泣きそうな女の子の表情。

 あの時と同じ配球、同じコース。

 咲から投げ返される白球を掴み、地面を均す。

 遊び球はいらない。ここで仕留める。

 足を上げ、投球動作に入り、構える彩乃と咲の構えるミットだけが視界を満たす。


 タイミングを崩す変化球カーブのせいでカッコ悪いところを見せてしまったが、次は捕まえる。

 明日香の呼吸を本能で捕まえるべく彩乃の感覚は、今日最大に研ぎ澄まされていた。

 彼女の球の幻影が頭から離れたことがない。

 今度こそ捕まえられるようにチームを引退しても、毎日後輩の生きた球を、バッティングセンターの剛速球をはじき続け、打ち負けないよう、泣く泣く五キロ増量した。

 すべてはアタシの心を奪った少女の、あの光を、捉えるために。


 乾いた金属音が響く。

 マウンドの上、明日香は決して振り向くことはなかったが、憑き物が落ちたように悟ったような顔をしていた。

 手に残る感覚を離さないよう、バットを握りしめたまま、彩乃は立ち尽くす。

「打った……」

 静寂を破るように咲が呟く。

「打ったんだ、アタシ!」

 その言葉に応えるよう、彩乃はバットを投げ捨て、咲に抱き着く。

 二人で抱き合い、はしゃいでいるところへゆっくりと、明日香が歩み寄り、どこか照れ臭そうに鼻をかく。

「ん」

 ぶっきらぼうに差し出された左手を彩乃は満面の笑顔で握り返す。

「よろしくね、明日香」

「つまらなかったら辞めるからね、彩乃」

 そんなやり取りにおかしくなったのか、互いに吹き出す。

「ちょっと、二人だけズルいズルいズルい!!」

 地団太を踏む咲をよそに明日香と彩乃は笑い合う。

 春の夕暮れ、まだ冷たい風に吹かれ、三人を照らすようにぽつぽつと星が輝く。

 それはまるでこれからの彼女たちの苦難と栄冠の未来を予感させるように。


おわり

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