第31話

 時はこうして過ぎ、半刻が経った。その時、再び銅鑼が響いた。

 この不意打ちに莢子は身を跳ねてしまい、あろうことか今度は銚子が指の先から滑り落ちてしまった。目を見開いて追おうとする彼女の視線。

 その時、男がサッと片手を出し、受け止めてくれたのが見えた。そして何事もなかったかのように、カタリと膳に置いた。

 居住まいを正し始める一同。外民が主人の後ろに控え出す。視線を向けてくる様子もない茜の主人からは、咎められる気配もない。

 莢子は小さな声で、「すみません、ありがとうございます」と伝えると、倣って後ろに回った。ようやく男の背に隠れられて、心底安堵の息を吐いた。

「王の御成りであるっ。一同、控えいっ。」

 その声に応え、一斉に平伏する。男共は胡坐をかいたまま、女共は正座でそれを行った。

 つと、それまで閉ざされていた雛壇の幕が左右に開いた。そこに現れたのは王と姫。二人は既に座していた。勿論、彼女の方は本物ではない。

 誰もそれに気付かない。莢子本人は息を呑む思いで、頭を上げてもよい時を待った。

 代表の者が、声を大にして挨拶をし始める。

「我らが王、我らが姫、この度は誠にお慶び申し上げますっ。一同、心よりお祝い申し上げますっ。」

彼は続けた。

「我が君にえあれっ。我が姫に幸あれっ。」

 すると、一同が面を上げつつ、これに唱和する。

「我が国に栄えあれ、栄えあれ、栄えあれっ。」

 これを聞くと王が口を開いた。

「楽にせよ。今宵を味わうがいい。」

 その声は以前よりも小さく、中程までにも聞こえそうになかった。莢子の位置でさえ怪しかったくらいである。

 また王は、以前のように何かを天井に向かって放ってはいなかったし、会衆もまた糸のようなものを天井の一点に向けて飛ばしてはいなかった。だからだろうか、この度は王の意を代表者が伝令した。

「我らが王からのお許しであるっ。存分に宴を楽しもうではないかっ。」

「応っ。」

男共が威勢よく声を揃えて答えた。

 再開される祝いの席。莢子は久しぶりに王の姿を目にし、感慨を覚えた。

 彼の隣には自分であって、自分ではない姫が居る。傍から見ればこのように映るのか、との羞恥心が湧く。全くの不釣り合い、とまで行かないのは、身形が釣り合っているからだ。お父さんと娘…は、言い過ぎか。兄と妹、なら通るかしら……。服装のみが釣り合っており、容姿に共通性はないので、どちらにしても多少の違和感は否めない。

 王はすっかり騙されているようで、偽物とは気付いていないと見える。ホッとするような、少しだけ寂しいような。

 ただ、喧嘩別れした後だったからか、壇上の二人はどこか余所余所しく見える。皮肉なことに、王と姫、互いの席は宴の為か、前より随分近くに設けられていた。

 彼らの前には食べきれないほどの料理が、一つの大きな台の上に並んでいる。にもかかわらず、どちらも視線を正面から動かさなかった。

(お祝いなのに、嬉しくないのかな。ニコリともしない。)

 いつも微笑んでいた印象だったので、硬い表情の王が珍しく思える。そして、ちょっと拗ねてしまう。

(結婚したかったんじゃなかったの。)

 ちっとも幸せそうに見えない男の姿に非難の視線を向け、プイと顔を背けた。

 主役のお披露目が終わったところで、雛壇からさえ、あの老婆を筆頭に側女達が下りて来る。どうやら王に対しても無礼講のようだ。主君は自分で料理を取って食べるらしい。だからこそ、並べられた料理は手が届き易いようにと、二人の膳の前に置かれていたのだろう。

 莢子の背後を、お世話になった先輩らが通り過ぎて行く。その気配に気付き、振り向いた。チラリと彼女らに視線を向ける。

 壁際に沿って歩いて行くので、声を掛けられるほど近いはずがない。何せ莢子は何列か前後で並んでいる内の最前列だ。裏切っていることを詫びる気持ちで、背後を過ぎる彼女らの背中を視線で追ってどこまでも見送る。

 段々、嫌な予感がしてきた。女性陣の最前列、中央、未だ空いたままの席。

 もっと奥にもまだ空いている席はあったが、それは王達を通す時に戸口を開けた控女達のものだ。第一、莢子が注目していたのは、最前列の席だけだ。そこには、奈多が未だに一人で座っている。

 悪い予想が徐々に形となっていく。近付いて行く老婆達。一体誰が、その席に座るというのか。莢子は薄情にも、先輩以外であるようにと願ってしまった。

彼女らが空いた席の前に立つ。息を呑む莢子。ああっ。彼女は思わず腰を浮かせた。対照的に、クルリと身を返して、腰を下ろす側女達。

 何てことっ。莢子は衝動的に叫び出したくなった。先輩が、先輩が、座ってしまったっ。どうしてこんなっ。奈多が、先輩を殺してしまうっ。

 ドクドクと脈打ち始めた鼓動を感じながら、莢子は体中が熱を持って行くのを感じていた。

 ダメだ、ダメだっ。何とかしなければならない。先輩を殺させる訳にはいかない。でも、どうしたらっ。

 自分一人の思いでは決断できない。皆が入念にこの時を計画し、ここまで形になったのだから。それを突発的な思い付きで、打ち壊しに出来るものでは決してない。けれど、時間だって無い。

 莢子は身を乗り出したまま、先輩を気遣って落ち着きをなくしていた。彼女の異変を察した清珆が、対面から訝しがっている。茜の主人もまた、給仕もせずに下座を気にしている彼女を不思議に思って、尋ねた。

「どうしたのだ。何かあったのか。」

 その声に、ハッと我に返った。切迫していた彼女はその拍子、あろうことか只の自分自身に返ってしまった。茜であることを忘れ、状況も忘れ、思わず縋るような視線を男に向けてしまった。

 ドキリ。今まで送られたことのない弱さ。庇護欲を掻き立てられる表情。それを受け取って男は怯んだ。冷静さを欠き、初めて動揺を見せた。

「な、何があった。申してみよ。力になれるやもしれん。」

 それまでの冷たい印象が形(なり)を潜める。今まで向けられたことのない素直な彼女に、彼もまた素顔が覗いてしまったようである。

 ところが、急な優しさは逆効果だった。慰められた莢子は、益々泣きたくなってしまった。力になれるはずがない。打ち明けられるはずがない。そう悲嘆に暮れてしまう。

 だが一転、にわかに閃いた。そうだ、駄目で元々なのだ。この際、言ってしまえっ。

「お願いです。私を、自由にしてくださいっ。お願いしますっ。」

 彼女はそれを口にすると、思い余って顔を手で覆いながら、あろうことか泣き出してしまった。

 自分でも思わぬ程に感情が高ぶってしまっていたらしい。慣れないことが続き過ぎた。板挟みが苦しかった。どちらの側にも立てきれない自分。殺人を強要された。何より、先輩が殺されるのは、今なのかもしれないのだ。

 男はギョッとした。このタイミングで、この内容。言われたことは、ずっと恐れてきたこと、決して言われたくないことだった。おまけに誇り高い彼女が、嫌悪している自分の前で泣き出すなどと、まさか思いもしていなかった。

 力となり、関係を改善する好機が一転、これでは悪者だ。いいや、初めから彼女にとっては、悪者でしかなかった。彼女に心を奪われた時から、悪者になるしかなかった。

 唐突に泣き出した外民に、まずは後ろ左右からの視線が集まり出した。それでも周囲は祝い事に沸きに沸いている。少しくらい声を上げて泣いたからとて、それほど目立たない。にも拘らず、この時、最も先に、誰よりも早く彼女の泣き声に耳を引かれた者、それはあろうことか、壇上にいる王だった。

 何ということだろう。彼は僅かに聞こえたかどうかの莢子の声に、敏感に反応したのである。彼はただそれだけで、彼女かと思う様な声に意識が引かれた、それだけで勘付いてしまったのだ。

 泣き伏している女性の顔は見えない。それでも髪の長さが違う。有り得ない場所にいる。まるで全てのことが莢子を指していないかのようなのに、それでもこのざわめきの中で、押し殺された彼女の小さな泣き声だけが選別できる。

 瞬時に王は、隣にいる姫に目を向けた。その急な動作に彼女も驚いて相手を見返してしまった。どうやっても莢子にしか見えない。だが、今なら分かる、何かがおかしい、と。

 彼は己が施した契約印の在りかを探ってしまった。

 途端に、愕然とした表情に変わる。バッと目を向け、壇下で泣いている女性を今一度確認した。王の様子に、莢子の皮の中にいる茜はゾクッとした。まさか、との恐れが走る。

 この不穏な空気を察した者は、清珆と鈴、奈多だけではなかった。忠臣の幾人かもそれに気付いた。

 一瞬で会場の一部が冷えてしまった。王は隣にいた者に再び目を向け、それから静かに問うた。壇上は凍る程に静かだ。

「お前は、何者だ。」

ガラリと豹変してしまった王。茜の肝も、この一言だけで凍りつく。

 悟られてしまった。場が整ったというのに、こんなにも早く。それまで受けていた直(ひた)向きな愛情は、やはり自分のものではなかったのだと、戦慄する程に痛感する。王から発せられる怒気が恐ろしい。

 実のところ、激しい感情は茜に向けられてはいなかった。彼は己の失態を非常に不愉快だと思っていた。彼は自分自身にこそ怒っていた。

 何故今まで気付かなかったのか。側に居て、声を聞き、触れ、彼女の身を抱えたというのに。我が事ながら呆れ返るほどの愚かさではないか。

 後悔と共に思い返されるのは、あの時のこと。

 予期もせず境の結界に触れた、彼女の感覚。それを感じ取った瞬間、寝ていた意識が覚醒した。

 彼女が、また境にいる。あの煙のいる、境にっ。逃げるつもりなのだ。彼女が、行ってしまうっ。

 それを知った刹那、感じたことのない恐怖に襲われた。確かに自失するほど動揺していたことは認めよう。とは言え、それを今まで引きずっていたなどと。それほどの影響を受けていたとの自覚がなかった。

 確かに恐れる余り、それから彼女を直視していなかった。彼女からの拒絶を、恐れる余りに。

 答えない彼女。更に問う彼。莢子の姿に、このようなことを言わなければならないことさえ忌まわしい。急激な高ぶり。この度こそは相手に向けられた感情だ。大罪を犯す、禍々しき者めっ。

「この事をしたのは、お前か。」

凍り付く様な怒り。肌にピリピリと走り、毛を撫でていく。

 嘘を言えば、殺される。答えなくても、殺される。茜は震える体をどうにか叱りつけて、僅かに頷いて見せることが出来た。

 彼は険呑な目で、当然だとばかりに相手を射抜いた。あの方が、自ら進んで持ち出した計画のわけがない。茜は絶望から身が総毛立った。

 憎き者、あの方の前でなければ殺していたっ。彼は吐き捨てるように鼻を鳴らすと、だが、意表を突いて、壇上から飛び出してしまった。

 それを目撃した者は、アッと誰もが驚いた。その一同が息を呑み、衝撃が急速に伝染するようにして、会場は完全に静まってしまった。

 天井に向かって何かを飛ばすような素振りを見せた王は、まるで振子のようにSの字に似た放物線を自身の体で描いた。そして丁度、茜の主人の前にストンと降り立った。

 部下である彼は、予期もしないこの事態に声も出せない。王が何故こちらにいらしたのか、祝いの席で外民を泣かせたことで不興を買ったのか、などと困惑している。

 一方、顔を伏せて泣き続けていた莢子は、周囲が突然、不自然に静かになったことに気付き、激しい動揺が止んだ。不思議な思いと共に、涙も止まる。疑問を抱いて顔を上げようとした、その拍子。誠に有り得ない声が側から聞こえて、彼女は固まってしまった。

「何故、この方が泣いている。」

問われた茜の主人は蒼白になった。混乱で、聞き間違えたか。王が、外民となった蛇の姫に、敬意を表した、など。

 莢子はその声の主を確認しようと、勢いよく仰ぎ見た。どうしてっ。我が目を疑った。王が、目の前に立っているなんて。

 茜の主人は歯の根も合わない体で、王の言葉を反芻している。同じ問いを自分に繰り返し投げかけた。

 臣下たる者、許しもなく尊顔を直視するのは無礼であるから、視線を上げないのは正しい。けれど、これは恐怖の余り、そうする勇気がないだけだ。

 この方、この方っ。外民に対し、王が、この方と……。やはり娘が、蛇の皇女だからなのか……。

 有り得ない事態に理解が追いつかない。心底から来る恐れが、それでも彼をどうにか答えさせようとする。それも、自分が正しいと思っている理解に従って。

「こ、この者、が、身を、解け、と。」

これだけ言うのが精一杯。けれど、王が遜(へりくだ)っている相手のことを、その眼前で本来の処遇通りに扱ったのだから、度胸がある。

 運が良いと言えるだろうか、当の王は、彼の答えの内容にのみ意識を向けていたので、お咎めはなかった。

 莢子が偽り者の解放を願っていることが、ただ不思議でならない。泣き出してしまう程、切望せねばならぬのことだったのだろうか。しかし、これもあの蛇の皇子のためと思えば、このような危険を冒してでも皇女の自由を願っているということになる……。

 莢子ではない顔が、それでも涙に濡れている。王は胸が締め付けられる思いがして、彼女の前に膝を突いた。その途端、騒めき立つ会場。王が、外民に表敬したっ。

 彼は構わず、莢子に話し掛けた。

「あなたと取り換わった者は、この者の所有物だ。その願いを叶えてあげたいが、どうするかはこの者に任せなければならない。どうか、理解して欲しい。」

 茜の主人に話が見えるはずもない。けれど、莢子にだって、この答えは呑めるはずもなかった。彼女はぎこちなく首を振る。

 王は更に困ったような顔をし、苦しげに問いを重ねた。

「何故、この者の解放を願うのだ。……彼奴の、妹だからか。」

 あやつ……。突然の脈略に、莢子さえも王の言葉が一瞬理解できなかった。だが、考えを走らせると途端に呑めた。茜が煙の妹だから、解放を強く願っているのだと思われているのだ、と。確かにそのことは大事だ。けれど、今一番の理由は……。

 慌てて莢子は首を振り、否定の意思を示した。

「だ、だって、そうじゃないと、先輩が……。」

と、言葉を濁す。

「せんぱい、とは。」

煙が第一の理由でなかったことに、どこか安堵した気持ちも、別の存在が台頭して吹き飛んだ。怪訝な顔をする王。

 けれども、その先は莢子にも続けられない。計画を明かす訳にはいかないからだ。そればかりではない。明かしたことが口火となって、強引に決行されてしまう恐れだってある。今出来ることはただ、必死に願うだけ。

「お、お願いします。煙の仲間の人達を、解放してもらえませんか。そうしないと、そうじゃなきゃ……。」

 混乱している。この理由を否定したばかりだというのに、何よりもそれを求める形になってしまっていることに気付いていない。やはりそれしかないのかと思って、王は傷ついたのに。

 彼女は言った。このタイミングで、遂に言ってしまった。

「そうしたら、私、あなたと結婚しますからっ。」

 二度目の戦慄が周囲に走る。茜の主人は色々な意味で息が止まった。清珆も鈴も、彼女の勝手に驚いている。けれど、こうなってしまったからには、莢子にはもう打つ手がなかった。

 この時、王の心中にこそ、比べられない程の強い衝撃が走っていた。それにこそ傷を負ったように、顔を歪めた。

 彼の反応は、莢子にとっては意外でしかなかった。急速に悟ったのは、己の思い上がりと、切り札にならなかった己の価値。煙が賭けてくれた己の力、王が嬉しそうにして願った己との結婚。蓋を開けてみれば、この身に価値など、どこにもなかったらしい。この選択は間違いだった、と痛感した拍子。

 すっくと王が立ち上がったかと思うや、莢子が化けている茜の手を強引に掴み、引いた。アッという驚きの内に、彼女は抱え上げられてしまった。

 無言の内に王は踵を返すと、上座の方へと進んで行く。呼び止める者は誰も居ない。誰もが固唾を飲んで静観している。王は立ち止まることもなく、忠臣達に向けて言葉を発した。

「少し席を外す。みなは続けていて構わない。ただし、あの者は直ちに座から下ろし、本来の主人に付かせておけ。」

「ははっ。」

 王が姫のことを「あの者」と呼ばわっても、彼らは少しも顔色を変えない。従順に頭を下げ、これを拝命するのみだ。そして、即座に実行する。

 清珆は今の今まで、何か事を起こす構えだった。茜が殺されると踏んでいたからだ。だが、王が言ったその命令に、意を翻した。

 王に連れ去られる莢子は衝動的に詫びた。

「ご、ごめんなさいっ。」

 皆これを不思議に思った。王に対するにしては不自然な大きさと角度だったから。それが分かっていたのは、この中で四人だけだった。

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