第35話 追憶・後編 立ちなさい、ソフィア

 初めは、ボーッとする時間が増えてきた、ぐらいの違和感でした。


(イヴリナも疲れているんでしょうね)


 その頃、理術研究院は前例のない画期的なスキルを研究しているとかで騒がしく、お父様も屋敷に戻らないことが増えていました。

 その実験に付き合わされているイヴリナも、当然忙しいのだと思っていました。


 イヴリナの様子が明らかにおかしくなっていると気付くまで、それほど時間はかかりませんでした。


「……キミは、誰?」

「ソフィアですよ。どうしたんです、イヴリナ。新しいジョークですか?」


 わたしが訝しむと、イヴリナはたった今、覚醒したかのように目を瞬かせました。


「そう、ソフィア。キミはソフィア。ボクは、アラステア・・・・・。アラステア。そう、あ、アラス、テア?」


 わたしにはまったく意味が分かりませんでした。

 いくら彼女にユーモアのセンスがあるとはいえ、脈絡がなさすぎると思いました。


「あなたはイヴリナですよね? わたしの友達」

「そう、イヴリナ。役立たずの低適性者ロークラス。価値がないもの。我々が変える。変えてやる。貴様を有効に活用する。活用。有効に。ボクを。変える、変わる、何かに、別の、変わって、何に?」


 壊れた蛇口のようにとめどなく溢れる言葉。

 狂ったようにギョロギョロと暴れる眼球。

 震えは手から腕、腕から肩、そして全身へと広がっていき。


「イヴリナ――落ち着いて、ちょっと、どうしちゃったんです!? イヴリナッ!!」

「ボクは! ボクは! ボクはボクでっ、ボクだから! 嫌だ! やめてっ、やめてっ、やめてやめてっ、入らないで、入ってこないでっ、繋がないで、やめてやめてよぉっ! やだっ、やだやだやだやだやだやだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 最後には白目を剥いて、崩れ落ちました。


 ……騒ぎを聞きつけてきた理術研究院のスタッフが集まってきて、あっという間にイヴリナを連れていきます。

 わたしは、ただそれを見ていることしか出来ませんでした。


 耳に残っているのは、喉を裂くようなイヴリナの慟哭と。

 駆けつけたスタッフ達が口々に囁く、失敗、過ち、修正、問題、隠蔽――そんな言葉でした。


 その後。

 何度、理術研究院を訪れても、イヴリナに会うことは出来ませんでした。


 代わりに施設のどこからか、あるいはどこからも叫び声が聞こえるようになっていました。

 あの日、イヴリナが発した悲鳴そっくりの、魂を削るような声。


 わたしは何かすべきだと思いました。


 もちろん、自分がイヴリナを助け出すこともできない、ただの子供だとは分かっていました。

 でも、何もしなければ、大切なものを無くしてしまうことも理解していました。


(……お母様に話せば、もしかしたら)


 抵抗はありました。もちろんプライドも。

 それでもあの人は世界最強の勇者で、騎士団で指折りの権力者です。

 わたしには想像もつかないような方法で、状況を変えることができるはずです。


 わたしは執事の方にお願いして、遠征中のお母様に伝令を送っていただきました。

 理術研究院の様子がおかしい、実験を止めさせてほしいと。


 返事は、


「君のお父様を信じなさい。彼は誇り高き騎士だ」


 とだけ。


(お母様には、分からないんですか)


 確かにお父様は精一杯に勤めを果たしています。

 それだけでなく、理術研究院の皆さんは騎士として誇りを持って研究をしているのだと思います。


 でも、だからこそイヴリナがおかしくなってしまっているんです。

 いくら誇りを持とうと誠実に任務を遂行しようと、何も救えていないんです。


 何かが間違っていると思いました。

 根っこの部分が――あるいは目指す先が。


 今すぐ止めなければ、きっと取り返しのつかないことになる。


 わたしは、決意しました。

 屋敷の武器庫に忍び込み、子供の体格でも扱えそうな剣をくすねると。


 理術研究院に乗り込もうとしたのです。

 例え誰に止められようとも、イヴリナを救い出すために。


 月のない夜。

 屋敷を抜け出して、理術研究院に向かって走り出したとき。

 もう異変は起こっていました。


(炎――あれは、研究院の方角からっ!?)


 夜の底を赤く照らす炎。

 暗い闇を拒絶し、明日の夜明けを掴まんとする意志の灯火。


 近づくにつれて分かりました――業火は研究所のすべてを焼き払う勢いでした。

 その中に人の気配がすることも。


(まさか……イヴリナ達が、これを?)


 あの錯乱状態に陥った誰かが、灯りを壊したんでしょうか。

 でも、ただの事故ならばすぐに消し止められるはず。

 何しろここは騎士団の施設なのですから。


 ――考えている暇はありませんでした。

 わたしは躊躇わず、施錠されたままの正門を叩き斬ります。

 鉄の扉を荒っぽく蹴り倒し、敷地へと飛び込みました。


 吹き付ける熱波とまとわりつく黒煙。

 そして転がっている屍。

 焼死体ではありません――焼けるより前に、誰かに全身をズタズタに引き裂かれたようでした。


 わたしは思わず足を止めそうになりました。

 でも、そうする訳にはいきませんでした。


(ダメです、今は怖がっている場合じゃないんですっ)


 まずは、お父様の執務室へと向かいます。

 確信があった訳ではありません――ただ、いつもお父様が机に腰掛けて笑っている姿が、思い浮かんだから。


 結果として、わたしの勘は当たっていました。

 半分だけ。


 お父様は執務室にいました。

 腹を切り裂かれ、腕を落とされ、足を砕かれ、血まみれの姿で。


「――お父様ぁっ!!」

「オイ……お迎え、が、ソフィア、とは――気が、利いてる、な」


 そして。

 お父様の傍らにはイヴリナが立っていました。


 半身を朱に染め、鮮血が滴る槍を手にして。


「――イヴ、リナっ!? 嘘でしょう、どうしてっ!?」

「ソフィア……ソフィ、ア――?」


 熱に浮かされたような彼女の眼差し。

 起きているのに眠っているような、ここにいるのにどこにもいないような。


「ねぇ、聞いてよ、ソフィア、この人達がね、みんな、ボク達をね、混ぜちゃうんだ、溶かして、こねて、混ぜて、違うものに、変えちゃうんだ、消えちゃうんだ、ボク達、は」

「イヴリナ、待ってください、どうしてこんなこと……っ」

「やめてよアラステア、ボクはアナタじゃない、気持ち悪いんだ、アナタが、怖い、怖いよ、やめてよ、助けてよ」


 イヴリナが何を言っているのか、わたしには分かりませんでした。


「聞いてください、イヴリナ! お願いです、話をしてくださいっ! でないと――」

「やめて、くれない、なら……もう、こうする、しか……」


 うわ言を繰り返しながら、イヴリナがゆっくりと槍を構えます。


 その穂先がこちらを示した時。

 わたしはもう踏み込んでいました。


「――――ッ!!」


 イヴリナの槍を砕くと同時に剣を折ってしまったのは、わたしの力不足です。

 でも、わたしにとってはどうでもいいことでした。


「すごぉ……い――さすが、だね……ソフィア」

「イヴリナ、やめてくださいっ、もう、これ以上は」

「ボクの、友達。ねぇ、たすけて、たすけ、て、たす、けて」


 ブツブツと独り言を繰り返すイヴリナ。


「たす、け、ころし、て、たす、け、て、こ、ろ、し、」


 それは願いだったのでしょうか。

 ……わたしはとうとう、すべて手遅れだったのだと悟りました。


 彼女の横を通り抜け、わたしはお父様を抱き上げます。


「お父様、しっかりなさってください、お父様っ」

「ああ……すまない。本当に、すまない、ソフィア……やっぱり、お前が、正しかった、んだ。オレ達は――間違っていた。あの子達を、こんな目に、合わせて、何も、できず……っ」


 お父様が吐き出した血が、わたしのブラウスを赤黒く染めます。


「……お前は、逃げなさい、ソフィア。ここは、危険だから」

「ダメですっ、お父様を置いてなんてっ」

「未来を……まだ、生きている人を、これからの、人を、救って、くれ。オレ達、が、できなかった――ことを。お前、なら、必ず」


 指が欠けた右手が、頬に触れました。

 その冷たさ。

 もう、生きている人のものではなくて。


「お前はオレの希望だ、ソフィア。お前には、可能性が、ある……だから、いきな、さい」


 お父様――エドワード・モーニングスター=リゲルはそう言い残して、息を引き取りました。


 ――窓ガラスが割れる音。

 飛び込んできたのは少年と少女。


 彼らは皆、同じ槍を持ち、同じ目をしていました。

 追い詰められた獣のような。

 怒りと恐怖に塗りつぶされた眼差し。


「ころす、ころして、たすけて、ころす、ころ、す」


 イヴリナと二人の乱入者は、まったく同じタイミングで、同じ動きで、わたしに刃を向けました。


 そのとき。

 わたしはふと、ポケットに忍ばせていたマナクリスタルのことを思い出しました。

 イヴリナがくれた、友情の証。


 握りしめると――彼女の声が聞こえたような気がしました。


(おねがい。ソフィア)


 錯覚だったのかも知れません。

 ただ、これから自分がすることを正当化するための、妄想だったのかも。


 でも。


(おねがい。もう、終わりにしたい、の)


 ――わたしは折れた剣を掴み、お父様を殺した犯人を斬りました。


 そうするしかなかったんです。

 あの時のわたしはとても無力で、他の選択ができなかったから。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 やがて、治安部隊がやってきたとき。

 わたしは血まみれのまま、中庭に座り込んでいたそうです。


 理術研究院の建物はほとんどが燃えてしまい、死者の多くは遺体の回収すら不可能だったとか。


 ようやくやってきたお母様――アメリア・モーニングスターは、わたしに言いました。


「立ちなさい、ソフィア。敵地で油断は禁物だ」


 たったそれだけ。


 あの人は、お父様の死を悼みもしなかった。

 誰よりも強い勇者なのに。お父様もわたしも救えたはずなのに。


 任務にかまけて間に合わなかったことを悔やみもしなかった。

 お父様の遺体を運び出せなかったわたしを責めることもなく。

 泣くことも、嘆くこともせず。


 だからわたしは騎士が――あの人が嫌いなんです。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「……すいません。長くなっちゃいましたね」


 言いながら、わたしはすっかり冷めてしまった紅茶に口をつけました。


「い、いえ……あ、謝るのは、こちらです。辛い話を、打ち明けてもらって……ごめんなさい、ソフィアさん」


 マリアさんの言葉に、わたしは曖昧に頷きました。


「辛いのはマリアさんも同じですよ」

「私なんて、そんな、全然……大したこと、なくて」


 寝間着のままベッドのクッションに身を預けているマリアさんは、やっぱり顔色が優れないようでした。


 ……あの過酷な二部試験から、およそ一ヶ月。

 入学式は無事終わり、わたし達新入生は聖クリス・テスラ女学院での生活を既にスタートさせていました。

 マリアさんを除いて。


(試験の最中にわたし達の命を狙ったレベード試験官。マリアさんは、彼女を……殺して、わたしを守ってくれました)


 おかげで、わたしやルシアさん、ジェーンさんはなんとか入学へとこぎつけたのに。


 マリアさん自身は戦いのショックから未だに立ち直ることが出来ないでいました。

 彼女をここまで導いてきた家庭教師のローズ中尉も突然姿を消してしまい、心を開ける相談相手もいないというのです。


(だから、少しでも気が休まればと思って、昔のことをお話しましたけど)


 よく考えたら、こんな暗い思い出を聞かされたところで、かえって気分が滅入るんじゃでしょうか。


(ああ、もう、わたしもカズラ先生みたいに上手くできればいいのにっ)


 戦うことが大嫌いになったわたしに、もう一度剣を取らせた先生。

 考え方もやり方も強引だけど、優しさを捨てきれない人。


 あの人がいてくれたから、わたしは今こうして戦う意味を思い出せたのに。


「……ソ、ソフィアさんは、そんなに辛い経験をしたのに……どうして、騎士になる道に戻ろうと、思ったの?」


 それはまさに今、考えていたことでした。


「えっと……きっかけは、やっぱりカズラ先生にお会いしたから、ですかね」


 思い浮かぶのは先生の横顔。

 刃のように鋭くて、冷たい瞳。

 決して曲がることのない強い意志の光。


「なんていうか――先生の授業を受けていたら、ついつい、もう一度やってみてもいいかな、って思えてしまって」


 わたしの言葉に、マリアさんは少しだけ頬を上気させて、


「や、やっぱり……すごい、方なんですね。私も、お会いしてみたいな」


 ……確かに。

 わたし、なんで思いつかなかったんでしょう。


「そう、それ! そうですよねっ! マリアさんも一緒にカズラ先生の授業を受けたらいいじゃないですかっ!」

「えっ、ええっ!? そんな、でも、お母様やアメリアおばさまがなんて言うか」


 デイブレイク家とモーニングスター家の間の対抗意識なんて知りませんっ。

 そういう面倒くさいのは大人に任せておけばいいんです!


「善は急げですよっ、さあ、支度をしてくださいマリアさんっ」

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