第188話 海への道のり――海水浴と刺身

 この世界の海水浴と地球の海水浴は、その性質が大きく異なる。

 現代地球の海水浴は行楽のひとつとなっているが、かつての海水浴というのは医療行為であり、近場の者が涼むための行為であり、或いは水軍で戦うための水練の一種だった。

 医療行為として広まり、そのまま行楽として定着したわけだが、その行楽の要素を取り入れるつもりでかつての英雄たちが作った更衣室と海水に体を慣らすための小さなプール。

 それが、この世界の海水浴のすべてとなってしまった裏にどのような不幸な行き違いがあったのか、その記録は残されていない。


 しかし600年の時を経て、ついにこの世界の者たちが、かつて英雄達が思い描いた海水浴を行なうに至った。


 日除けのための天幕と、レンがリオの洞窟で寛ぐために開発した折りたたみ式のビーチチェアが4つとサイドテーブル。

 地面にはレジャーシートっぽい模様の布。

 天幕の下には護衛。


 4つ並べた椅子には、レン、クロエ、ライカ、リオが座っている。

 女性陣は、格好をつけて言うなら、ノースリーブのチュニックとスパッツの上下。チュニックの下にはTシャツ。

 チュニックの胸のあたりには、体のラインを隠すためのフリルが付いており、腰にはカラフルなパレオが巻かれている。

 そして両の二の腕には大ぶりのアームバングル――実態はコルクを巻いて、その上から布を巻いて隠したもの。

 膝下には編み上げのサンダル、腕にも同じデザインの編み上げのブレスレット。


 ちなみにレンが着ているものも、胸のフリルがない以外はベースと構造はほぼ同じである。


 レンは灰色、クロエは青、ライカは緑、リオは赤と色違いで、護衛も概ね同じ姿にエンチャント付きのマントなどを羽織っている。


「お飲み物をどうぞ」


 と、レンのサイドテーブルに、トロピカルドリンクっぽく見える何かが置かれる。


 こうした場で、ビーチチェアに座ったまま飲み物を飲む際のマナーを誰も知らないため、まずレンから、ということなのだが、最初に飲み物をサーブされたレンは、俺から? とエミリアに尋ねる。


「海水浴の用意を調えたのはレン殿ですので、まずはレン殿からどうぞ」


 とエミリアがにこやかな笑みを浮かべ、レンの手にコップを握らせる。


「そか、なら、遠慮無く」


 椅子に横たわったまま、コップを口に近付け、ストローで透明感のある液体を吸い上げる。


 微炭酸の僅かな刺激を楽しみつつ、それを嚥下すると、レンは溜息をついた。


「……はぁ……しかし、日焼け防止の機能もあるから、日向で寝転んでも暑いだけだな」


 そう呟くレンに、クロエは本当は違うのかと尋ねる。


「英雄の世界だと、日焼け防止機能なしで、代わりに綺麗に日焼けさせたり、日焼けを抑える……ポーションみたいなものを肌に塗って寝転ぶかな。日焼けさせるのが目的の場合、ほぼ半裸で寝転ぶね……下着よりも面積が少ない水着とかがあるのはそういう理由だよ。狭い布面積の水着でできるだけ広い範囲を日光で焼いたりするんだ」

「……痛そう」


 そう呟くクロエに、レンは頷く。


「うん、日焼けは火傷と同じだからね、一気に焼きすぎると水ぶくれになったりもするよ」


 子供の頃、夏の最初にいきなりオイルもなしで長時間の日焼けをした結果、病院送りになったことのあるレンは苦笑いしながらそう答えた。


「この水着は大丈夫?」

「ああ。予めエミリアさんたちに水着のテストをして貰ったけど、焼けてないだろ? 肌が見えてる場所なんかは一応は日焼けするんだけど、一定間隔で弱めの回復がされる感じかな」

「クロエなんかは、元々が白いから、ちょっと日焼けしたら真っ赤になりそうだよね」


 とリオが手を伸ばしてクロエの腕を引っ張って眺め、あれ、と首を傾げる。


「こんだけ旅してて、なんでこんなに白いんだろう?」

「エミリアとフランチェスカの仕事の成果。最近はライカに教えて貰ったポーションを駆使した化粧品も使ってるから、日焼けしてもすぐに白くなる」


 リオも使う?


 と尋ねるクロエに、リオは溜息をついた。


「あたしはいーや、角とか鱗のつや出しとかなら興味あるけど」


 指先でクロエの手の甲をくすぐったリオは、その手触りに驚嘆しつつもそう答えた。


「エミリア達がリオは磨けば光るって言ってたけど」

「そこは全力で遠慮したいかなぁ……さて、それでレン、英雄の海水浴って浜で寝転んで終わりじゃないんだよね?」


 リオに聞かれ、レンは頷いた。


「基本は海で泳ぐ……大半は水遊びレベルだね。それと、貝を掘ったり貝殻を拾ったり。砂で何か作ったりとかもあるかな」

「こんな所でも錬金術? 土魔法かな?」

「? ああいや、砂で作るってのはそうじゃない……こう、砂山作ったり、砂で建物っぽいの作ったりっていう子供の遊び的なやつ」

「面白いの? それに砂で作ったって、持ち帰れないよね? 無駄じゃないの?」


 リオの言葉は、実のところ、レンが日本で思っていたこととほぼ一致する。

 だからレンはそれはその通りと頷き、だけど、と続けた。


「そういう無駄なことを遊びって言うんだよ」

「ふうん」

「レン、貝を掘るってどうやって? 貝は海の中にいるんじゃないの?」


 先ほどのレンの言葉について考えていたクロエは、レンにそう尋ねる。

 少し考えてから、レンは


「砂の中に住んでいる貝は結構多いよ。淡水だとシジミなんかがいるだろ?」


 と答えた。

 シジミは知っていたクロエは、なるほど、と頷く。


「シジミみたいのがいるの?」

「冒険者が獲ってきた貝の中にはそういうのも結構混じってたよ……時期的にはもう少し前の方が……って、ここの気候なら、いつでも大差ないか」


 日本の潮干狩りシーズンは初夏――5~6月か、それより少し前だが、こちらの世界だと冬でも日本の春先並みに温かい。

 季節を言っても意味はないか、とレンは時期についてコメントするのはやめた。


「貝はどうやって見付けるの?」

「この砂浜だと……あの辺が良さそうかな」


 南から流れてきた砂が一番分厚く、遠浅になっている浜の北端の岬の下のあたりを指さすレン。

 そして、道具もあると、小さなシャベルと熊手を取り出す。


「色々なやり方があるけど、俺が知ってるのは、足で探すやり方かな」

「教えて」

「波打ち際まで行ってサンダルを脱いで、足で砂を掘る。砂浜に小さな穴があったらその辺を重点的に。割と密集してるから、一個見付けたら周囲を掘ってみるのもアリだね。足で砂を掘って、その中に石っぽい感触があったら、貝かもしれない。後は、地道に熊手で砂を引っ掻いて、砂以外の感触があったら掘ってみるとか……マテ貝がいたら面白いんだけど、冒険者が持ってきた中には混じってなかったなぁ」

「マテ貝?」

「細長い貝で、縦に埋まってる。砂を少しどけて、穴があったら塩を入れてやると出てくるからそれを掴んで引っ張り出す……だけど、冒険者が獲ってきた中にはなかったから、この浜にはいないかもね」


 ふむ、と頷いたクロエは椅子の上で体を起し、レンから熊手を受けとり、サンダルを脱いで砂浜に足を付け、すぐに引っ込めた。


「熱くて痛い……水辺まで行けない」


 涙目になりながらそう訴えるクロエに、レンは溜息をついた。


「そりゃそうだよ。サンダルを脱ぐのは砂が濡れているあたりだけ。日向の砂は歩けないくらいに熱くなるからサンダルを用意したんだ……ああ、そういや、砂に埋めて貰うってのもあったっけ」

「埋まるの? それもやってみたい。でも先に貝を掘る」

「なら一緒に行くか。リオも行くか?」

「あたしは海に潜って何か獲ってくる。あ、入れ物あったら貸して」

「なら、これかな」


 レンは粗く編まれた網で作られた袋をリオに渡す。


「小さいのは網の隙間から出ちゃうけど、リオは大物狙いだろ?」

「当然」


 ギシッとビーチチェアを軋ませ、リオは全身のバネで飛び上がり、浜辺に着地する。


「じゃ、行ってくる。ライカは火の用意をしといて」


 そのままスタスタと海に向って歩いて行くリオを見送り、レンはクロエと護衛一行を引き連れて潮干狩りに向うのだった。


  ◆◇◆◇◆


 砂が濡れているあたりでサンダルを脱いだクロエは、指輪のアイテムボックスにそれをしまい、周囲を見回す。


「この辺?」

「そうだね……あ、波が届くあたりに立ってみなよ」


 クロエは、ギリギリ、波が届くかどうかという辺りまで進み、これで良いかとレンに顔を向ける。


「後、3歩。水着は濡れるための服だから気にせずに……最初は驚いて転んだりするかもだけど、危険はないから」


 レンの「転ぶ」という言葉にエミリアがクロエの横に進み、手を取って一緒に波に足を踏み入れる。

 そこに追加の波がきて、ふたりの足が、足首まで水に浸かり。


「うひゃぁっ!?」

「流砂?!」


 クロエが悲鳴をあげ、エミリアはクロエを抱き上げ、レンの方に放り投げようとする。が、目の前にレンがいたため、手渡すだけとなる。

 受け取ったクロエを横抱きお姫様だっこにしたレンは、


「落ち着いて。危険はないから」


 と、クロエを引き波の中に下ろす。

 クロエはレンの肘に捕まったまま、恐る恐る、足の裏の感触に意識を向ける。


 流れる水がくすぐったい。

 足場が消えていくような不思議な感覚。

 抜けた砂が足の指の間や足の甲に触れていく感触もくすぐったい。

 だが、それだけだった。

 足場は確かにほんの数センチほど消えていたが、倒れるほどのものではない。


「……これなに?」

「波が引くときに、足の下の砂が少しだけ持っていかれるんだ。遠浅の海なら大した危険はないから」

「面白い感触……足で穴を掘るってこれ?」

「いや、これだと波が来るところしか掘れないから、砂が少しだけ湿ったあたり……この辺とか」


 レンは、クロエに肘を掴まれたまま、貝を掘るのに適した付近に移動する。


「それじゃさっきのシャベルと熊手、それと一応麦わら帽子。邪魔なら使わなくても構わないよ」

「ん」


 レンがこんな感じで、と砂を足でどけて見せると、クロエはそれを真似て貝の感触を探す。

 それを見守るレンの後ろからエミリアが怨嗟の声をあげた。


「……レン殿、クロエ様をあのように驚かすのはやめて頂きたい」

「あー、ほら、何が起こるか分からずに体験した方が、新鮮な驚きとかがソレイルに伝わるんじゃないかって思ってさ」

「新鮮な驚き……そういう事でしたら、せめて護衛の私たちには何が起きるか教えてください」

「うん、それはごめん。悪かった」


 穴掘りに夢中になっている内に掘った穴が波に洗われ、掘った穴に向けて足元が崩れ、悲鳴を上げて転がったクロエに護衛が慌てたり、濡れたんだからと腰ほどの深さまで進んで犬かきをするクロエにフランチェスカが付き添おうとして沈みかけたりと、色々なことがあったものの。


「たくさん獲れた」


 クロエは嬉しそうに網を持ち上げ、満足そうに笑った。

 頭には麦わら帽子。

 右手には熊手。

 そして、左手にはリオが持って行ったものよりも小ぶりの袋が握られており、その袋は半分ほどまで中身が詰まっていた。

 暑くなると海に入って涼んでいたので、全身びしょ濡れだが、水着はしっかりとその体を覆い隠している。

 途中で付けたり外したりが面倒くさくなったクロエは、パレオは細く畳んで腰に帯のように巻いている。

 エミリアとフランチェスカは、最初の頃こそ叱っていたが、既に諦め顔である。


 袋の中身は大半がアサリとハマグリ。

 他にもバカ貝、シオフキが少々。

 この浜ではレアらしいマテ貝も、浜を巡回警備という名の散歩をしていたファビオが、それらしい穴を見付け、塩を使って出てきたものを捕まえていたりする。


 海岸に大きめの桶を置き、ウェブシルクで漉した海水を満たしたレンは、クロエが取った貝をそこに入れる。


「獲りたての貝は、こうやって砂抜きしないとジャリジャリするんだ」

「砂抜き?」

「砂の混じってない海水に入れて、吸い込んでた砂を吐かせるんだ。結構な量が出てくるよ」

「? 土魔法で砂だけ取り出せない?」

「あー……なるほど、その手があるか……生き物だけど、魔物じゃないなら出来そうだな」


 試しに、とハマグリをひとつ掴み、水に浸けたまま、土魔法で内部の砂だけを移動させてみる。

 すると、ハマグリが貝の間から管を出し、そこから海水と砂を吐き出した。

 体内で移動する砂の感触を嫌ったのか、別の理由かは分からないが、これなら完璧な砂抜きができると、レンは他の貝の砂抜きも続けて行なうのだった。


  ◆◇◆◇◆


 レンが砂抜きをして、ライカが炭火の用意をしていると、沖の方の海水が爆発したように吹き上がった。


「リオが暴れてるなぁ」

「あの位置ですと結界の外ですわね……かなりの大物を見付けてしまったのでしょうか」

「リオがあそこまで無駄に力を放射するような相手は、この辺にはいないと思うんだけど?」

「暴れたいだけかもしれませんわよ?」

「まあ、気配とかはそんなに感じないし……って、ああ、あれが目的か」


 沖の方の海面に沢山の魚が腹を上にして浮かび上がっていた。

 この距離で、そうと判断できるサイズなので、アジやイワシではなさそうだ。


「衝撃波で群れごと気絶させたのか。ライカ、あそこまで飛んで、大きいの何匹か回収してきて貰えるか? あ、結界の外だから慎重にね」

「かしこまりました」


 指の先を針で突いて小さな傷から血を流したライカは、身長の倍ほどの、先端が鈎状になった鉾――げきを片手に精霊闘術で舞い上がる。

 そして、海面に浮かんだ魚をざっと確認すると、大きめのものを選んで戟の先端で引っ掛けて、3匹をそれぞれシーツのような大きな布に包み、それを風の繭に入れて浮かべる。


「それはあたしの獲物ー」


 海面に顔を出したリオに、ライカは分かってると頷くと魚を浜に持ち帰る。


「でかいな……その形だとシイラか?」


 布で包まれた状態だが、額の部分の特徴的な形でそう尋ねるレン。

 ライカは頷くと、クロエを呼び寄せる。


「ですわね……早速血抜きをしてしまいましょう……クロエ様、珍しいものが見られますわ」

「珍しい?」

おかでこれを見る機会はあまりないかもしれませんわ。血抜きしますので魚の表面の色に注目してくださいまし……レンご主人様、作業台と、魚が入る大きさの容れ物に綺麗な海水をお願いします」


 砂浜の砂を材料にしてライカの注文に応えたレンが場所を空けると、ライカは台の上に布にくるまれた魚を置き、シイラを包んでいた布を外す。

 布を外した瞬間、それまでやや緑がかっていたシイラの表面が金色に変わって暴れ出す。

 ライカは暴れるシイラの目の上のあたり――人間で言うこめかみ付近にナイフを刺すと、エラにナイフを刺し、エラを外して尾を切り取る。

 そして、腹側から割いて内臓を取り出し、レンが用意した海水の入った容れ物に入れて良く洗う。

 海水はすぐに真っ赤になるが、その赤の中で魚の色が白っぽく変化する。


「不思議」

「実は私も見るのは初めてですわ……昔、シイラは泳いでる時と水揚げした後、捌いた後で色が変わると聞いてましたの」

「レンは知ってた?」

「……釣り針に掛かったシイラは、金色になって、仲間に、ここは危ないって教えるって話は聞いたことはあるけど、俺も見るのは初めてだよ」


 ドキュメンタリーか何かで見た知識を披露するレンだったが、その仕組みまでは知らない。

 捌いたら色が変わるという事から、血流か筋肉の収縮が関係するのだろうか、と首を傾げつつ、そう答える。

 だが、その程度の知識でもクロエは感心したように納得する。


「漁船に乗っていないとあまり見る機会はありませんから、稀有な体験と言えるでしょうね」


 そう言いながら、ライカは残りの二匹も手早く処理をする。

 と、波を掻き分けてリオが戻ってきた。


「ライカ! それあたしの獲物!」

「運ぶのを手伝っただけですわよ? あと、傷みやすい種類でしたので、先に血抜きをしておきましたわ」

「む……なら一匹は貰ってもいい?」

「もちろんですわ……というか、この人数では1匹でも食べきれませんので、二匹引き取って頂けます? ……下処理は要りまして?」

「なら二匹貰うけど、片方はエーレンにあげるから血抜きと内臓わた抜きだけで、もう片方は幾つかに切り分けといて貰えると嬉しいかな」


 レンは砂浜にもうひとつ作業台を作り出すと、ライカが解体した切り身を一口サイズに切って、小麦粉と塩、乾燥させたハーブを振って、串に刺す。


「レベッカさん、ジェラルディーナさんはこれを焼いて貰えるかな。それでリオは他に何を獲ってきた?」

「大きめの貝とエビが沢山と大きなタコ」

「エビは……伊勢エビみたいなヤツか……タコはでかいなぁ……足を3本貰って焼いても良いか?」

「その辺はりエーレンはあんまり食べなし、あたしの分も焼いてくれるなら、好きなだけどーぞ」


 リオの収穫を確認したレンは、クロエが獲った貝とそれらを使った最も簡単な料理をすることにした。

 つまり。

 切って焼く、茹でる。

 ライカが用意したバーベキュー台で串を焼く。それだけでは足りないため、七輪にも炭を移して、網の上にハマグリを乗せ、貝が開いたところで醤油を垂らす。

 その七輪を5つ。

 エビは半分に切って、切った面が上になるように焼く。

 加えて、魔石コンロに布で漉した海水を満たした鍋を載せ、温度調整で一気に90度まで加熱して、その中にアサリとエビを入れて茹でる。

 タコの足を3本もらい、2本は皮に切れ目を入れて、下味を付けて串に刺し、それもレベッカたちに任せる。


「……まあ、食べるのは俺くらいだろうけど」


 皮を取った生のタコ、生のシイラの切り身。エビの尻尾。

 それらを浄化し、温度調整で過冷却した水に浸け、芯まで冷えたあたりで取り出し、それっぽく切り、エビ以外は常温近くに戻したものを皿に盛り付け、醤油の小皿をセットする。


 なお、その際に外したタコの皮は細かく刻んで鍋に放り込む。


 しばし、沈黙があたりを包む。

 炭火の表面に落ちた醤油混じりの汁が弾ける音。

 それらが蒸発する煙。

 そして暴力的なまでの海産物と醤油の香り。


 全員が早く食べたいと思いながら、それらが完成するのを待っていた。


「……そろそろ串とハマグリは頃合いかな。どうぞ?」


 レンがそう言うとまずはエミリアが、普通の料理ではないため、毒味として自分の前のハマグリに手を付ける。

 耐性エンチャントアクセサリーを身に着けたクロエが毒に倒れる恐れはないわけだが、この場ではまっとうなやり方をした方がよいとファビオに勧められたためである。


 貝は焼けるとき、上側に身が付く事が多い。

 バランス悪く、貝殻の中に汁を溜めたハマグリを、汁をこぼさないように熱さに耐えつつ口に運んだエミリアは、汁を口に入れて溜息をついた。


「……ふはぁ……美味しい……あ、問題ないです……美味しすぎること以外」


 その官能的とすら呼べる表情と、貝に溜まった汁を飲み干す際に少し上を向いた喉から胸のラインにラウロが唾を飲み込むが、ラウロの名誉のためにもそれはあくまでも食欲によるものだとしておこう。


 全員がハマグリを食べて同様に溜息を漏らす。


 レンはサンテールの街で料理人の職業を中級に育てていた。

 その影響で、単に焼いただけのハマグリは極上の味に仕上がっていた。


「串焼きもコレとコレは大丈夫」


 そう言ってレンが網の上から大皿に乗せた串に、フランチェスカの手が伸びる。

 こちらも一応は毒味である。

 シイラの表面にまぶした小麦粉に付着した乾燥ハーブが焦げ、香ばしさとハーブ特有の香りが漂う。

 魚の脂とハーブの香りを小麦粉が吸い取り、じゅわじゅわと音を立てている、

 それを串から外し、一口はむりと齧り取り、熱に苦労しながらゆっくりと咀嚼すると、口の中にそれらが混じり合った香りが広がり、小麦粉に混ぜた塩の味がアクセントとなり、魚の味を更に楽しませてくれる。


「……こんなに美味しい魚は初めて食べた」


 フランチェスカがはふ、と小さくため息を吐き、問題ないとエミリアに頷きながらもう一口、また一口とあっという間に食べ終わる。


 串を焼いたのはレベッカとジェラルディーナだが、切って下味を付けてと串を作ったのはレン。

 そしてレベッカは狩人として、料理人の基礎となる技能を自然に育てていたため、その味は屋外で食べるには不似合いな程に繊細なものとなっていた。


「食材が新鮮だからね……クロエさんとリオに感謝だ」


 レンはタコの串焼きを囓りながら笑った。

 そして、網の上のエビと串の位置を調整する。

 そして、ご飯茶碗ほどのサイズの木の器に、茹でていた貝などのごった煮を入れて全員に振舞う。


「これは貝の煮物かな……エビの頭とかタコの皮なんかも入ってるから風味はそっち寄りになるかもだけど」

「これは卑怯っす。匂いだけでも絶対美味しいって分かるっす。あーしはもう我慢できないっす」


 とレベッカが誰より早くスープを口にして、エビの濃厚な香りとタコの旨味と貝の出汁の味のハーモニーに固まる。

 そして、すぐに再起動して、熱さに涙しながら凄まじい勢いでスープを平らげていく。


「……なんすか……こんな味を知ってしまったら、あーしは明日から何を食べて生きて行けばいーんすか?」

「それはともかくとして、それはスープは飲まず、具材だけを食べるものですわよ」

「そんな勿体ないことできないっす……あー、それにしても、どうすればこれだけのものを食べられるんすかね」

「料理人の中級が増えれば、この味に近い物は食べられますわ」


 こともなげにライカはそう告げる。

 実際、数こそ少ないが、複数回学園に学んだ生徒の中にはそうした職業を身に着けた者もいる。


「そんな料理人が……平民のあーしの手が届く場所にいるはずないっす」

「ならば、もっと弓の腕を磨きなさいな。トリスターノだって昇爵の話があったのでしょう? もう少し努力すれば、あなたもその域に届きますわ」


 その言葉を聞き、その手があったかとレベッカの表情が輝く。


「ですが、早くしないと、学園の生徒達に追い抜かれますわよ。急ぎなさいな」

「そ……そうっすね。頑張ります……」


 そんなやり取りを眺めながらレンは自分用に用意した皿に手を伸ばす。

 目ざとくそれに気付いたクロエが、新しい料理かと目を輝かせる。


「レン、それは何?」

「……火を通していない魚、タコ、エビ、かな」

「これから料理するの?」

「いや、安全に、生のまま食べられるように用意した刺身だけど?」

「お刺身……アレですか」


 ライカが苦いものでも食べたように顔を歪める。


「ライカにも昔、食べさせた事なかったっけ?」


 魔物素材で作った刺身定食は、かなりのバフが掛かるため、何回か作ったことがあったはずだとレンが尋ねるとライカは頷いた。


「……レンご主人様が作った物はとても美味しかったのですが、英雄たちが姿を消したあと、大勢が刺身を食べて体を悪くしたりしているのです」

「あー……安全な作り方知らないとそうなるだろうね」


 寄生虫の問題もあるが、魚というのは海や川に棲息していた生き物である。

 その表面や内臓には細菌が付着している。

 新鮮な魚をまな板に乗せ、そのまま包丁を入れれば、包丁もまな板も、何なら料理人の手も汚染される。

 そのあたりを知っていれば細菌のトラブルは避けられるが、知らなければ対策は困難である。

 ライカの話を聞いたレンは、その結果だろうと嘆息した。


「安全?」


 と恐る恐る尋ねるクロエにレンは頷くが、クロエは手を伸ばさず、レンが生の食材を口に運ぶのをうわぁ、という表情で眺める。

 と、


「レン、あたしも一口」


 とリオが口を開く。レンはシイラの切り身をリオの口に運んでやる。


「ん……おいしいね。切っただけとは思えないや……あ、エーレンも味見させろって」

「はいはい。ならもう一切れな」


 レンからシイラ、タコ、エビを貰って美味しそうに食べるリオを観察していたクロエは、特にエビを食べたときのリオの表情が蕩けたのを確認し、レンの皿に視線を向ける。


「レン……エビは茹でてある?」

「ん? いや、冷水で締めてざく切りにしただけだね。茹でる前は半透明で、茹でると白く変わるんだ」

「……一かけらだけ食べてみたい」

「……エビが良いのか?」

「ん」


 取り皿に小さく刻んだエビの尻尾をのせ、醤油をひと垂らし。ワサビは付けない。

 それをまずエミリアに渡すと、流石に生ということに強い抵抗があるのか、エミリアが固まる。


「生ですからね。私が試しますわ」


 苦笑いしながらライカがそれを受け取り、小さく刻んだ欠片のひとつを口にして見せ、残りをクロエに渡す。


 フォークで持ち上げたそれを、まじまじと見つめたクロエは、そっと匂いを嗅ぎ、僅かな逡巡の後、パクリ。

 軽く咀嚼した途端、その目が大きく見開かれる。


 丁寧に噛みしめ、口の中に広がるエビの味と、鼻に抜けていく独特なエビの香りを堪能するクロエの幸せそうな表情に、そこまで美味しいのかと、あまり生に抵抗のないレベッカが分けてほしいとレンに頼む。


「いいけど、レベッカさんは生は平気なの?」

「狩人はたまに生の肝臓とかも食うっすから。まあ、火が使えるなら、炙るっすけど」


 でかいエビだから、まだまだあると、レンは小皿に取り分けるとレベッカはそれを口に運んで悶絶した。


「……くぅー! これはっ! 美味しいが詰まってるっす! ここまで凝縮するもんなんすねぇ」

「エビの旨味成分は複数種類が混ざっているし、分かりやすい甘みもあるからね。エビの風味が嫌いでない人なら美味しく感じるだろうね」

「これ! この味って内陸のエビでは出せないんすか?」

「……普通に川で獲ったのだと無理だね」

「レベッカ、うるさい」

「す、すんません!」


 目を閉じ、味覚と嗅覚に集中していたクロエが苦情を述べると、レベッカは慌てて口を閉じる。


(こういうのがあると、海岸に近い土地に拠点を作るってのも良さそうだな……アイテムボックスとかをもう少し流通させれば、内陸で新鮮な海産物を食べることはできるだろうけど、流通コストが乗る分、高値になるだろうし)


 レンは刺身を食べながらそんなことを考えるのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る