六 都の薫り


「申し申し。誰かいるのですか?」

具親は恐々と声をかけて耳を澄ましているが応えはないようだ。でもシゲが戸に耳を当てたまま小さく声を上げた。

「ほら、泣いた」

「も、物の怪?」

息を呑んで離れた具親の代わりにヒミカが戸に耳をくっ付ける。

——ミュウ、ミュウ、フニャア。

か細い泣き声が聴こえてくる。でも。

「これは仔猫の鳴き声じゃないかしら?」

「こ、子猫?」

 途端に具親がホッとした顔をした。

「真に猫ですか?物の怪ではないのですね?」

念を押す具親の顔が青ざめていて可笑しくなる。と、具親が不思議そうな顔をした。

「どうかしました?」

「いえ、佐殿は物の怪かと怯えておられたのですね」

すると具親は至極真面目な顔で言った。

「そりゃあ物の怪は怖いに決まっておりまする。姫の前は物の怪が怖くあらしゃいませんのか?」

「ええ。私は物の怪、というより死霊なら特に怖くありません。だってその辺に沢山いらっしゃいますし」

そう答えたら、具親はその大きな目を剥いて後ろに飛び退った。ヒミカは慌てて言い足す。

「あ、でも死霊は此方に邪気が無ければ寄って来ませんし平気ですよ。そういう意味なら野盗や野犬の方が怖いです」

「寄ってこない?本当ですか?」

具親はそう言ってオドオドと辺りを見回す。その様子にヒミカはつい噴き出してしまった。声を立てて笑うヒミカを具親はまた不思議そうな顔で見た。

「あ、ごめんなさい。私は祖母からそういう霊魂などが視える力を受け継いでいて、以前は巫女をしていたのです。でも貴方様は悪霊が寄り付かない性質のお人のようだから悪さもされにくいし、そういうモノが視えることもないでしょう」

「悪霊が寄らないタチ?それは護り刀のことですかな?」

「いえ、そういうご気性という意味です。とにかく、佐殿は大丈夫ですよ」

具親は大きな目を更に大きく見開いてヒミカを見ていたが、漏れ聴こえてきた仔猫の鳴き声にハッと気付いたように戸から離れると襟を正して軽く咳払いした。

「ど、何処かの隙間から忍び込んで産んだのでしょうね。どうしましょうか?」

問われ、鎌倉のタンポのことを思い出す。

「母猫が居るならそっとしておいてあげた方が良いかと思います。ある程度子育てを終えたら仔猫達と共に外に出て行くでしょう」

下手に踏み込んだら母猫が子猫を置いて行ってしまうかも知れない。そう伝えようと思った時、トモが戸に手を掛けて開けようとした。

——ガタッ!戸が大きな音を立てる。でも開かない。

「こら、トモ!」

「だって赤さん猫見たいよぉ」

「駄目よ。母猫と子猫がはぐれたらどうするの?二度と会えなくなってしまうかも知れないのよ。それは可哀想でしょう?」

そう言い聞かせたらトモはようやく諦めて去って行った。やれやれと言って具親も立ち上がる。

「では、私は戻って出掛けますので、後のことは適当にお願い致します」

そう言って去りかけた具親をヒミカは追った。

「あの。妹君のお屋敷をお貸し下さり、誠に有難う御座います」

頭を下げたヒミカに具親は首を横に振り、スッと手を差し出した。

「では次は貴女に私の屋敷を案内しましょう。家人達にも紹介しなくては」

——妻の振りをするのだった。思い出してどきりとする。

「あ、はい」

「貴女は正直なお方で、嘘は苦手そうに見えますが、妻の振りをして大丈夫ですか?」

ヒミカはつと黙ったが、覚悟を決めて顔を上げた。具親の手を取り、後について具親の屋敷に入る。

「はい。確かに嘘はあまり得意ではありませんが、出来るだけのことは努めさせていただきます。ただ、お公家様の風習に全く通じておりません。お公家の北の方は、普段はどのように過ごされてるのですか?」

具親はうーんと首を傾げた。

「私もよく知りません。だから貴女の好きにやっていただいていいですよ」

「好きに?」

そう言われても困る。具親は笑って続けた。

「私は変わり者で通っていますし、家人らもそれを気にしない者ばかり揃えてますから誰も何も気にしませんよ。でもまぁ、京の大抵の女性は邸内で几帳の陰に隠れて、日がな琴を弾いたり和歌を詠んだり香を焚いたりしてじっとしているようです。でもそんなことしたくなければしなくて構いません。お好きなことをなさっていて下さい。あ、因みに琴か琵琶か、何か楽はお好きですか?宜しければ取り寄せますよ。何もしないのはお暇でしょうから」

ヒミカは悩んだ。琴は祖母にある程度習ったが、あまり身が入らなく上手になれなかったので、近年殆ど触っていない。

「お恥ずかしい話ですが、田舎育ちで嗜みが殆どありません。でも、やってみたいと思った楽はあります。具親様、あ、ごめんなさい。佐殿は笙の笛はお出来になりますか?」

——笙の笛。

佐殿——頼朝が好きで、たまに奏でていた。ヒミカはその掠れた風のような和らかな音色がとても好きだった。

「ええ、笙の笛なら持っています。お待ち下さい」

そう言って具親は立ち上がり、奥の部屋へと入って笙の笛を手にすぐに戻ってきた。口にあてがおうとしたが、下ろすと問うた。

「吹き方はご存知か?」

ヒミカが首を横に振ったら具親はそっと微笑んだ。

「どなたか笙の笛がお好きな方がいらしたのですね。夫君ですか?」

「いいえ。佐殿、あ、いえ、初代の将軍様です」

具親はチラとヒミカの顔を見て口を開いた。

「貴女は初代の将軍様をお好きだったのですか?」

ヒミカは頷いた。

「はい。私を娘のように可愛がってくれましたので」

すると具親は、へぇと目を丸くした。

「もう七、八年前になりますか。東大寺落慶法要の折に上洛された右大将殿のお姿を遠くから眺めたことがあります。ご立派な様子だった。でもそれで貴女は私のことを『佐殿』と呼ぶのに躊躇いがあるのですね」

ヒミカは項垂れた。

「はい、そうかもしれません。御免なさい」

「謝ることはありませんよ。では、これからは私のことは名で呼んでいただけませんか?」

「え?」

「トモチカと。先程呼んで下さったように」

ヒミカは慌てて手を振った。

「先程は御免なさい。でも御名でお呼びするのはさすがに」

だが具親は引かなかった。

「妻の振りをしていただくのです。是非に」

そう言われては従う他ない。

「わかりました。では具親様、もう一つお願いを聞いていただけませんか?六波羅の中原親広様と北条時房様に、私は此方のお屋敷にお世話になることにしたのでご安心下さいとお伝えいただきたいのです」

「そうでしたね。では早速、六波羅に使いを送りましょう」

「有難う御座います」

ヒミカは頭を下げた。これで、母や子らと共に落ち着く場は確保出来た。あとは——


「追い出されたにせよ自ら選んだにせよ、貴女はここ京にやって来た。貴女はここで何をしたいのですか?どう過ごすおつもりですか?」


こちらの答えを見付けなければ。



その時、御免という声がして誰かが入って来る気配がした。具親がサッと立ち上がってヒミカの手を引くと奥の部屋へ入り、またその奥に敷いてあった畳の前に下ろされていた御簾の端をサッと持ち上げ、ヒミカをその中へと入れた。

「おや、これは失礼。取り込み中だったか?」

現れたのは、僧籍にある人のようだった。

「慈円殿。貴方はまた案内も請わずに」

具親の咎めの声を慈円と呼ばれた僧侶は笑って流した。

「良いではおじゃりませぬか。お互い気楽な身の上」

だが、御簾の内のヒミカに気付いたのだろう。「おやおや、これは」と御簾に軽く近付いてニヤリと笑った。

「やれ、衆道かと危ぶんでおりましたが杞憂でしたな。よきかな、よきかな。院からの佳きお話をのらりくらりと交わして、とんだ果報者と噂しておれば、成る程。左様であらしゃいましたか。何やら左兵衛佐殿のお屋敷が騒がしいと耳に入っておじゃったので、野盗ではと案じて訪ねましたが、よもやそういうことだったとは。いやいや、大変に失礼した。では、私はお先に参内しておりますれば、左兵衛佐殿はどうぞごゆるりと」


慈円はそう言って、もう一度ヒミカをひたと見つめると、ホホホと笑いながら忍びやかに去って行った。具親は戸をしっかりと閉じると戻って来てヒミカの前で頭を下げた。

「彼は九条兼実殿の弟君で、天台座主も務めた慈円という名の僧侶です。私の和歌仲間でもある。いつもああやってフラッとあちこち出向いては、気に入った人物を匿ったりちょっかいをかけたりする、何というか型にはまらない変わった人物で、そういう所が私とは気が合うのですが、貴女を驚かせてしまいましたね。ご気分を悪くされませんでしたか?」

「私は平気ですが、妻の振りをして本当に良かったのでしょうか?おおごとになりませんか?」

「平気ですよ。公家の女性は喋らないし顔も見せない。上出来でした。ただ、慌てたので扇を渡しそびれてしまった。お顔を見られたやも知れません。申し訳なかった」

「あ、それは別に。とにかくお役に立てたなら良かったです」

「はい、有難う御座いました。では私は出掛けますので、お隣の皆さまの元にお戻りいただいて構いませんよ。先の慈円殿のような訪問者は稀ですし、たまに姫の前殿の気が向いた時に此方に顔を出していただく程度で結構です。笙の笛はまたいずれお教えしましょう。それから、隣とは外に出ずに行き来が出来るように家人に間の生け垣を少し削らせますから、そこをお通り下さい。また様子を見てお声を掛けさせていただきますが、それまではどうぞゆっくりとお過ごし下さい。お母君もお子たちも、そして貴女も、ずっと気が張り詰めておられたようですから、お腹を膨らませたら先ずはおゆっくり休みください」

「はい、有難う御座います。具親様」


これで役はひとまず果たせたのだろうか。ホッとしたヒミカに、具親は「では」と背中を向けて、あっさり去って行った。臙脂の狩衣に淡い色の掠り模様の入った指貫袴の雅な姿。ああしていると如何にも都の官人らしい。でも不思議な人だと思う。心が分からない、苦手だと口にしながら、するすると美しい響きの和歌を詠み、子らには優しく、物の怪に怯え、物腰は穏やかで丁寧だけれど、どこか頑なで内に秘めた何かを持っている。人をある程度以上寄せ付けないように気を張っているようにも見える。


その時、ふわりと風に乗って白檀と仄かに甘い香りがヒミカの髪を散らした。その髪を抑えようと右手を上げてヒミカはハッとした。自分の袖に甘い薫りが移っていた。先程、具親に引っ張られて奥の間に入れられたからだろう。ヒミカはきゅっと口を結んだ。

この位は当たり前。妻の振りをする役目なのだから。

——でも、いつまで?そして、その後はどうなるのだろう?この広い京の都でヒミカに出来ることなどあるのだろうか?


 不安を抱えたまま蔀戸の内側から覗き見た空は重たい灰の色をしていて、ビュウと音を立てて木枯らしが庭の木の葉を散らすのが如何にも寂し気。ヒミカは暫しの間、風にくるくると回される落ち葉を見つめた後に、パンと頰を叩いて立ち上がった。

「よし!一眠りしたらお庭の掃き掃除から始めましょう」



 でもヒミカが思うより、京の町は小さく狭いようだった。

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