八 心染む

 意を決して口を開く。

「尼御台様、将軍様は先の将軍様の後を継いで、争いのない公平な国をつくろうとお考えで、その一歩として、新恩された領土の一定以上の分を再分配される案をお出しになったのです。先祖伝来の領土を差し出すには諸氏の抵抗も強いでしょうが、新恩であればさほどではない筈」

言って頼家を見る。アサ姫も頼家を見た。

「頼家殿、そうなの?」

頼家が曖昧な顔をしたのでヒメコはヒヤリとする。違っていたのだろうか?勝手に喋ってしまった自分を悔いる。だがやがて頼家が仕方なさげに口を開いた。

「御家人連中の力の差が大き過ぎるのです。富む者は更に富むが、そうでない者らの不満は増すばかり。そんな些細な訴訟に時が費やされるのには飽き飽きした。そんなことより蹴鞠を通じて京の朝廷と親交を深めるべきなのに、つまらぬ雑務に邪魔されてそれがなかなか進まぬ。ならばいっそ、と思っただけです」

アサ姫は大きなため息をついた。

「蹴鞠は確かに京との親交は深めてくれるでしょうが、京ばかり見ていては足下を掬われますよ」

すると頼家は薄く笑った。

「ああ、父上はそうでしたね。母上も。父上との約束など無視すればよかったのに。そうすれば金品だけいいように持って行かれて三幡が殺されることもなかった」

「頼家殿!」

「私は父とは違うやり方で京と戦うつもりです。公家らのいいように振り回されたりはしない。鎌倉をこれからも永く続く武家の安住の地とする為には、口ばかり出してくるだけで戦力としてはもう大して役には立たない宿老が固執する前例やら無駄な慣例やらを改める必要がある。そう思って私は新恩再分配の提案をしたのです」

そのはっきりとした物言いにアサ姫は暫し口を噤んで、頼家の顔を見つめていた。

彼は彼なりに父母の背中や御家人らの姿を見て、姉妹のその生を思い、父が目指して成し得なかったことを為そうとしているのかも知れないとヒメコは思った。


暫しの沈黙の後、アサ姫が静かに口を開いた。

「貴方がそのようにお考えとは知りませんでした。母は今のこの鎌倉を保つことしか考えていませんでした。それが亡き殿の御心に沿うことと思っていました。でも、そうね。貴方は貴方でした。将軍としてこの鎌倉を、武士らを守ってくれるなら、私はそれ以上望む事はありません」

そう言ってアサ姫はホゥと息を吐いた。頼家が身を乗り出す。

「母上。では」

「ええ、文官らには私からも口添しましょう。ただ、急な変更に人の心はなかなかすぐには追いつけないもの。貴方は幼い頃から我慢が苦手でしたが、大事を成すには、じっと忍耐を重ねて時機を待つことも肝要。それが貴方に出来ますか?」

 試すような口ぶりに頼家は少し嫌な顔はしたが、黙ってアサ姫を見ていた。アサ姫はややしてそっと微笑むと遠く過去を思い出すような顔をして口を開いた。

「龍が天空に昇るは風雲の勢い。鯉が竜門を登るは、己の力と言われます。力を蓄えつつ、天の機を待つこと。それが鯉が龍になり天へと昇る要なのです」

そう語るアサ姫の後ろにヒメコは頼朝の影を見た気がした。

「鯉が龍に?そんな話があるのですか?」

問うた頼家に、アサ姫は目を見開いた。

「八幡太郎義家公が大江卿より相伝し、源氏に伝承されている『闘戦経』という兵法書の中にあったでしょう?貴方にも伝えさせた筈。読んでないのですか?」

「兵法書であれば『孫氏』は何度も。でも『闘戦経』とは初めて聞いた気がします」

アサ姫は落とした扇を拾い上げ、ハタハタと仰ぎ始めると呆れたように言った。

「貴方にはもっと学びが必要です。中原広元殿は、その兵法家の大家、大江卿の直系の子孫と聞いてます。兵法について教えを受けるに一番の人です。早速教えを乞いなさい。蹴鞠よりそちらが大切ですよ」

「へぇ、あの中原広元がねぇ」

頼家はそう呟いてからニィッと楽しそうに笑った。

「それは楽しいかも知れん。試しに今度聞きに行ってみますよ。ただ、次の十八日には蹴鞠の会を催すと皆に言ってあので、その後ですね」

そう言って頼家はアサ姫に頭を下げると立ち上がり歩き出した。

ヒメコの前で立ち止まる。

「姫御前。礼を言う」

ヒメコはホッとして頭を下げた。だが頼家は続けた。

「姫御前、私の側に付いてくれぬか?」

ヒメコは驚いて顔を上げた。頼家はアサ姫に向かって口を開いた。

「母上、江間義時より正式に姫御前を貰い受けたく思います。姫御前は私の耳に痛いこともはっきりと口にし、目も逸らさぬ骨のある女。姫御前なら、若狭よりも御台所となるに相応しい。母上もそうはお思いになりませんか?」

「よ、頼家!貴方、何を言ってるのです!ふざけるのは止めなさい」

「ふざける?とんでもない。本気ですよ」

アサ姫が立ち上がる。ヒメコの前に立つと手を広げて庇うようにして頼家を阻んだ。

「義時は貴方の叔父ですよ。その妻を奪おうとは、正気とは思えません」

「叔父だから何なのです?阿野全成も私の叔父。古来より、叔父と甥とは相争うもの。天武天皇も甥の大友皇子と争った」

「そんな古代の話をしてるのではありません!」

「では近くでも、富士の巻狩で殺された工藤祐経は叔父で義父の伊東祐親と争っていた。叔父と甥とはそういうものなのでしょう」

ひどく淡々と言い継ぐ頼家。

「もう比企もそれなりに軍備を整えた。安達景盛の時のように母上が矢面に立って戦を止めようとしなくていいのですよ。江間とやり合ったって私は負けはしませんから」

「何を申される!叔父だろうと家臣だろうと、例え平民であっても、他人の物を欲しがるとは、幼く浅ましいにも程がある。施政者としての恥を知りなさい!」

激昂するアサ姫に頼家はあくまで飄々として答えた。

「何、文官らの話では、京の都ではよくあることとか。家臣の方から妻を差し出して代わりに官位を望む。実際、鎌倉でもそんな申し出が幾つかありましたよ。面倒だから大半無視しましたがね。差し出される物など詰まらぬ。苦労してでも望むものを獲た時の悦びの方が遥かに大きいではないですか。そう、狩と同じです」

そう言って、頼家はヒメコをしげしげと眺める。

「のぅ、姫御前。そなたが諾と答えてくれれば、そなたを正室として御台所と定める。また、江間義時にはそれなりの領土と官位を推挙してやり、子らも後々、幕府にて重き役を与えてやるぞ」

「頼家殿、そればかりは断じて許しませんよ!家臣を、女を軽んじるにも程がある!狩と比べるとはなにごと!」

それからアサ姫はヒメコを振り返った。

姫御前、ここはいいからもう下がりなさい。頼家の好きにはさせませんから安心なさい。さ、早く!」

アサ姫が退室を促したが、ヒメコは頼家を見上げて一礼した。

「将軍様、有難いお話なれど、私は心に沿わぬことは出来ぬ性質ゆえ、お断り申し上げます」

目を見てはっきりと告げる。そう、心染むことがヒメコにとって最も大切なこと。頼家は目を見開いてヒメコを見返したが、やがて笑い出した。

「そう言うだろうと思うたわ。そして、もし私が無理にとそれを押し通す命令を下せば、さて次は何をやらかすやら」

ヒメコは黙って頼家を見返し続けた。

——そんなの知らない。


頼家は暫し笑った後、笑いを収め、ヒメコの前に軽く腰を下ろして顔を突き出した。それらの仕草がヒメコにふと誰かを思い起こさせる。

『のぅ、ヒミカ。そなたはどう思う?』

———佐殿。

沈香の懐かしい香りが辺りに漂った気がした。

「姫御前、では聞こう。どうすればそなたの心に沿うことが出来る?」

 ヒメコは眉を顰めた。つと黙ってから口を開く。

「そのようなこと、私の方が聞きたいくらいです。心は私の物であるようでいて私の好きにはなりません。思い通りにならぬから、迷い困る。だから私はその声を聴こうと耳を傾けます。そして感じてみる。それが心地良いか良くないかを。そうして心の惹かれる方に向かって動きます」

 言ったら頼家はふぅんと唸った。

「分かった。覚えておく」

それから立ち上がって去って行った。


 気配が去ってひとまず安堵してアサ姫と目を交わす。

「姫御前、ごめんなさいね。何を言い出すやら。でも先程の様子なら、貴女を尊重するつもりはあるように感じられたから無理は言ってこないと思うけれど。でもとにかく、すぐに小四郎を呼ぶから共に帰りなさい。それから暫く御所に来ては駄目よ。江間の屋敷も警護を固めてね。とにかく、よく分からない子だから」

 ヒメコは曖昧に返事をした。

———よく分からない子。確かに自分で産んだ子でもよく分からないと思うことは、ままある。

「あの。それで、先程の将軍様のご提案についてはどうされるのでしょうか?」

「ええ。あの子が広元の所でよく学んで、広元と心を通わせられるようになったら、私が口添えして進めてみるわ。でもあの子があのように考えていたとはね。正直な所、嬉しいのと悔しいのと半々で微妙な心持ちだわ」

「悔しい?」

 問うたらアサ姫は笑った。

「まだ子どもと思いたかったのに先を進まれていたようで、ね」

 ヒメコは頷いて一緒に笑った。子に追い越される。それは喜ばしいことであり、少し寂しいこと。それを素直に悔しいと言えるアサ姫は、とても彼女らしいとヒメコは思った。

でもとりあえず、これでアサ姫と頼家の元、鎌倉は一つになって進んでいける筈。北条と比企も争わず、共に力を合わせて。



だが、その二十日、頼家は急病に倒れた。蹴鞠の会が終わり、中原広元の屋敷へと入った、その日のことだった。

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