九 執着
秋に泰時が三浦義村の一の姫を娶るので、ヒメコはその支度に忙しかった。三浦の姫を娶るという約定がされたのは、彼が元服をした時。それから八年経っての婚儀。その間二人は会うこともなく、言いつけ通りにその日を待っていたのだ。それは別に変わった話ではないとはわかりつつ、ヒメコはふとコシロ兄に聞いてみたくなった。
「殿は何故、私と結婚されたのでしょうか?」
問うたら、目を剥かれた。
「お前が妻にしろと言ったのだろうが」
「あ、はい。そうなのですが、あんな幼い子どもの頃のことなので」
十も歳の離れた子どもの求婚。それを真に受けたわけではないだろう。実際、あの時のコシロ兄には妻として迎える人がいて、軽く受け流された。
コシロ兄は暫く黙ってヒメコを見ていたが、ヒメコがじっと待っていたら、やがて仕方なさそうに口を開いた。
「母以外で、俺を必要としてくれたのは、お前のあの言葉が初めてだった。だから、ずっと気にかかった。忘れられなかった」
「初めて?」
コシロ兄は頷いた。
「俺には兄がいたし誰も俺に何も期待しなかった。だから俺も他の人間に何も期待しなかった。ただ周囲に波風を立てないよう気配を消し、命じられたことだけをこなして流されて生きてきた。存在だけは許して貰えるように。そこへお前が現れて妻にしろと言った」
「では、私が妻にして下さいと言ったから結婚したのですか?もし言わなかったら?」
「佐殿が取り持って下さらなければ結婚してなかったかも知れん」
「まぁ」
怒って見せたらコシロ兄は軽く笑った。
「でも結婚してなかったとしても、俺はきっとお前に懸想していただろう」
そう言って、コシロ兄はヒメコの頰に触れた。
「お前は俺とは真逆だ。俺は陰のようにして生きてきた。父に逆らわず、流されて生きていた。お前はお日さまのように光っていた。自分をしっかり主張して曲がらない。へこたれない。その姿は見ていて小気味良く、俺には羨ましかった。だから、想うだけでいい。そこに生きていてくれるだけでいいと、黙って見守っていたかも知れない。だが、お前は俺に歩み寄ってくれた。そして佐殿が娶せてくれた。子らを生んでくれた。俺は欲張りになった。誰にも奪われたくない。佐殿にも」
「佐殿?」
意外な言葉に驚く。もう亡くなっているのに。御所様と言おうとしたのだろうか?
「敵いもしないのにな」
コシロ兄はそっと目を落として自嘲気味に口の端を上げた。酷く思い詰めたような顔。何かあったのだろうか?ヒメコはコシロ兄の袖を掴んで引っ張った。
「殿、殿は流されて生きてはいらっしゃいません。流れには乗りつつも自分をしっかり持ってる。皆を受け入れながらも自分の信条は保って流されない。相手を思いやり、合わせつつも大切なものは見失わない。私はそう思います。私はそんな貴方だから好きになったのです。忘れないで下さい。貴方は必要とされている。居なくてはならない人なのです」
懸命に言葉を継ぐ。コシロ兄は自分を過小評価している。ずっと自分を抑えている。それがヒメコには切なかった。
「貴方は本当は何でも出来る人です。流されているのではなく、流れに上手く乗って皆を幸せに導くことの出来る人。どうか貴方が信じる道を貫いて下さい。私は貴方を信じています。いつでも何処でもずっと」
言い終えた瞬間、息が出来ないくらいに強く抱き締められた。そのまま時が過ぎる。
「殿?」
ヒメコはコシロ兄が何かの強い衝動を堪えているように感じられた。身はヒメコを抱き締めているけれど、その心はどこか遠くを逡巡しているように。
「信じる道、か。貫いても良いのだろうか。主と親を裏切ってでも?」
「え?」
よく聞こえなくて聞き返す。コシロ兄は、いや、と首を横に振った。
「お前は俺を買い被っている。俺は弱い。迷う。人に振り回されてばかりだ。父を止めることも誰かを諌めることも出来ない。ただそこに居るだけ。お前を奪われないように、ただ隠して逃げてばかり。俺は無力だ。本当は佐殿みたいになりたかった。あの人のように堂々と生きられたら。そう願った。だが、やはり俺には遠過ぎる」
コシロ兄がこのように感情を吐露するのは珍しいこと。前にあったのは、そう。婚儀の夜だった。あの時も確か父の話をした後にコシロ兄は変わった。北条時政とコシロ兄。親子二人の間には何か深い因縁めいたものがあるのかもしれない。
コシロ兄はヒメコを離した。疲れたようにその場に腰を下ろし、膝を立て、その上に腕を乗せて考え込むような姿勢で止まる。
「お前を失いたくない。この執着はいずれ俺を泥沼へと引き摺りこむかも知れないな」
「泥沼?」
何故そのような恐ろしげな事を言われるのかと戸惑う。コシロ兄はじっとどこかを見つめたまま続けた。
「佐殿が昔、俺に言ったのだ。何にも執着するなと。執着は事を為す時の妨げになる。足を掬われ引っ張られる。淡々と為すべきことをやれ、と。だが」
そこで言葉が切れる。
「分かっていても出来ないのが人なのかも知れないな」
ヒメコは何も言えず、ただコシロ兄から離れたくなくて、その隣で黙って俯いていた。
——人は分かっていても導かれるように過ちを冒す。それを業というのかも知れない。佐殿が京に執着したように。数多くの武人が土地に執着して命を落としたように。
この時、既に北条時政も比企能員も、また幾ばくかの御家人らも、其々の思惑を胸に独自に動き始めていた。でもヒメコはそんなことはまるで知らずに過ごしていた。
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