十八 英雄の死


師走二十七日の夕刻に倒れてより、頼朝は目を覚まさなくなった。年が明けても、それは変わらない。コシロ兄はずっと御所に詰めていたが、年明け四日に着替えに戻ってきた。

「目を覚まさないとは意識が戻らないということですか?息はされてるのですか?」

ヒメコの問いにコシロ兄は頷いた。

「息は一応されているのだが、いつ止まってもおかしくないとの診立てだ」

「何故、落馬を?狙われたということはないのですか?」

コシロ兄は首を横に振った。

「わからない。だが、そのような気配はなかったし、姉上は病だと言っている。特に対外的にはそう言うようにと」

「落馬された時のご様子を教えていただけませんか?」

「俺はいつもの通りに将軍のすぐ前を歩いていた。突然、誰かが声を上げたので振り返ったら、将軍が落馬されていた。慌てて駆け付けて手をお貸ししたら、いいと言って、ご自分で立ち上がられ、鎧に足をかけて何ごともなかったように騎馬され、そのまま御所まで戻られた」

「落馬時に頭を打ったということはありませんか?」

「すぐ後ろで見ていた者の話だと、一瞬頭を押さえたように見えた後に、前のめりになって、馬からずり落ちたということだ。咄嗟に身体を丸めて転がられたようなので、頭はそれ程強く打たれてない筈だが」

「そうですか」

「ともかく、鎌倉中がひどく騒がしくなった為、暫くの間は御家人らは一旦全て領土に戻らせ、御所への立ち入りも禁止となった。将軍様の親族と、その世話をする数人の女官、下働きの者らのみが立ち入りを許されている。政務は中原のご兄弟や三善殿が取りまとめ、御台所の指示を仰ぎながら対応している。

「御台様が」

「とにかく、将軍様が目を覚まされるのを待つ他ない」

コシロの顔は白く、眉間には深い皺が寄っていた。

ヒメコはコシロ兄の手を取った。

「殿、少しだけでもお休み下さい。また直ぐに御所に行かれるのでしょう?」

コシロ兄は、ああと頷いて、その場に寝転がった。ヒメコは立って、その上に着物を掛ける。コシロ兄は半刻もせずに起き上がると出掛ける支度を始めた。

「殿、私は親族に入れていただけるのでしょうか?」

問えば、コシロ兄はヒメコを見下ろして

「御所に行きたいか?」

固い声で尋ねた。

「はい、御台さまが心配です。何も出来なくても、叶うならお側に」

コシロ兄は僅か黙った後に、分かったと言ってくれた。

「だが、今の姉はかなり恐慌状態にある。すぐに追い出されるかも知れない。それでも行くか?」

「はい。お願いいたします」


頼朝は御所の一番奥の部屋で眠っていた。その枕元にアサ姫が腰を下ろしている。三幡姫と千幡君も。アサ姫が顔を上げる。

「あら、小四郎。また来たの?何も変わらないわよ。眠り続けたまま」

 その声は普段の通りに平静を装っていたが、その顔は凍りついたように強張っていた。

 目を閉じて横になったままの頼朝。真っ白な顔には生気がない。でも僅かに上下する胸と、少し歪な寝息が、彼がまだこの世の人であることを教えてくれている。ぼんやりと頼朝を眺めていたら、アサ姫が気付いて声をかけてくれた。

「ヒメコも来てくれたのね」

黙って目礼だけ返す。

有難う。ごめんなさいね。私、止められなかったのよ。あんなに寒い日だったから、追善供養なんて行かなくていいと言ったのだけれど、どうしても行くと言って」

アサ姫の声に滲む深い後悔の色。

「馬鹿よね、本当に馬鹿。バカ真面目で、言い出したら聞かなくて。そして私も馬鹿。止めたら余計に意地になるのは分かっていた筈なのに、上手く止められなかった。出掛けている間中ずっと不安で、富士に巻狩りに出かけていた時のことを思い出したりして。殿が御所に戻って来た時、ホッとして駆け寄ったの。そしたら殿は笑ってこう言ったわ。『アサ、やったぞ。私は父祖の例に倣って鎌倉の主となったのだ。そなたは鎌倉の女主だ。これから八幡と家族三人、この鎌倉でのんびり暮らそうな』って。まだ夢でも見ているかのように。それから八幡を大声で呼び始めたの。私、とても驚いて、つい言ってしまったの。『八幡は死にました』って。そしたら殿は真っ赤になって怒り出して、一頻り大声で何やかや怒鳴り付けた後に、突然『喉が渇いた。水をくれ』って。それで水を渡したら、それを一息に飲んで歩き出して、そして崩れるように倒れて、そのまま」

誰も何も言えずに頼朝の顔を見つめる。千幡君が立ち上がって、アサ姫の隣に腰を下ろす。宥めるように母の手を握る千幡君の姿が、余計に幼く物悲しい。

「言うんじゃなかった。行かせるんじゃなかった。私のせいだわ」

アサ姫は暫くブツブツと何かを口にしていた。だが、突然立ち上がった。

「誰か、中原の兄弟を呼んで!頼家の任官はどうなったの?」

その時、人が何人かドヤドヤと入ってきた。頼家や比企能員だった。続いて比礼御前が赤子を抱いて入ってくる。

「母上、遅くなり大変申し訳ありません。父上のお具合は?」

「目を覚まさないわ」

頼家は頼朝の枕元に膝をついた。

「父上、何故こんな事に。初孫の顔を見てやって下さい。源氏を、この鎌倉を継ぐ子ですぞ!」

言って、頼朝の肩を揺すり始める。ヒメコは驚き慌てて、それを止めようと手を伸ばす。だが、その手が掴まえられた。コシロ兄だった。

「恐れながら、若殿。医師は、将軍様の息が安定せぬ為、けして触れぬようにと言っておりました」

コシロ兄の冷静な声に、頼家が逆上した。

「江間義時、何故父上は落馬されたのだ?そなたらの不行き届きではないか!あの日随行した者らは皆、責任をとって蟄居せよ!今すぐだ!さっさと出て行け!」

その剣幕に場が凍る。コシロ兄は黙って頭を下げ、部屋を後にする。ヒメコもそれを追った。

廊に出たら、声をかけられた。

「ざまを見なさい」

振り返れば、比礼御前だった。

「これからは若殿の世よ。あんたなんかには二度と御所を出入りさせないわ」

ヒメコは眉を上げた。何故、こんな時にそんなことを?でも奥の部屋の頼朝を思い、努めて冷静に返す。

「比礼御前様、私は何かあなたに恨まれるような事をしましたか?何故、いつもそのように私を目の敵にするのです?」

問うたら、比礼御前は紅い唇を歪めてヒメコを睨みつけた。

「ええ、あなたの存在自体が憎くて恨めしいからよ。ヒミカ!

——何故、私の真名を?


驚いたヒメコに比礼御前は口を開けて笑い出した。

「私が誰かまだ分からないのね。私はライカ。比企の娘よ」

——ライカ?聞いた事がない名前。比企の娘?


「私はあんたを許さない。あんたに成り代わってやる!さぁ、とっとと出て行きなさい!二度と御所に上がって来るんじないわよ」


——何故?誰?

 考える間も反論する間もなく、ヒメコは御所から追い出された。


結局、頼朝はその数日後の十一日に出家し、十三日に息を引き取った。その報は数日の内に京や諸国に伝わり、様々な波紋を広げた。あまりに急な最期に人々は、これは平家の祟りだと噂した。



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