十六 死に時
ヒメコは膝立ちになって、頼朝の微かに震える指先をギュッと掴んだ。だがその瞬間、ヒヤッとした感覚に目を見開いた。
「佐殿、指先にきちんと感覚はありますか?痺れていませんか?胸に痛みはありませんか?苦しくはないですか?」
つい矢継ぎ早に問うてしまう。頼朝は煩そうにヒメコの手を振り払った。
「何をふざけたことを。痺れなどあるわけなかろう。そなたは心配症だな。尼君そっくりだ」
「でも」
言い募ろうとしたが、アサ姫が戻ってきた。頼朝はヒメコから顔を背け、何気ない風に言葉を継ぐ。
「次こそはきっと姫が産まれるだろう。また名を付けてやるからな。楽しみにしておれよ。わかったな?ヒメコ」
名を呼ばれるが、先程握った指先の冷たさが気になって言葉が出ない。黙ったまま頼朝の顔を見つめ続ける。
「ヒメコ、どうしたの?嫌なら嫌と言わなくては」
アサ姫の言葉にヒメコは弾かれるようにして口を開いた。
「はい、嫌です」
反射のように出て来た言葉だった。
「おい、無礼だぞ」
コシロ兄の咎めの声に慌てて頭を深く下げる。頼朝が笑って言った。
「良い。こやつは昔から嘘がつけぬからな。私が名をつけるのは不服か?」
「いえ、そうではありません。ただ」
そこで言葉に詰まる。
「ただ、何だ?」
そう問いかけつつ、頼朝の目は、もし胸のことを口にすれば、ただではおかぬぞという強い気を放っていた。
駄目だ。今、この場では言えない。ヒメコはゴクリと喉を鳴らした。
「た、ただ、松とか梅とお付けになりそうなので」
そう誤魔化したら、頼朝は高らかに笑い飛ばして、では竹にしようと言って広間を出て行った。
「どうしたの?ヒメコ。どこか具合でも悪いの?」
アサ姫がシゲを抱き渡してくれながらそう言う。
——嫌なのは、姫の名前ではありません。
京に行ってはなりません。胸の病を治さないと。でないと、と本当はそう言いたかった。でも言えなかった。
——でないと、佐殿のお命が危ういのです。佐殿が死んだら私は嫌なのです。
そこまで言葉が出てしまいそうだったから。不吉な言葉を使って悪い言霊を呼び寄せるわけにはいかなかったから。でも……。
ヒメコは目の前に置かれた松の緑の葉を見ながら唇を噛み締めた。その時、シゲがホェェ、ホエェと弱々しく泣き始める。
「下がろう」
コシロ兄に促されて立ち上がる。心残りを抱えたままヒメコは御所を後にした。
翌日、ヒメコは中原の山伏に宛てて文を書く。だが返事が戻らない。それを待つ内に時が過ぎていく。
「あの、中原親能殿はお忙しいのでしょうか?」
将軍様のことで急ぎ話お伝えしたいことがあるから江間に来て欲しいと書いたのに。
「中原殿は、今は京におられる。若殿の左大将任官と乙姫様の女御宣下について、土御門通親殿と縒り合わせをされてる筈だ。年内には戻られる筈だが」
「年内?」
——どうしよう。それでは間に合わない。直接アサ姫に文を書かなかったことを悔やむが仕方がない。ヒメコはコシロ兄に願った。
「殿、将軍様は胸を患っておられるようです。どうか、それを御台さまにお伝えして、政務をお休みいただくよう取り計らっていただけませんか?」
「胸を?確かに先日は咳込んでおられたが」
「どうかお願いします。これから寒さが増す時期で、あらゆる生気が衰えて生き物達はじっと息を潜めています。今しっかりと休んで鋭気を養っておかないと、とても年明け早々の上洛は叶いません」
言い切ったヒメコに、コシロ兄は何も答えず、そのまま出て行った。
——お願い。どうか伝わって。
祈りながら時を過ごす。目の端に映る松の盆栽。逆境の中でも緑を失わずに春を待つ強い樹。でもその緑が今日はどこか痛々しい。
——もう、いいんじゃないかい?
そんな声が聴こえた気がした。
——お祖母様?
頼朝が、祖母の夢を見たと言ったことが思い出されてヒメコはゾッとした。
「嫌です。まだ、まだ道半ばなのに。だって、佐殿は死んではいけない人なのでしょう?
——お前はもう分かってる筈さ。駄々を捏ねるんじゃないよ。死に時の話をしたのを思い出しな。
「死に時」
——死に時が来たら夜暗くなって眠くなるように死にたくなって死ぬ。
「で、でも佐殿はまだ死にたくない筈よ。まだやることがあるって」
——道を全うして満足して死ぬ人などないよ。そういうものさ。だから出来ることだけ精一杯やりなと、ずっと言ってきただろ?
「でも、お祖母様!」
叫んで気付いたら朝だった。夢を見ていたのか。祖母が来てくれたのだとわかる。
——出来ること。そうだ、今の私に出来ることをしなくては。
ヒメコは立ち上がって着替えた。
「頼時、これから御所に参内します」
留守を頼もうと思ったのに、頼時は立ち上がってヒメコの隣に並んだ。
「お供させて下さい」
ヒメコは頷いた。
——これもお計らいかもしれない。
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