七 住めば都

翌日、祖母は輿に乗せられて鎌倉の町を見物して回った。

八幡宮を巡り、段葛を通って鳥居を抜け、由比の浜まで出る。涼しい海風が心地良い。

「比企は海が遠いからね。海なんて見るのは、佐殿が伊豆に流罪にされたと聞いて、京から後を追いかけた時に東海道を旅した時以来かも知れないねぇ。若い頃、熱田に居た時は海が近かったから懐かしいよ。その後は京に居たけれど、京の都は暑いわ寒いわ、じめっぽいわ、よくもまぁこんな所に天子さまがいらっしゃるもんだと思ったけれど、離れたら離れたで寂しく思うのは何でだろうね」

「どこであっても、住めば都ということでしょうかな」

頼朝と祖母の会話を聞きながら歩く。輿が止まった。右手に、海中から迫り出した小山のような島が見えて来る。

「江島の弁財天です」

「ああ、あれが江島かい。ありゃあ立派な龍神さまがついてらっしゃる。よくよく大切にしてるようだね。感心感心」

「船で御渡りになられませんか?」

 頼朝の申し出に、だが祖母は首を横に振った。

「いや、いいよ。こうして拝めるだけで、この婆には過分なことさ。鎌倉はいい土地だね。よく護られてるよ。永くあんたらの子孫を護ってくれるだろうさ」

祖母の言葉に頼朝は嬉しそうに頷く。

「だが、完壁を目指すんじゃないよ。多少、身体の中や衣の中に虫を棲まわせておくくらいの方が却って身を健康に保てるからね。垢を全て落としたら誰も肌を守っちゃくれない。清め過ぎは却って病の元さ。程々にやりな」

頼朝は苦笑した。

「尼君のお言葉はいつも耳に痛い」

「あんたが痛がってるのは耳じゃなくて歯だろ?昔から奥歯をギリギリ噛みしめる癖があったからね。夜の歯ぎしりも酷かったし。急いで飯をかき込むのが悪いのさ。一口に百回噛んでから飲みこむようにしないと早死にするよ」

「そう仰られましても」

「よく噛まないと顎が貧弱になって咽がやられるんだよ。あんたは昔から忙しいを言い訳に食べ物を丸呑みしてた。だが折角将軍になったんだ。雑務は文官らに任せて、長生きするのが次のあんたの役目だよ。この鎌倉を京の都に負けない都に仕立てるにはまだまだ時が必要だからね」

「長生きですか」

「当たり前じゃないか。どうして平家は滅びた?相国殿がもっと長生きしてたらあんたの出番はなかったかも知れないよ。一人の力で出来ることなんざ知れてるんだ。自分の死んだ後まで考えて動きな」

「死んだ後まで、ねぇ」

頼朝が後ろを振り返った。

「小四郎。もし今私が死ねばどうなると思う?」

「将軍様!」

ヒメコは思わず声を上げた。祖母のせいとは言え、悪い言葉は口にしないがいい。ヒメコは祖母を睨みつける。

素知らぬ顔をした祖母の後ろからコシロ兄が答える。

「万寿の君が元服して将軍家を引き継がれましょう。政自体は、中原殿など文官の方々がいらっしゃるので、すぐには大きな混乱はないかと思いますが」

「万寿の後見は?」

「御台さまと乳母夫の比企能員殿でしょう」

「上手くいくと思うか?」

コシロ兄は暫し黙ってから答えた。

「御台さま次第かと」

頼朝は、フンと鼻で返事をして、それから輿の脇の小童に何かを伝えた。

 輿は大路を曲がり、江間の屋敷前で止まる。

「尼君、こちらが江間義時の屋敷です」

 コシロ兄が輿に寄って祖母が輿から降りるのを助ける。ヒメコも駆け寄って手伝った。

「では、小四郎にヒメコ。尼君を宜しく頼んだぞ。また使いを寄越す」

 言って、頼朝は輿に乗ったまま御所へと戻って行った。

「やれやれ。座りっぱなしは身体に毒だね。あー、くたびれた」

そう言って足の屈伸を始める祖母。ヒメコは笑いを堪えながら祖母の手を引いた。

「さ、中へどうぞ。トモが待ってますわ」

皆が屋敷入った途端、眠っていたらしいトモが目覚めて大声で泣き始めた。フジが慌てて抱き上げて連れてくる。

「おやおや、その子があんたらの子かい。まぁ、随分と気の強そうな子だね。えーと、トモと言ったかい?それは幼名かね」

「元服したら朝時と名乗るよう将軍様が仰って下さったので、朝と書いて、トモと読んでおります」

コシロ兄が答えてくれる。

「そうかい、朝宗の孫でもあるしね。そりゃ、将来が楽しみだね。恐らく手のかかるやんちゃな子だろうが、なるたけ好きにさせてやりな。ある程度の怪我は沢山させておいた方がこの子の為にはなると思うよ」

ヒメコは頷いて心に刻みつけた。

「ところで金剛は?私はあの子に会うのも楽しみにして来たっていうのに居ないじゃないか。何処に行ってるんだい?」

「今、江間に狩に行っております。でもそろそろ帰る頃なので、お祖母様のお顔を見たらきっと喜びますわ」


 その夜は祖母を囲んで賑やかに過ごした。久しぶりに祖母と並んで神棚に向かい祝詞をあげながら、ヒメコは共に過ごせるこの時を感謝した。夜は並んで眠りにつく。ヒメコがまだ幼かった頃はいつも隣に祖母がいた。昔のように話しかける。

「ねぇ、お祖母様。お祖母様は京の生まれなのでしょう?京に帰りたくなったりはしないの?」

灯明の薄明かりの中問うたら、祖母は寝返りをうちながら答えた。

「そりゃ、帰りたいと思う時もたまさかにはあるよ。でも、故郷の光景はこの胸の中にすっかり入ってるからね。目を閉じればすぐに京に帰れるのさ。争乱や天災で荒れ果てる前の美しい雅な世界の中にね。お前もいつか分かるよ。だが、その時に思い出すのは何処だろうね。比企か鎌倉か、または全く別の場所か。いずれにせよ、人は草木とは違って足があるから何処へでも行ける。執着せずにその時々に居る場と空気を存分に味わって楽しく生きな。辛いことも悲しいことも楽しいことも、それぞれに意味があってお前を育ててくれるだろうさ。だから嫌な時、辛い時は自らの足を使ってその場から離れていいんだよ」

 ヒメコは首を傾げた。

「でも、お祖母様は以前に、女は痛みには耐えられるって言ってたのに、辛さから離れてしまっていいの?」


 でも帰ってきたのは軽い鼾だった。輿の上でたっぷり陽にあたってくたびれたのだろう。ヒメコはその安らかな寝息を聞きながら眠った。


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