六 水
「姫さま、ユキの所に参りましょう」
八幡姫に声をかける。八幡姫の頰がピクリと動いた。でも目はこちらにくれない。ヒメコは浅い皿に水を少量入れて八幡姫の口元に近付ける。だが姫はそれを払いのけた。予想通りだ。ヒメコは八幡姫の手首を掴むと引っ張りあげた。
「ユキの子が産まれる頃です。姫が行かなくて誰が行くのです。義高さまが嘆かれましょう。さあ」
無理矢理に外に引きずり出す。外は雨が降っていた。
丁度良い。ヒメコはそのまま裸足で厩へと向かう。口から摂らずとも肌から呼気から水気は身体の中に多少入る筈。
「姫御前、一体何を!」
御所や小御所の廊から侍女達が騒ぐのが聞こえたがヒメコは無視して厩へと向かった。
厩では大きなお腹のユキが暴れていた。
「ユキ!どうしたの?しっかりして!」
八幡姫が叫ぶ。
茶鷲も大きく鋭くいなないた。ヒメコは慌てた。八幡姫を連れて来るのではなかった。とにかくユキを落ち着かせなくては。
ユキに向かって伸ばした腕が掴まれる。
「お産が始まるんだ。お前たちは外に出ていろ!」
コシロ兄が何人かの男と共に厩に入って来ていた。
ヒメコは慌てて八幡姫の手を引いて外へと出る。
「お産?仔馬が産まれるの?」
ずぶ濡れになりながら八幡姫がヒメコに尋ねる。
「そのようです。私たちは邪魔になりますから下がりましょう」
言って、ヒメコはチラとユキを見た。大きく大きく膨れた腹。先の嫌な予感が当たらないように願うばかり。
どうか。
どうか母子とも無事で。
部屋に戻ってずぶ濡れになった八幡姫を着替えさせ、自らも着替える。
「白湯です。身体を温めて待ちましょう」
言って器を差し出したら、八幡姫は素直にそれを受け取って飲み干した。
それから二人並んでじっと待つ。ひととき、ふたとき。どのくらい待っただろうか。阿波局がやって来た。
「姫御前、コシロ兄が呼んでるわ」
八幡姫と二人、手を繋いで急いで向かう。コシロ兄は無表情だった。
「多胎だった。一頭は無事産まれたがもう一頭は死産だった。母馬は無事だ」
「たたいって何?」
姫の問いにコシロ兄が答えた。
二頭同時に身篭っていたということだ。馬では珍しい。一頭無事だっただけでも有難いことだ」
その言葉に八幡姫が噛み付いた。
「どこが有難いの?死んでしまったもう一頭が可哀想じゃない!」
「死んだもののことを考えるより生き残ったもののことを考えろ。人も馬もだ」
「え?」
八幡姫が顔を上げる。
「義高殿の従者だった海野幸氏と望月重隆らは拘束を解かれ、一時的に江間で預かることになった。時が経てば会えよう。だが、今のその顔で彼らに会うつもりか?主である義高を守れず、またその妻も死んだとあってはその従者である彼らはどうなると思う?姫は義高殿の妻だろう?その従者を気遣えずして妻と言えるか?生き残ったものは生きている責任を果たすべきだ。私は彼らを死なせない。この鎌倉で生きられるように支える。姫はどうする?今のその様子で、彼らに、そして義高殿に顔向け出来るのか?」
強い語気に八幡姫がビクッと身を震わせる。
ヒメコは慌ててその間に入った。
「江間様、お待ちください。姫さまはまだ義高殿のことで苦しんでらっしゃるのです。どうかもう少しお待ちください」
コシロ兄は黙って去って行った。
「幸氏達は生き残るのね」
ポソリと八幡姫が呟いた。
「ええ。御台さまが義高殿とお約束をなさってました」
「母さまが?」
ヒメコは頷く。
「彼らは私が守る、とそう義高様にお約束なさってました」
「約束?その約束を、ヒメコあなたも聞いていたの?」
問われ、頷く。途端。八幡姫の口元が大きく歪んだ。
「皆、みんな知っていたのね。知らなかったのは私だけ」
「姫さま、それは」
「う、うぅ、うぅ、うぅぅ!」
ボロボロと零れ落ちる涙。
「あぁぁぁぁ!義高様!」
絶叫した直後、八幡姫はその場に崩れ落ちた。
「姫さま!」
抱え上げて急いで部屋に戻る。
だが、その日から八幡姫は高熱を出して伏したままになった。
「ヒミカ。そなたが姫を無理強いして雨に打たせたと聞いた。まことか?」
頼朝に呼び出され、ヒメコは頭を下げたまま答えた。
「はい。仰る通りです」
「お前は八幡の乳母であろう!何故そんな無茶をした!」
「申し訳ございません」
「申し訳ないで済むか!ただでさえ衰弱している所を!」
バサッ!
扇が飛んできてヒメコに当たった。
「暫く比企に戻っておれ!」
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