第3話 夜の邂逅

身長約150センチ。白を基調とした制服にチェック柄のスカートと黒タイツを身に纏った栗色髪の女の子が、控えめにぽつりと呟いた。


「おかえり。未愛」


 俺は間髪入れずに柔らかな声音をもってそう応じると、目尻に深い皺を刻むほどにぎゅっと目を細めた。

 SNS時代全盛の昨今。綺麗な手書きの文字と色鮮やかなレターセットを用いて告白してくれるような、顔もスタイルも良い年下の女子高生からの告白を断った本当の理由――。


 それがまさに、この未愛の存在だった。

 探しても取り柄のひとつ見つからない俺なんかとは違う。

 頭が良くて頑張り屋で、一本の真っ直ぐ通った芯を持っている。

 自慢の妹だ。


 たとえ、これからの俺の人生が病院食並みに薄い味付けで惨めなものになったとしても、未愛の人生さえ彩り豊かなものになり得るのならば、俺は喜んで己の存在意義を受け入れる。

 だから俺は、彼女を作って呑気にデートなんぞする暇があるのならその分未愛のためだけに時間を費やしたいと。

 本気でそう願っている。


「……ねぇ、お兄ちゃん? 前から聞こうと思ってたことがあるんだけど」


 俺が改めて己の不動の信条を噛みしめながら目を瞑っていると、そんな天使の声が届いて我に返った。


「ん、どうした? 何でも遠慮せずに聞いていいんだぞ」

「それじゃあ聞くけど、どうしていつも学校が終わった後は決まってコレをするのかな? 私はすぐに宿題とかご飯作ったりとかしなくちゃいけなくて、そんなに暇というわけじゃないんだけど」


 ……コレ?


 数秒心当たりを推し量ってみたがまるで検討がつかず、俺は迷子で泣きじゃくる子供でも相手にしているかのような声音をもって、至極真剣に問いかけた。


「……すまない、未愛。お兄ちゃんは出来る限り未愛が快適に生活を送れるように普段から未愛のことを考え、常に気を配っているつもりなんだが。如何せん、未愛の言うコレについて思い当たるものがない。だから、もう少し具体的に教えてもらってもいいかな?」


 言いながらも、依然未愛の疑問に対して頭を巡らせてみたがやっぱり分からず、俺は神妙な面持ちで未愛の返答を待った。

 すると、なぜか口から深い息を漏らした未愛は白刃の如き鋭い半目をこちらへ向けてこう言った。


「……ふぅん。あぁ、そうなんだ。お兄ちゃんは、毎日毎日私がお家に帰って来るやドリルみたいな回転力で頭を撫でまわしてくるこの振る舞いに、まったく心当たりがないと……。そう言うんだね?」

「えっ!」


 俺はパッと強張っていた顔をほぐして己の右手の先に目を向けてみると、そこには未愛の指摘通り、それはもう見事なまでに洗練された動きをもって頭部を撫でまくる五指があった。


「あ、あぁなんだ! 未愛が言っていたのは頭なでなでの儀式のことだったのかぁ。お兄ちゃん、あまりにも無意識に毎日撫でてたもんだから本気で分からなかったよ! はっはっはっ!」

「あぁ、そう。これってお兄ちゃんにとっては儀式だったんだね。どうりで人間離れした手つきだと思った」

「あぁ、それで……どうして俺がいつも未愛の頭を撫でるのかを聞きたいんだったよな。それは、話せば長くなるんだが、そうだな……一言でまとめると」

「……」

「未愛が可愛いからだ!」

「……」

「間違えた。未愛が極めてとても物凄く煌びやかに可愛いからだ!」

「……」

「ほら、道を歩いていて可愛い猫が目の前に現れたら頭を撫でたくなってしまうだろ? あれと同じ現象なんだよ」

「つまり、私は猫なの?」

「いや、強いて言えば天使だな!」

「……お兄ちゃん」

「時々、未愛を見ていると背に薄っすらと真っ白な翼が生えている錯覚を見ることがあるんだよなぁ。それで、そのうち錯覚じゃなくなる日もくるんじゃないかって本気で思ったりもしててなぁ……」

「うん、もういいよお兄ちゃん。とりあえずお兄ちゃんは近々病院を受診した方がいいと思う」

「俺にとって未愛は、この世で一番大事な存在なんだ。だから、その最愛の妹とスキンシップをとるのは兄として当然のことなんだよ。いや、本当に……ちょっと前まであんなに小さかった未愛も、もう中学生なんだもんなぁ。お兄ちゃん、感慨深くて泣いちゃいそう」


俺は幼かった頃の未愛の姿を回顧しながら、フィナーレと言わんばかりに未愛の頭に乗せた手を上下左右に高速移動させて感動を表現した。


「うん。ありがとう。その気持ちは毎日十分すぎるくらい伝わってきていることは私が保証してあげるから、とにかくもう少し離れてもらえるかな。というか、本当に髪が乱れる」

「何を言ってるんだ。中学生になったからって変な遠慮をする必要はない。いくらでも俺の胸の中で甘えていいんだぞ? ほら、この前だって俺を抱きしめたときの感触がはちみつ男爵に似てるって言ってはしゃいでたじゃないか」

「うん。その名前のぬいぐるみを持っていたのは私が5歳くらいの時の話だよね。完全に時系列が迷子になっちゃってるよ」

「いや、でも……」

「お兄ちゃん。いい加減にしないと、冷蔵庫にある賞味期限ギリギリの食材全部今夜食べてもらうよ?」

「っ、それだけはご勘弁を」

「まぁ、食べ物を粗末にするなんてもってのほかだからね。どのみち何日かに分けて二人で食べることにはなるんだけど」


 言いながらぽんぽんっと手で髪を元の状態に戻すと、未愛はやれやれという表情でリビングへと消えていった。


 俺は音のしない息をそっとこぼすと、未愛のスクール鞄の中から覗く数種類の薬をじっと見下ろした。

 俺が普段から未愛と過度なスキンシップを試みているのは、半分が純粋に兄妹の絆を深めるためだが、もう半分は別にある。

 未愛は、生まれつき体が弱かった。全力疾走はもちろん、長い距離を歩くだけでも人の倍は体力を消耗して息切れが止まらなくなってしまう。俺は、そんな未愛の体調が崩れた時を見逃すことのないよう普段から気を張っている。

 つまり、断じて俺がシスコンだからベタベタしているわけではないのだ。断じて。


 とはいえ、未愛の体を心配する余り最近ではすっかり塩対応。まぁ、これも未愛が大人に成長してきたってことだから喜ぶべきことなんだろうけど。やっぱりちょっと寂しい。

 俺は大人げなくもしゅんと丸くなりながら、家を出ようと靴を履き直す。時間も迫っていることだし、未愛とのスキンシップは仕事が終わるまで我慢するとしますか。名残惜しくも、俺が靴ベラを戻して立ち上がったそのとき。


「バイトいってらっしゃい。遅刻して他の人に迷惑かけないようにね」

「!?」


背後から、予期せぬ声が掛けられて勢いよく振り返ると、そこにはエプロン姿で控えめに手を振る未愛が立っていた。

俺はあっという間に曇り空が晴れたような顔に変わって扉を開けると、「行ってきます!」と言って手を振り返した。


確かに俺には、恋人もいなければ両親すらいない。傍から見れば薄幸で気の毒な奴だと思われるかもしれない。

だけど、未愛さえいれば……俺は胸を張って幸福と言える。どんなことでも頑張ろうと思えるんだ。


「ふぅっ……」

 仕事を終えて店を出ると、夜空は厚い雲にどんより覆われて蓋をされているみたいだった。

 薄暗い路を歩きながら、俺は蓄積した疲労を吐息に溶かす。

目線を落とすと、歪な形状をした二つのコンビニ袋が、俺の歩みに合わせてシャワシャワと音を発していた。それを見て、口角が微かに持ち上がる。

 品出し、レジ、たばこ販売、コーヒー提供、雑誌梱包、カウンター総菜調理、公共料金及びチケットの支払い。挙げれば尽きない数の仕事があるコンビニバイトを、俺が敢えてバイト先に選んでいるのには理由があった。


 それが、この袋の中に入っているたくさんの弁当や総菜。

 うちの店舗では、廃棄商品を出さないための取り組みとして、賞味期限が間近に迫ったものや売れ残った商品をスタッフが格安で購入することができるシステムを導入している。

 圧倒的貧乏学生である俺が、こうしてはち切れんばかりの品を携えることなど、この機会を置いて他にない。

お腹いっぱいご飯を食べられること。正直、これ以上のありがたい恩恵はなかった。

 そんな影の報酬に対して俺がビニール袋の中を覗き込んではにやついていると、


「ん?」


ゴソッ、と物音にしては深い質の響きが大通りの脇にある隘路から聞こえた。

(そういえばこの道ってうちのアパートまでの近道だったっけ)

 以前時間に余裕がなかったときに一度だけ通ったことがあったのを思い出して、俺は何の気なしにその進路へ転換した。


 街灯は届かず、きちんと整備がされていない細道に足を取られそうになりながら慎重に歩みを進める。

 小道に入る前の物音は、てっきり野良猫かカラスの類が発したものだと思っていたのだが、目を凝らして前方を見てみると、動物ではない何かのシルエットが目に映った。

 不思議だったのは、俺と同じように近道として利用しているのではなく、影の主はその場に立ち止まって何かをしていたこと。


――ゴクリ。


 俺は喉を鳴らし、できる限り足音を響かせないように忍び足でその影との距離を詰めていく。

 タイミングが良いのか悪いのか、俺が大きな影だと思っていたその正体を、人間二人の影だったのだと判別できるくらいには近寄ることができたとき、ずっと厚い雲に隠れていた月明りが細道に射した。

 瞬間。


「……」


俺の息が、数秒止まった。


二つあった人影のうち、一つは会社帰りのサラリーマンと思われる三十代前後の男性のものだった。

素人目にも容易に致死量を超えていると断言できる血液が水たまりみたいにドクドクと地面に広がっていた。


そしてもう一人は、その男性の死体を見下ろしたまま、刃渡り20センチはあろうナイフを手に持ち、涼しい顔で佇む少女だった――。




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