Ⅲ 意地と素直
◇
窓を開けると病院から煙が上がっているのが見えた。
遅れて『病院で爆発発生』と緊急放送が流れ始める。すみやかに避難するように……と続く放送を聞きながら白翔くんを見る。
彼は爆発音とともに目を覚ましてギャン泣きし始めた女の子に爽やかな笑顔を見せていた。
「大丈夫ですよ」
「怖い!」
「怖くないですよ。お父さんもすぐに帰ってきますよ」
「おとうさん……、おとうさんどこぉ!」
「ああ……余計なことを言ってしまいましたね……」
「やだあ! おかあさんやだぁ!」
「そうですね、お母さんは嫌ですね。……泣かないでくれますか?」
ギャン泣きしている子からは、後藤さんのDV被害を裏付けるような不安定さを感じた。そんな子どもを抱きしめて「大丈夫ですよ、怖くありません」と白翔くんは何度も囁く。うんざりしているのは私から見れば明らかだが、その子から見たらわからないようだ。
穏やかに微笑んだ人に、低く落ち着いた声で「怖いことはありませんよ。ここに怖いことはありません」と何度も諭してもらえるのは、落ち着くだろう。少し羨ましい。
「……ほんとう? あきちゃん、大丈夫?」
「はい、あきちゃんがゆきちゃんを守ってあげますよ」
「怖くない?」
「はい、怖くないです」
緊急放送がぎゃあぎゃあと流れている中、彼女の耳にはその落ち着いた声の慰めだけが響く。やっぱり羨ましい。私も少しは不安なのだ。
五分ほどおだやかに話しかけられ続け、ようやく女の子が泣き止んだ。
「もう、……怖くない」
「そうですか、よかったです」
心温まる状況だ。しかし、……である。
「……白翔くん、さすがに避難した方がいいんじゃない?」
「そうですね……、ですがそうすると、俺は明日提出のレポートを書き終わらない予感がしています」
「明日提出なの⁉」
「正確に言えば今日の二十四時までに教授に送らないとアウトです」
「アウトってどうなるの?」
「必修科目なので留年ですね」
「……留年って……」
「……さて、……どうしますかね……会社代表としては避けたいところですが……」
白翔くんは疲れているようだったので、私は彼の腕の中の子に「こんにちは」と声をかけた。
「だれ?」
「あきちゃんのともだち。まいっていうの」
「まいちゃん?」
「うん、まいちゃん。ゆきちゃん、まいちゃんともあそんでくれる?」
「いいよ?」
「よかったー、あのね、ゆきちゃん、ちょっとこっちきて?」
嫌がられていないのを確認しながらその子を抱き上げる。思っていたよりは重いけれど、やはり小さいし、細い。その背中を撫でたあと、その小さな耳に口を寄せる。
「まいちゃんね、あきちゃんにないしょのプレゼントあげたいの」
「ないしょの?」
「そう、ないしょの……いっしょにえらんでくれる?」
ゆきちゃんは『あきちゃん』を見て、それから私を見上げてにっこりと笑った。
「いいよ!」
「ありがとう」
その辺の雑貨屋を散歩して来よう、その間に白翔くんならレポートを片付けられるだろう。
ゆきちゃんを抱っこしたまま「あきちゃん、またね」と言うと、白翔くんはぽかんと口を開けて私を見上げていた。
「どうしたの?」
「いや……久留木さん、お子さん似合いますね……」
ピリリと【なにか】寒気が走った。
「……恐ろしいこと考えてない?」
「大したことは考えてませんよ。まあ、そういった手段も、というだけで……」
「どういった手段の話をしているかわからないけど、やめてね? 怒るよ?」
「ふふ」
「笑い事じゃないんだよな……」
寝不足の白翔くんは倫理観も死ぬようなので放っておこうと決めた。とっとといこうと思ったら、白翔くんが立ち上がり私の肩を掴む。
「どうしたの? ぐえっ」
彼はいきなり私の顎をつかんできた。
「なにっ⁉」
「これ、飲んでください」
「へ? うぐっ……」
なにかを口の中に入れられたと思ったら、すぐにコーヒーを注ぎ込まれた。冷えていたから火傷はなかったがいきなりの水責めに「うぇっ」とひどい声で呻いてしまった。
「飲んで」
「……ごほっ、うえ……」
鼻と口をふさがれては飲み下すしかなかった。
ごくん、と喉を異物が通り過ぎたのが分かったが今更吐きだせもしない。白翔くんは私が全てを飲み下したのを確認してから鼻と口を解放してくれた。
「……なにを、飲ませたの……?」
「ちょっとしたものです」
「なに、爆弾⁉」
「違いますよ。……でも、あまり遠くには行かないでくださいね」
「遠くに行くとどうなるの‼ なに⁉」
「あはは」
「笑い事じゃないんだけど!」
不意に襟を引っ張られた。
「けんかしてるの?」
ゆきちゃんが不安そうな顔で私を見ていた。なので笑顔で「違うよー、仲良しだよー」と笑った。『あきちゃん』も便乗するように笑顔で「早く帰ってきてくださいね、寂しいので」と笑いやがった。
私は喉の奥になにかがあることに恐怖を覚えつつ、緊急放送の流れる研究所を後にした。
◇
「ゆきちゃんはあきちゃん好き?」
「好き! かっこいい!」
「そうだよねえ、かっこいいよねえ」
「似てるから!」
「うん?」
ゆきちゃんはにこにこと笑いながら、どこかのアイドルグループを口にした。そのボーカルに白翔くんは似ているらしい。残念ながら私はその中の誰がボーカルなのかわからないので「そうだよねえ」と言うしかなかった。
「まいちゃん。あきちゃんって足はやいかな?」
「ん? なんで?」
「足はやいとモテるから……」
「そう……幼稚園ってそういう感じだったか……」
「ひーくんもモテるの!」
「ひーくん? だれ?」
「チューリップ組! ゆきちゃんといっしょ!」
「足はやいの?」
「はやいーでもいやなやつなの!」
ひそひそとゆきちゃんが教えてくれたことによると、チューリップ組(年長組)のひーくんはカッコよくて足が速いからモテるのだけど、ゆきちゃんの物を持っていったり「おかあさんいない子」と言っていじめたりするらしい。それはいやなやつだなと思ったけれど、私が同意を示す前に「でもかっこいいの、仲良くなれたらいいのにな」とゆきちゃんが言った。
「ゆきちゃんはみんなと仲良くしたいの!」
「ゆきちゃんはお父さんに似て、将来苦労しそうだな……」
誰とでも仲良くしたいと思うのは美徳だが、男女間の場合は必ずしもそれが幸と出るとは限らない。現実は漫画ではないのだ。しかしそんなこと大人が幼稚園児に言うべきではないだろう。
「ゆきちゃんはひーくんとあきちゃんならどっちが好き?」
「付き合うならひーくん。結婚するならあきちゃん」
「……結婚があきちゃんで大丈夫?」
「あきちゃんお金持ちだもん!」
「それは大事な観点ね……」
そんな話をしながら駒場の近くにある雑貨屋に入る。そこでゆきちゃんが「歩く!」と言うので抱っこを止めて手をつなぐことにした。子どもの手は湿っていた。
「まいちゃんはあきちゃんになにをあげたらいいかなあ」
「なんでないしょのプレゼントしたいの?」
「なんでって……」
ゆきちゃんを連れ出すための口実に過ぎなかった。けど冷静に、これまでの白翔くんとのことを思い出すと(家まで送ってくれたり、デートを提案してくれたり、そもそも彼氏だった)私は彼にもう少し感謝を示しておくべきだろう。
「日頃の感謝かなあ……」
「まいちゃんはあきちゃんと付き合っているの?」
「……付き合ってたらどう?」
「お似合い!」
「あ、そう?」
子どもの頃は年の近い男女が一緒にいたら、みんな付き合っていると思っていた。多分、ゆきちゃんから見たら私たちはそうなのだろう。
と分かるのに、お似合い、と言われて、悪くないと思う自分が少し恥ずかしかった。相手から好意を示されてまんまと好きになるなんて、……実にちょろい……。
ため息をつく。
「ねえ、ゆきちゃん、あきちゃんってどんな人だと思う?」
「あきちゃんは『すっごい頭がいい人』で、それから『すっごくきびしい人』で、だからおとうさんはあきちゃんとお仕事できて『すっごくうれしい』って言ってたよ!」
「……そっか。それならよかったね」
白翔くんはちゃんとあの強盗のおじさんを雇ってくれているようだ。
『弁護士』と『会計士』というダブルライセンス持ちでありながらそれを全く活かせていなかった後藤さんが、白翔くんの下で最大限活かされているなら、それはきっといいことだろう。
ゆきちゃんが笑う。
「だからゆきちゃんとあきちゃんが結婚したらおとうさんよろこぶよね?」
「あきちゃんはゆきちゃんよりも十五歳ぐらい年上だから……」
「だめ?」
「だめとは言わないけど……ゆきちゃんが好きだと思う人と結婚したらおとうさんは嬉しいんじゃないかな」
「まいちゃんはあきちゃんが好きなの?」
少し考える。それは難しい質問だった。
「好きってどういう感情なのかな……」
「喜んでほしいって思うことだよ!」
「……喜んでほしい?」
「そう! だからプレゼントあげたいって思うんでしょ? だから、好きなんだよ!」
「ああ、……そっか、じゃあ好きなのかな……」
少し恥ずかしくなった。
「まいちゃんはあきちゃんラブなのね」
「……そうかもね」
ゆきちゃんはくすくす笑った。
『あきちゃん』へのプレゼントとして、ゆきちゃんが選んでくれたB5サイズのノートを買った。黒地の革表紙に方眼紙のノートだ。
ブランドも値段も書いていないシンプルなデザインで、たしかに白翔くんに似合いのノートだと思った。
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