Ⅵ 彼の経歴



 食堂を抜けて大学の正門まで出てきたところで松下くんは「せっかくの機会ですから他の講義も受けて行ってほしいんですが……」と困ったように、申し訳なさそうに言った。

 でも彼がくれたのは夢の時間は、私には充分すぎるほどだった。


「ありがとう、松下くん。大学通いたいと思ってたときもあったから、……本当に楽しかった」

「……家まで送ってもいいですか?」

「いやいや、いいよ。私も他に寄りたいところがあるし」

「でも、女性一人は危ないですから」

「そんな顔をしても駄目です。きみにそんな義務ないもの。私はまだあなたの彼女ではないんでしょう?」


 松下くんは「ちえっ」とわざとらしく言ってから、くしゃりと笑った。


「日曜はデートしてくれますか?」

「……うん、それは約束だからね」

「楽しみにしています。本当に楽しみにしています」

「二度も言わないで」

「大事なことなので何度も言います」


 松下くんはくすくすと笑った。

 彼は私の手を離し「俺のこと知りたくなったら、調べてくれたらすぐに分かりますよ」と囁いた。


「……性格悪い。なんでそういうことわざわざ言うの?」

「あなたに調べてほしいからに決まっているでしょう? そうでもしなきゃ、あなてはエゴサーチなんてしないでしょうからね」


 日曜に迎えに行きます、と彼は笑った。そんな彼に手を振って、私は大学を後にした。




 ――株式会社バスタルド新薬開発成功を発表。


 三年前の読者数一位の新聞に、大衆に向けて分かりやすく噛み砕かれた新薬の記事が載ってた。それでも薬品の構造は難解だ。だからか全体を流し読むと、噛み砕かれ過ぎて書き手の『感情』が出た文章になっている。つまらない記者が書いた記事なのだろう。


――痛みや苦しみのない人生は喜びもないものではないか?


 痛みによって体を動かすことができなくなった人に向けてつくられたその新薬は、脳に意図的にイレギュラーを発生させる。そして、患者に『強制的』に健康的な生活をさせる。

 この薬を接種した場合、脳は痛みや苦しみを感じる機能を一時的に弱め、代わりに必要な栄養素、必要な運動、必要な睡眠を体に強く求めるように変化する。その変化は個人の意思が反映されないほどの『強制力』を持つ。

 要するに患者は必要以上の痛みから解放されるのだ。


――天才、『松下 白翔』


 最後まで皮肉じみた書き口の記事だった。

 十九歳の青年の愛想笑いが新聞の一面を飾っている。大の大人が彼を囲んで皮肉をぶつける、醜い記事だ。

 今から三年前のこのニュースに、私は少しも興味がなかった。だから聞いたこともなかった。


「……本当にすごい人なんだなあ、松下くん」


 公園のベンチで、似たような記事を流し読む。しかしどれも専門家の記事ではないため、薬の詳細は分からない。松下くんの論文も出てきたけれど、これはこれで難解すぎて読むのには時間がかかりそうだ。


「……鬱や不眠症にも効果的と考えている……って、結局どんな薬なのよ、これ……」


『でも俺にとっては命の恩人なので』


 今、私が分かっていることは彼の薬のおかげで救われている人がいることだけだ。

 山のような批判があるとしても、人間一人救われているなら、その方が重要ではないだろうか。痛みに苦しむ人生から明日を望める人生になるなら、……仮になにか失っていたとしてもよほどましではないか。


 ――もし、たった一晩、思い切り眠れるのなら……。


 頭を振って思考を切り上げる。

 これ以上考えても、私にこの薬のことは分からないだろう。それに、今知りたいのはそれではない。


「……やっぱ、問題はここよね……」


 その偽物のファンサイトを開く。

 会員も募集しているが年会費があるわけではない。サイトが更新されると会員に通知が来るようにはなっているらしい。会員登録はメールアドレスのみでできるようだ。大元のデザインはブログサイトだろう。つまり、記事のバックアップを取っておけばすぐに複製ができる。消されても何度でも作り直せるのはそれが要因だろう。

 会員になればこのサイトの記事を更新、編集ができるようだった。誰でもこのサイトに松下くんの情報を登録できる、ウィキペディアと一緒だ。更新時間と更新者は登録されてはいるが、そこから個人を特定しようと思ったら警察の手を借りないと無理だろうし、警察にIP開示を要求するには時間も手間もお金もかかる。ここに記事をあげている全員を調べるとなると、かなり手間だ。

 それこそが犯人の狙いだろう。

 つまり、……複数アカウントを駆使することでIP開示要求をさせにくくしているのだ。

 しかしなによりも問題なのは、このサイトの更新頻度は今日だけで三十件も越えていることだ。さっきの食堂での写真ももう上がっている。つまり大学内にもこのサイトの会員がいるということだ。

 だから『私は』……急いで松下君の家に行って確認しないといけないことがある。

 そして私は『身の潔白』をどうにか証明しないといけない。

 私は適当なメールアドレスを作りファンサイトに登録をし『松下白翔に彼女ができた!』という記事と自分の写真をアップロードした。

 久留木舞と名前まで出してしまえば、私の生い立ちから現在の対局成績まですぐに調べがつくはずだ。そしたら、……私に接触しようとする人間――つまりこのサイトの閲覧者であり、恐らくこのサイトの運営をするまで松下くんにのめり込んでいる『ストーカー』が絶対に現れる。それをおさえれば、私が『ストーカー』でない証明になる……。


「……ちょっと、きみ」


 しかし一週間前の強盗事件の後、こんなストーカー問題にかかわっていたと思えないぐらい松下くんは普通だった。もしかしてあの強盗もこのストーカーも松下くんの計算の内なのだろうか。

 ……分からない。

 でも、なんであれ、このサイトは犯罪だ。叩き潰してしかるべきだろう。松下くんになにかあってからでは遅いのだ。


「ねえ、きみ、ちょっといいかい?」

「……」

「きみ!」

「……え?」


 その『きみ』が自分とは思っていなかったが、「きみ!」と至近距離で呼ばれたとき、あ、私だったのかと分かった。

 顔を上げると、どこかで見た覚えがある、けれど誰かは思い出せない中年男性が目の前に立っていた。彼は私を睨んで、ふん、と鼻を鳴らした。

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