Ⅰ 二十九歳のぼやき
◇
ここひと月ほどうまく眠れていない。
夜働いているから夜に眠れないのは仕方ないとして、明け方になっても朝になっても昼になっても一向に眠気がこないのは困る。
対処として市販の睡眠導入剤を飲みスマホの電源を切り部屋のカーテンを替えてみたが、それでも全く眠くならない。ここまでくるともう諦めるかという気持ちになり、今日は日付も越えているというのに食パンを作り始めてしまった。
『そんな風に』私の人生は成り行きだ。
特別それを選んだわけではなく楽な方を選んでいたらここに辿り着いていた。いつかは本気出すと思うことさえないまま、この調子で死んでいくのだろう。
『やりたくないことはしない。できないこともしない。極力頑張らない。』
それが私の個性なのだ。
だから眠れないならパンを作る。それだけのこと。
練ったパン生地を型に詰め、オーブンで二次発酵をさせる。
「食パンくん、どうやって食べようかな……明日のお昼にピザトーストかな……ピザって難しいんだよ……ひとりで食べてたら引かれるし、配達の兄ちゃんの愛想のなさにも心折れる……自分で作った方が傷つかなくて済むんだ……こんなこと話していると食パンくんの胎教に悪いよね? ごめんね? おやすみね?」
語りかけつつ『この子は二十分後には二倍の大きさになるのね』などとパン生地に母性を抱き始めているあたり、いよいよ行きつくところまで行きついた二十九歳だ。
そんな悲しい現実を紛らわすためにテレビをつける(対面式キッチンの良いところは顔が見えることではなく、料理をしながらテレビを見られることだと思う。一人暮らしのひがみではない、決して)と、ひと昔前に流行った恋愛ドラマが再放送していた。
観ていないドラマだったがお転婆なヒロインとクールなヒーローという分かりやすい設定だったため、話にはついていけそうだ。テレビの中ではイケメンと美女が水際ではしゃいでいる(今日は海水浴の回らしい)。
こちらは深夜、真冬の寒さ。
「……寝たい」
今の私に必要なのはイケメンによる顎クイではなく睡眠であることは間違いない。胸をキュンとさせる暇があったらシンと静かに眠りたい。海水浴というよりは森林浴の方がいい。ハンモックで昼寝がしたい。
リンとオーブンが鳴った。
なにひとつ思考が進まないまま、時間だけが過ぎてしまっていた。
「ああ……、だるい」
二倍の大きさになったパン生地を取り出してオーブンを二百度に予約をした。
テレビ画面の中ではイケメンが格好いいことを言っているが脳髄までその意味が届いてこない。目を開いていることもだるくなり、壁にもたれて目を閉じた。
『俺がお前を好きなことぐらい知っているだろ!』
なに言ってんだこのポンコツと思いながら目を開く。しかし私の予想に反して、画面の中のヒロインはちゃんと赤面していた。一方でオーブンに映る自分の顔はヒロインと同じ人類のものとは思えないほど乾ききっている。
「……駄目だ!」
『とにかく』、このままでは駄目だとはっきり分かった。
「もう食べよう! 今食べよう! 今すぐにピザトースト食べよう!」
時間は夜中の三時を過ぎていたけれどそこについては考慮しないものとした。何故なら『このままでは駄目だから』だ。
「えーっと、ピザにするには……」
予熱の終わったオーブンに型を入れてから冷蔵庫の中身を確認するとケチャップもトマトもなかった。食品のストック棚を見てもケチャップの予備はなくトマト缶すらない。これは諦めろという天からの啓示だろうか……。
「……しかしもう口の中がトマト……」
焼きたてをそのまま食べることやフレンチトーストにすることも考えたが、もうピザ以外は受け付けない口になっていた。
ため息をついてからキッチンを抜け出す。
モコモコの室内ソックスをニーハイに履き替えロングコートを羽織る。胸まである髪をコートの外に出せばパジャマを着ていることはバレないだろう。
マスクをつけたところでタイミング悪く、リンという音がキッチンから聞こえた。
「今日はもう本当に駄目だな……」
キッチンに戻ると焼きたてのパンの匂いが満ちていた。
オーブンから取り出したパンを型から外すとそのままで十二分に美味しそうだった。これはこれでいいのではなかろうか……。
つけっぱなしのテレビの中では美男美女が向かい合う。夕日を見ながら『留学するって本当?』『ああ……向こうの大学で勉強したいんだ……』と語り合っている。
「……きみたち高校生なの?」
二十九歳、真冬の深夜にひとりでパンを焼いている私はテレビを消し、型を水洗いしてからトマト缶を買いにコンビニに向かった。
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