Ⅱ 事故と出会い



 深夜のコンビニエンスストアの前にはタクシーが止まっていた。

 運転席には帽子で顔を隠した運転手が眠っている。

 人生に余裕のある人は『こんな時間は働かずに家にいたらいい』と思うかもしれないが、需要があるからこういう可哀想な人が生まれるのだ。そんなタクシーを横目に『二十四時間営業』という可哀想のトップであるコンビニエンスストアに入った。

 店員は休憩室にいるのかレジは無人だった。

 ぐるりと中を見渡すと雑誌売り場にひとり男性がいるだけだった(大学生ぐらいだろうか)。

 私はカゴを持ちストック品売り場に向かう。……高校生の時に男子と海水浴なんて行ったことがない私にできることなんて本格的なピザトーストを作るぐらいなのでトマト缶を選び、乳製品売り場でゴーダチーズを選んだ(少し値は張った)。……そもそも海なんて小学生のときの遠泳以来行っていないことに気が付いた私はマッシュルームもカゴに入れる。どうせなら夜更かしを満喫しようと、さらに雑誌売り場まで足を進めた。


 ――『鋼の女王』久留木 舞 女流雀王死守!


 グラビア雑誌の隣に置かれた麻雀雑誌の表紙に愛想笑いを浮かべた自分が載っていた。グラビアと勘違いしてもらえるぐらい可愛い女流雀士になりたい人生だったと思いつつその雑誌から目を逸らす。

 先にいた男性の立ち読みしているものを覗くと、美味しそうなカレーの写真が見えた。とろとろのルウにごろごろと大きな具と食欲をそそる湯気……深夜に見るべきものではない。棚を見ればもっと女性が読むべき雑誌も並んでいる。

 だから私は『春服特集』に手を伸ばし……、しかし結局『カレー特集』を手に取った。


 ……どうやらカレーの激戦区は神保町らしい。グリーンカレーって作ったことないけれどなにが入っているのだろう。どうしよう、ピザトーストにするつもりだったけどカレートーストでもいいかもしれない……。


 ふ、――と、【なにか】に呼ばれたような気がして、目線を上げた。


 ガラスの向こうでタクシーの『空車』の赤い文字がやけに光って見える。運転手は相変わらず眠っていた。なんてことない光景なのに、何故か目を離せなかった。


「あ」


 ゾっと背骨に悪寒が走った。一瞬で全身にあった倦怠感が消え失せる。『ヤバい』。背中に氷を入れられたかのようなこの寒気。『ヤバい』。奥歯が抜けるようなこの悪寒。『ヤバい』。対面に座った親が役満に手をかけたときのようなこの『予感』。

 ――タクシーが動き出した。


「危ない!」


 咄嗟に隣に立っていた男性にタックルをかけると、背後で破壊音が鳴り響いた。

 飛び散るガラス、ふっとぶドア、空を飛ぶ商品棚。飲料品売り場のガラスケースに破壊されていくコンビニの風景が写る。自分の背後で行われているその地獄絵図はコマ送りだ。やけにゆっくり見え、しかし一瞬だった。


「……、な、なに……?」


 音が止んでから振り返ると、無人のレジにタクシーが突っ込んでいた。

 そのチカチカ光るハザードランプを見て、なにが起きたのか理解できた。


「ダイナミック入店じゃん……」


 口から場違いなネットスラングがこぼれてしまった。

 休憩室からとびだしてきた店員が「まじかよ!」と叫ぶ。『入店した』タクシーはダイナミックにコンビニの半分を破壊していた。しかしタクシーには大きな破損は見られない。バコン、と扉を開けて運転手は自分の足で下りてきた。ふらついてはいるが元気そうに見える。

 よかった、死人はいない……そう思ったときに――チッ、と真下から舌打ちが聞こえた。


「あっごめんね!」


 私は男性を押し倒した挙げ句、今までずっとそのおなかの上に乗ってしまっていた。


「重かったよね、本当にごめんなさい……」


 慌てて謝り、その顔に視線をうつした瞬間――『ヤバい』――タクシーが突っ込んできたときとは比べられないほど明確に『その予感』が、足元から、腹の奥をえぐって、脳髄に駆け上ってきた。


『闇だ』


 私を見上げるその瞳には光が全くない。まるで排水溝に集まった髪の毛を見るかのような目で、能面のように全く感情がない表情で私を見ていた。その目と目が合った瞬間、金縛りにあったかのように全身が凍る。


『ヤバい』


 その人の胸の上においた手の平は落ち着いた心音を聞いている。あと少しで死んでいたというのにその人の鼓動はどこまでも落ち着いていた。


『ヤバい』


 これは『殺意』だ。それも自室にもぐりこんできた羽虫に対して抱くような罪悪感を伴わない殺意。――邪魔だなあ――というそれだけの思いで、プチンと殺す。早く逃げないと『殺される』。

 なのに体がどうしても動かない。

 その人の腕が持ち上がるのを視界の端でとらえる。『ヤバい』。その手が私の命を刈り取ろうと――


「下りていただいてもよろしいでしょうか?」


 その手が軽く私の肩を叩いた途端、金縛りがとけた。


「……ごめんなさいっ!」


 慌てて下りると「いいえ」とその人は短く答えてすぐに立ち上がった。私は全身が震えているせいで立ち上がれない。背後で店員とタクシー運転手が話しているのは分かるけれど、それよりも自分の鼓動が煩くて内容が聞き取れなかった。

 ――逃げないと。

 頭の奥で急にそんな言葉が浮かんだ。そうだ。ここにいてはいけない。早く逃げないと――しかし、私の体がそれを実行する前に腕を掴み上げられた。


「ひっ」


 氷の瞳が私を見下ろしていた。


「立てないんですか?」


 うんざりしたようにその人が冷たく私を見下ろす。


「立てる……今、立つからっ……離して……」


 自分の声が惨めに震えていることにさらに恐怖が沸き立つ。まるで蛇に睨まれた蛙だ。ここにいたら『捕食』される。ここにいたら『死ぬ』。ただ見られているだけなのに恐怖が全身を襲う。

 掴まれている腕から鳥肌が立ち、全身が凍っていく。


「……大丈夫ですか?」

「大丈夫! 大丈夫だから……」


 なんとか「離して」ともう一度言うが、その人はむしろ強く私の腕を掴み直した。


「足、怪我していますよ」

「え……?」


 自分の右足を見るとニーハイが破れて血がにじんでいた。よく見れば足元に置いていたカゴもひっくり返っている。どうやら彼をタックルしたときに、私はトマト缶を足でつぶしたようだ。


「……いっ……いたい……」


 気が付いた途端にじわじわと痛み出す足をおさえると、手の平に血が付いた。


「ああ……痛そうですね」


 ふ、と頭上で息を吐くように悪魔が笑った。

 痛みに呻く私を見て満足そうに笑っている。寒い。怖い。どうしよう。どうしよう。どうしよう。死にたくない。殺されたくない。でも、どうしたら――


「運が悪かったですね」


 頭上から落ちてきた声はその人の声だ。


「怖かったでしょう?」


 なのにその声は労るような口調で、優しい。

 恐る恐る私の腕を掴んでいるその人を見上げると、『彼』は先ほどまでの無表情が嘘みたいに人当たりの良い笑顔を浮かべていた。


「もう大丈夫ですよ。本当に怖かったですね」


 その顔も声も普通だ。普通の人が、普通に私を見下ろしている。


「……あ、……うん、そうだね……怖かった……」


 なんとかそう答えると「そうでしょうね」と私に共感を示してから、彼は私の傍に膝をついた。彼の右手が私の右足の傷に触れる。痛みに私が顔を歪めると彼はすぐに手を離す。


「そんなに痛みますか?」

「うん……」

「失礼します」

「えっ」


 彼は当然のように私を姫抱きにしてしまった。そのモッズコートからクロエの香りがする。彼はジャリジャリとガラスを踏み潰しどこかへ歩いていく。


「ちょっと……っ」

「店の中は危ないので外に出ましょう」

「なんで抱っこするのっ⁉」

「あなたの靴じゃここを歩くのは危ないからです」

「なにそれ、きみは大丈夫なの⁉」

「俺はミリタリーブーツなんでこのぐらいなら問題ないです」

「なんでそんなの履いているのっ!」

「え? そうですね、……デザインが好みだからでしょうか?」


 ドアがなくなったコンビニの外に出ると冷たい冬の風が頬に当たる。私が身を震わせると「寒いですね」と彼は笑った。


「下ろしますよ」

「あ、うん……」


 彼は私をコンビニ脇に設置された喫煙所のベンチに下ろしてくれた。それから「少し待っていてください」と言って足早にコンビニに戻っていく。それを見送ってから、自分の体をぎゅうと抱きしめる。


「……なに、あの人……」


 額に手を当てると汗をかいていた。冬なのに前髪が額にはりつくほど汗をかいている。吐いた息が白く染まるのに、体の奥が燃えるように熱い。体を折り曲げて額を膝につける。自分の鼓動を聞きながら息を深く吸う。『怖かった』。――でも、なぜ、あんなに怖かったんだろう。


「大丈夫ですか?」


 戻ってきた彼が心配そうに声をかけてくれた。眉を下げて『心から』心配しているような顔をしている。さっきの彼に対する恐怖は私の勘違いだったのだろうか。……そうかもしれない。そうではないかもしれない。

 どちらにしろもう恐怖はなかった。ただ疲れていた。

 体を起こして「大丈夫」と答えると「無理しないでくださいね」と彼は優しい言葉をかけてくれた。


「足を見せてください」

「は?」

「大丈夫です。俺、応急処置得意なんで」

「え? ああ……いや、でも……」

「水かけますね。冷たいですよ」

「ひえっ……冷たい……」

「そんな顔で見ないでください。冷たいって言ったでしょう?」


 彼はミネラルウォーターで私の足を洗ってから、消毒液、ガーゼとテープを使って応急処置をしてくれた。


「これ、売り物?」

「そうですよ。コンビニにはなんでもありますからね」


 彼は財布を取り出し、私の膝の上に一枚の名刺と三枚の一万円札を置いてにこりと笑った。


「病院に行ったら連絡ください」

「連絡……?」

「お姉さん美人だから単なる下心です」

「は? いや、いらないよ、あ、ちょっと……」


 しかし私がそれを返す前に「じゃあ」と一言残して去っていった。その背中がすっかり見えなくなる頃に、ようやく赤いテールランプの光が見えた。


 ――このとき遠くから私を見ている男がいるなんて、私は勿論知らなかった。

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