飛べない鳥に明日はない

白宮安海

第1話

見上げた空は橙色に見えなかった。もうとっくに日が沈む頃だというのに。ならば何色だと聞かれれば言葉に詰まるのだが、一ヶ月前からそんな調子でそんな調子で真壁和彦の精神世界における色は失われていた。

いや、厳密に言えばその遥か昔からなのだが、真壁はそれでも必至に自分から色を付けようと努めていたと思う。一ヶ月前、会社から不要扱いを受ける前からも、とっくに妻から不要だと額に烙印を押されていた。もう何年もだ。

家に帰るのは億劫だった為、駅前の店がごちゃごちゃと交差している道を何も考えずに歩いた。今じゃここもどんどん開発されて戦争状態だ。えがおのある街づくり。そんな謳い文句が壁に貼り付けてある。他者の苦艱(くかん) には目もくれず笑顔を半ば強制的に共有しようとする

その屈折した綺麗さに寒気がする。押し付けるなよ……真壁は誰かの作った綺麗な言葉を無視して歩き続けた。どこかの方でクラクションが声を上げて、怒鳴り声が聞こえた。そうだもっとやれ。真壁は心の中で言った。コンクリートを死んだように歩く。

やがて地面に横たわっている一匹の鳩を見つけた。鳩の死骸は彫刻のように硬くなっていた。また誰かの声が聞こえた。甲高い声の女子高生は、気持ち悪っと悲鳴を上げていた。真壁はそっとその場を逃げた。だがあの鳥の姿はずっと頭に焼き付いて離れずにいた。


程なくして商店街の方まで歩いてきていた。平日なためか人も疎らで、時折学校帰りの学生の姿があった。

「お兄さんお兄さん」

一瞬、誰を呼んでいるのか分からなかった。

「お兄さん、そこのお兄さん」

距離の近い声に振り返ってようやく、自分の事なのだと気づいた。見知らぬ、笑顔の青年が両手に看板を持って、にこやかに立っている。その明るさが疎ましく思えて真壁は嫌そうな真顔を向けた。

「あの、今日ここで展覧会をやっているんですよ。よかったら見ていきませんか?」

両手の下のパネルに目を落とす。〜飛べない鳥に、明日はない〜そんなタイトルが浮んでいる背景には、青と白が絶妙なコントラストの、鬱蒼とした空と、その空を悠々と飛んでいる鳥のシルエットの写真だ。真顔はさっき見た、鳩の死骸を思い出していた。これも何かの偶然なのか、と苦笑を浮かべる。

青年の明るさは受け付けられなかったが、その混じりけのない瞳と気遣いは嫌いじゃなかった。今の真壁にとっては、少しの優しさでも胸に染みてしまう。

「無料なのか?」

「はい、もちろんです!」

「このタイトルにはどんな意味が込められてるんだ?」

意外な質問だったようで、青年は少し返事に間を置いた。

「写真を見ていただければその意味が分かると思います」

青年はそれだけ言った。上手い言い回しだなと真壁は思った。それにこの写真を見て久々に色を感じられた。それも繊細に。

小さくて狭い屋内へと招かれた。両方の壁に、シンプルな額縁で縁取られた写真達が一定間隔に並べられていた。それらは殆どが様々な鳥や雲の風景であったが、中には死んだ鳥の写真も貼り付けられていた。こうして見ると、同じ風景であっても実にいろいろな顔があった事に気付かされる。そしてそれらは、静かに、ほとんど息をせずに今も刻々と生き続けている。まるで自分自身のようだった。

そんな中、一枚だけ異様な写真が目に入ってきた。そこは夕刻空に染まった草むらで、しゃぼん玉を吹かしている女性。風に甘栗色の髪が舞って、白いワンピースの裾が羽のように泳いでいて。少し日に焼けたその顔は笑っているでもなく悲しんでいるでもなく、ただひたすらに無に等しい。それなのにひどく悠然として凛としていて、自由を感じさせられる。


「この写真の女性は誰なんだ?」

静かに佇んでいたスタッフが近寄って来て、言った。

「この子は、モデル事務所に所属していた僕の知人で。でも最近辞めたみたいなんですけど。鳥みたいでしょう」

真壁はしばらく目が離せず、その女性に精神を奪われていた。

「名前はなんて?」

「名前は、羽鳥白(はとりしろ)。本当、鳥みたいな名前ですよね」

「羽鳥白……」

「そうだ、良かったらこれ」

と、スタッフはカウンターの方へ一度行ってからまた戻ってきて、一枚のポストカードを手渡した。今し方見ていた写真のものだった。

「きっとあの子も喜ぶと思いますから」


街を歩きながら、羽鳥白の事を考えた。空想の中で彼女は鳥のように舞っていた。ささいな思いつきで電器屋へ寄った。店内を進んで真っ先に目に入ったカメラを一つ購入した。それは安いデジタルカメラだったが、購入した後で真壁は久しぶりに堂々と生きを吸えた心地がした。生きる目的が出来たのだ。いつか羽鳥白をこのカメラで収めてみたい。明日の為に今日を切り取る。

真壁は空へ向けてシャッターを押した。画面の中に、すっかり日が暮れた紺空が映っている。それを見て満足げに笑みを溢した。


いつもよりも軽い足取りで家へ帰り着いた。とは言え、慣れ親しんだマンションの外観は途端に荒んで見え、真壁の精神と気力を奪った。

「ただいま」

部屋の中は真っ暗で、リビングに歩いていくとテーブルの上のぼやけた光に、妻加代子の疲れきった顔がぼんやりと浮んでいた。

「何、あんた。どの面下げて帰ってきたのよ」

加代子はしゃがれた声で言いながら、睨みつけた。

「ご飯勝手に食べてよね。私はあんたの家政婦じゃないんだから」

そう言うと細い腰を持ち上げ、襖で仕切られた寝室へと向かった。その背中に声をかける。

「あ、今日さ。これ買ってきたんだよ。カメラ。これでどこか出かけて写真でも撮りに行かないか?」

淀んだ瞳が、買ったばかりのカメラへ角度を変えた。

「そんな下らないものより、何でもいいから早く仕事を見つけなさいよ」

そう言って、ぴしゃりと寝室の襖を閉めた。


掃除が行き届かずに不要な物ばかりが乱雑に散らばった部屋の中、存在を消すように呼吸をした。あいつも昔は可愛かったのに、すっかり変わっちまった。いや、向こうからしてみればお互い様って事だろう。

食欲が沸かず、何も食べる気はしない。それよりも真壁は早く羽鳥白の世界に一人で浸りたかった。自室に閉じこもって貰ったポストカードの中を真剣に眺めた。それから、パソコンと向き合うと羽鳥白について調べた。


情報量は少なかったが、羽鳥白という名のFacebookのページを見つけ、それをクリックした。すると、彼女の写真がいくつかあった。どの写真も彼女は笑っていない。しかし無表情だとは感じなかった。真壁は彼女から、溢れんばかりに感情を感じ取れた。

一つページを戻り、検索バーの空白に「笑えない 障害」と打ち込む。すると今度は堰き止められなかった洪水のように情報が並び出た。


メビウス症候群。その単語が気になりクリックする。メビウス症候群……生まれつき顔の筋肉が麻痺をし、瞬きはおろか笑顔などの表情が動かしにくくなる。現在原因は不明。


彼女が笑っているように見えた理由が分かった。真壁はパソコンを閉じて、もう一度羽鳥白の写真を眺めた。よくよく見てみると、彼女の瞳はどこか遠くを見つめている。それは明日を見ているようだった。真壁はそう感じた。


翌日の昼、写真を撮るために土手の近くの河原へ向かった。よく晴れた白い光が眩しく肌を焼いた。レンズを通して見てみると、実に様々な風景と息吹に気付かされる。今まで知らなかった世界を覗いているようで夢中になった。グラウンドの野球少年が履いているズボンは泥だらけだし、河原の近くにはザリガニがいるし、砂利道には名の知れぬ小さな花が咲いていて、誰かに踏まれて茎の折れた花もあった。そのどれもが目新しく、普通に過ごしていれば気づかないものばかりだ。美しさは形を変えても確かに存在し、皆今を必死に生きている。心に棲みついていた孤独がどんどん癒やされていく思いがした。

土手の砂利を、一匹の白い鳥が歩いていた。何の鳥だか知らなかったが、真壁は妙にその鳥に心惹かれた。近づいてみても、白い鳥は飛ぶこともせずにじっと立ち止まっている。その姿は、彼女にそっくりだった。思わずレンズを向けると、驚く出来事が起こった。なんと羽鳥白がそこに立っていたのだ。はっとしてカメラを外してみると、そこには白い鳥しかいない。しかしレンズを向けると確かに羽鳥白が立っている。これはどういう事だ?俺は幻覚でも見てるのか。レンズの中の彼女はあの写真と同じく笑顔はなかったが、それでも堂々とこちらを見つめ返している。それはまるで、自由の証明のようだった。


何度も何度もシャッターを押す。彼女を捉える。彼女はスカートを翻し、どこかへ去っていく。

「待って!」

追いかけようと手を伸ばした時には、目の前に姿はなくなっていた。あの白い鳥も。

残された写真を確認してみると、その中にはやはり羽鳥白が映っている。

急いであの展覧会へと足を運んだ。例のスタッフは、また来ると思ってなかったのかびっくりした目を向けていたが、すぐに馴染みのある笑顔を浮かべて、昨日ぶりですね。と愛想よく挨拶をした。そんな事より、と真壁はカメラを取り出した。

「あ、カメラ買われたんですね。良い写真撮れました?」

温度差のある気の抜けた拍手をお見舞いし。

「いや、さっき鳥を撮ってたんだけど」

「鳥ですか?ああ、いいですね。見せて下さい」

さっき土手で撮れた羽鳥白の写真を青年に見せる。

「綺麗に撮れてますね。素敵です」

相変わらず、ふわふわとした調子で写真を褒める。この写真を見ても何も思わないのか?真壁が問うと、青年は首を傾げてまたじっと写真を見つめた。

「え?すごくよく撮れてますよ。この白い鳥」

白い鳥、と確かに聞こえた。

「何だって?ここに映っているのは羽鳥白、じゃないか?」

「え?ああ、確かに彼女に似てますね、この鳥。本当だ。言われてみたらそういう風に見えてきましたよ」

「君には見えないのか。彼女が」

可笑しい。何度その写真を見返してみても、自分には羽鳥白にしか見えないのに、青年の目には白い鳥にしか映っていないのだ。

「もしかしたら彼女、鳥になって会いにきたのかもしれませんね」

その言い方にはどこか含みがあった。

「どういう意味?」

青年の笑顔は消え、目線は下を向いた。

「羽鳥白さんは、あの写真を撮った後に亡くなられたんです」

「え……」

「彼女が過ごすはずの明日はもう来ない。だから僕はこの展覧会を開きました。せめて彼女が多くの人たちの記憶の中で生きてくれるように」

言葉を失った。羽鳥白はもうこの世に存在していない。あの美しい鳥のような女性は、もう明日を生きることが出来ないのだ。自分に美しさを気づかせてくれた彼女は、この世界の美しさを見る事が出来ない。

「その白い鳥が彼女だったら、きっと今幸せに思うでしょう。だってほら、この白い鳥、笑ってるように見えます」

もう一度カメラを覗いてみる。そこには羽鳥白ではなく、白い鳥が映っていた。それも悠々と、只今空を舞っているような顔で。

「この写真を見せてくれてありがとうございます。あの、僕にも一枚下さいませんか?どうもこの写真を見ると彼女を思い出すので」


駅の方へと歩いていった。昨日死んでいた鳥は誰かに片付けられていた。どうせなら写真に収めて明日を作ってやれば良かった。真壁は後悔した。

午後3時くらいに家に着く。妻は出かけていてどこにも居なかった。何となく自室に戻るのが嫌で、テーブルに伏せながらうたた寝をした。寝る間際まで羽鳥白の事を考えた。それから白い鳥のことを。死んだ者にはもう明日は来ない、されど生きている自分たちだって、死んだように生きていたら変わらないのではないか。

後頭部を叩かれて目が覚めた。窓から刺す光は失われ部屋は暗かった。痛みに振り返ると、怒りに顔を歪めた加代子が見下ろしていた。

「これ、何なの」

手には、羽鳥白のポストカードが掴まれていた。

「返せ」

勢い良く立ち上がると、加代子はそのポストカードを床に投げ捨てた。

「知らない女のケツ追っかけるくらいなら、仕事探しなさいよ!」

彼女はそんなんじゃない!真壁は怒鳴った。

「パソコンでも調べてたじゃない。あんた、カメラなんか初めて最近おかしいなと思ったのよ。馬鹿にするんじゃないよ!あんたなんか下らない男なんだから、他の女はあんたなんか好きになったりしないんだからね」

ヒステリックに喚き散らし、真壁の胸を乱暴に叩いた。真壁は咄嗟にカメラを手にして、加代子の写真を撮った。何枚も何枚も、押し退けられ態勢を崩しても決してカメラを離さずシャッターを切った。やめて!やめなさいよ!加代子は叫んだ。それでもシャッターを切った。

加代子を振り払い真壁は距離を取った。カメラに収まった写真を見せ付けて言った。

「飛べない鳥はお前の方じゃないか。明日がないのは俺達の方じゃないか!」


彼女は飛んでいた。あの死んだ鳥も飛んでいた。真壁はカメラ一台持って家を出て行った。扉を出る前、佳代子のしゃくり泣く声が聞こえた。


土手へ向かって草むらに腰を落とす。知らないうちに涙が伝っていた。一筋落ちると、後から後から止めどなく零れ落ちていく。ふと、橙色と紺色の空の滲んだ境界線にカメラを構えた。空に向かって飛んでいく影を纏った鳥たちが、カンパネラの如く鳴く。その声はこうも聞こえた。

飛べない鳥に明日はない。されど、飛び立つ事が出来るかもしれない明日は来る。

鳥はどこか見知らぬ遠い場所へと飛び立っていった。その姿をどこまでもどこまでも見つめていた。その時背中に羽が生えて、彼女と空を飛んだ気がした。


終わり

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飛べない鳥に明日はない 白宮安海 @tdfmt01

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