2020年8月8日(閉会式)

 屍体は生きた人間よりも熱に強い。それが事実であったとしても、この蒸し暑い東京に一ヶ月も滞在していると、乗り切れるものなのかは疑問に感じてしまう。しかし所見に基づいて、マラソンの会場が札幌から東京に戻ってきたのは、良かったことだと素直に感じる。

 優勝したのは日本人だ。これは、選手の個人名ではなく、日本人が優勝したのだと、書くべきだろう。アフリカ勢と一位争いをしていた代表選手の姿を中継で見ていた人々が、一斉に沿道に飛び出してきて、並走する姿が残り十キロ地点から絶えることなく続いたのだ。マラソンランナーの速度は、一般市民の倍以上だ。全力疾走で、並走できる距離は短い。しかし、彼らは次々にやってきたのだ。

 もちろん、ボランティアスタッフや競技場の観客が屍者であるように、警察に排除されずに沿道で応援できるのも屍者のみである。自宅で中継を見ていた人々が個別に自死を選択し、死んでいって、応援に駆けつけたのだ。都内のマラソンコースに駆けつけられるのは、時間的にごく一部の東京都民だけであろう。それでも、屍者にならずにはいられない日本中の多くの国民が屍者となったのだ。

 JNC会長、柔道の金メダリスト、卓球の日本代表チーム、撲殺された高校生、そんな表に舞台立つ人々や、報道された人々だけでなない。今、多くの平均的な日本人は、周囲の人々と一緒に屍者になろうとしている。


 閉会式。

 ついに、祭典も終幕を迎えた。4年後は、パリである。国立競技場のモニタに、大統領の顔が映し出された。日本時間22時、フランスは15時だ。大統領官邸の前で陽光を浴びながらの挨拶である。空中からの俯瞰にドローン、地上にはアップ、ロングに固定された複数のカメラを置いて、撮影スタッフを遠ざけた挨拶が行われた。内容はそつない社交辞令で、すなわち総合的な意味での〈オリンピック〉を引き継ぐことを宣言しながらも、ネクロリンピックの開催については具体的な言及はなかった。フランス国民の感情、INCとFNCの折衝、スポンサー企業とTV局の意向によって決定されるのであろう。


 私は訪日前にパリ市民へのインタビューを行い、ネクロリンピック開催について多くの人々の言葉を紹介した。

「東京は〈人間〉とは無縁の異世界だ」

 有名なフレーズとして拡散したこの言葉の発言者は、とある——記事では名前を公表していないが——知識人である。まったくもって立派なレイシストぶりと言いたくなるが、今日、東京はまさしく〈人間〉とは無縁の異世界に成り果てている。かの知識人の慧眼を褒め称えてもよいが、その前に思い出したい。私たち人類の歴史は、〈人間〉を発見する歴史ではなかったか。

 異教徒を、異国人を、有色人種を、奴隷を、下層階級を、労働者を、障害者を、同性愛者を、女性を、様々なジェンダー、多様なセクシャリティの人々を、またサイボーグを、〈人間〉であると発見し、受け入れて来たのが人類の歴史ではなかったか。あるいは、勝ち取ってきたのが、と言い換えてもよいが(後者の立場に立つ人が多いことを私は願う)。

 いずれ彼らも同じ〈人間〉として、隣人として認め合い、一緒にやっていく日が来ると期待する私は、楽観的にすぎるだろうか。

 とは言え、その日が来るのはまだ先だ。今は、ロックダウンの閉塞状況から抜け出すことなく私たちの側が終わってしまうことのないよう、耐えていこう。いずれ、ドアを開け、街へ繰り出し、隣人と抱擁しあう日が戻ることを願って。


            フランソワーズ・アルヌール 東京、2020年、夏

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