第3話 行方不明者のビラ

 不謹慎な話だが、小泉佳代子は町の掲示板に貼られている行方不明者の写真のビラにふとゾクッとした感覚を覚えることがあった。特に何年も前に貼られた写真の人物は少なくない確率で既にこの世にいないのだと考えると、それがある種の遺影のように感じられてしまうのだ。


 母親の真奈美は佳代子が幼い頃に失踪し、かつて明るかった父の薫はそれ以来人が変わったように塞ぎ込んでしまった。母は非常にあたかかく、優しさにあふれた人物であったので、父がそうなってしまうのも佳代子は理解できた。その件もあり、彼女はそういった行方不明者の写真に対し一種の忌避感を覚えるようになっていた。


 佳代子の自宅から最寄り駅までの間の掲示板にも多分に漏れず行方不明者に関する情報提供の依頼のビラが貼られていることがあった。その夜も職場からの帰宅途中、街灯に照らされた掲示板に大きな文字で「探しています」といった文言が書かれた何枚ものビラが貼られているのが目に入った。その中で、異彩を放つ一枚のビラが佳代子の注意を引いた。その紙は見る者の目を引くような色使いをしている他のビラと違い、モノクロで刷られていた。文言はゴシック体で書かれた「大久保芳恵」の一言のみ。写真の周りは黒く太い線で縁取りされ、その中には十代半ばの少女が映っていた。普通このような写真は本人の笑顔やせめて真顔の写真が使われることが多いが、この写真は違った。苦悶とも悲嘆ともつかぬグチャグチャの表情であった。佳代子はその写真をしばらく眺めるうちに背筋が寒くなるのを感じ、その場からいそいそと立ち去った。それからしばらくは、通勤の際は出来るだけそのビラが視界に入らないようにしていた。


 次の週、ふと例のビラが視界に入ってしまった時、内容が変わっているのに佳代子は気付いた。先週とは写真と文言が変わっていたのだ。先週は恐らくは大久保芳恵という名前の少女の写真だったのに対し、今週は痩せた中年男性の写真に代わっていた。表情はやはり苦悶に歪んだものであった。文言は「田中幸雄」の一言。


 それから次の週も、その次の週も、そのまた次の週もビラに載っている写真と名前が変わっていた。被写体の人物は老若男女問わずであったが、佳代子はある共通点に気付いた。


「同じ背景だ…」


 それらの写真は映っている人物が異なるものの、全く同じ背景だったのだ。殺風景な廃墟。普通の廃墟なら外に木や他の建物が見えるはずだが、何も無い。廃墟の外にただただ虚空が広がっている異様な風景。空と地面の境界も曖昧な、薄暗い虚無。ただ、近付いてよく見ると廃墟の奥の方に何か小さなものが大量に並んでいるのが分かった。佳代子はそれらが何か気付いた瞬間に息を飲んだ。数えきれないほどの人間の目がこちらを向いているのだ。


地獄。佳代子の脳裏に去来した言葉はその一言であった。これは地獄だ。あるいはこの写真もカメラで撮られたものではなく、あの目の一つから見える光景なのだとしたら、このビラは一体。


 それからというもの、佳代子はその道を通るのを避けるようになった。誰かのいたずらとは思えず、彼女にはあのビラが極めて不吉な何かに感じられたのだ。


以前の通勤路を避けながら暮らしていたある日の帰宅時、緊急のガス管工事でう回路が通行止めになっていた。家までの道は依然使っていた通勤路と、この迂回路のみで、それ以外のルートだと大幅な大回りをすることになる。もう夜も遅いため、本当なら避けたいところではあったが、佳代子は以前の通勤路を使うことにした。


 例のビラが貼られた掲示板がその日も街灯に照らされていた。遠目でもまたあのビラが貼られているのが分かる。出来るだけそちらを見ないようにしながら、佳代子は足を速めた。だが、その時彼女の心に一抹の不安がよぎった。それは「あのビラが見えてしまうのではないか」という不安よりも、「ビラの写真が分からない方が怖い」という不安であった。歴然と目の前に存在する事実から目を逸らすことは、時としてそれ直視するよりも大きな恐怖を生む。佳代子は掲示板の前で立ち止まり、呼吸を整えながらゆっくりとそちらに目を遣った。その目に飛び込んできたものに彼女は思わず声を上げた。


ビラの文言は「小泉真奈美」。中央には空々寂々とした空間で大量の目に囲まれ、恐怖や苦痛で見たことも無いほど歪んだ母の顔が大写しになっていた。その目は白目を剥き、口は絶叫で大きく開かれていた。


母は地獄へ行ったのだ。

真っ白になった頭の中でそれだけは理解できた。


その後、佳代子は母の身に降りかかった理不尽、更には母の存在そのものを記憶から消すように、彼女に関するものを全て処分した。自らの恐怖を払拭するにはそうするしか無かったのだ。娘に忘れ去られようとしている母は、これからも永劫、この世ならざる虚空で苦しみ続けるのだろう。愛する娘がこちらへ来るのを待ち望みながら。


(終わり)

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