降りて、乗って、そして。――僕、目覚めたら首都が京都の世界にいました――
北白川このえ
プロローグ
プロローグ:三月一四日の雨
「『バス乗れました、今日はありがとうございました』、っと」
三月一四日。先輩の家からの帰りの市バス11系統。
後部座席に収まり、先輩からのLINEを打ち返す。
『よかったよかった…… えっと、例の返事なんだけども』
僕も大胆なことをしたなあと思う。あのときの目を丸くした先輩の顔を、僕は一生忘れないし、多分この三月の、冷たい大雨が降る日も忘れることはないだろう。
――それが悪い意味なのか、よい意味で、になるのかはこれから次第、だけども。
「僕はいつでもかまいません、その、急いでもいませんし」
『私も正直、急な話すぎて困っていただけ。ごめんね』
「お返事はゆっくりで構わないですよ」
バスの車内は、雨粒を散らすような低いエンジン音が響いている。このバスは大雨で三〇分近く遅れてやって来たが故、遅れを取り戻すべく、バス同士がなんとかすれ違える幅しかない三条通をかなりのスピードで走っているようだ。もう二〇時も回っているから車もまばらで、バスの爆走を遮るものはなかった。
すくなくとも、今は。
僕がスマホで先輩から次のメッセージを一日千秋の思いで待っていたその時だった。
そこに、対向から突然、大きくセンターラインを割ったタンクローリが現れた。
運転士は危ないと思ってハンドルを切ったようだが、この三条通にバスが逃げられるような歩道や、広い脇道なんて言うものはない。おまけに雨でスリップしたようで、バスは横に大きく揺られ、乗客の悲鳴があがる。
「なんや!」
「あかん!」
南無三、と踏まれた急ブレーキとともに、バスは鈍い音を車内一杯に響かせ、タンクローリのお腹へ激突した。
○
強い衝撃で一瞬気を失った後に見た光景は、煙だらけの車内だった。
「えっ、日野トレーラーバス」
バス火災を見てその言葉しか思いつかなかったのもどうかと思うが、前方のタンクローリからは火の手が上がっている。恐らく、そう長い時間がかからないうちにこのバスの燃料にも引火して、爆発するんじゃないだろうか。確かバスの燃料は前輪タイヤの下にあるはずだから、そう火の元との距離も遠くない。
最悪の状態だ。
運転席から命からがら這い出てきた運転手さんが「ひ、非常扉を開けてください!」と叫ぶ。僕は咄嗟に非常口前の座席を前に畳み、赤いカバーを引っ張り、中のドアコックをひねる。非常ベルが鳴り響く車内で、「急いで!」「荷物は置いて!」と叫びながら、左前に座っていたおじいさんや、前に座っていた塾帰りの小学生を避難させる。幸いにも乗客は少なく、ほとんどが後部座席に座っていたので、全員すぐに避難できた。
僕も続いて避難しようとした。
が、いるはずの運転手さんが上ってこない。
煙をかき分け様子を見に行くと、扉横の優先席の所に運転手さんは立っていた。
「運転手さん!速く逃げてください!」
「こ、こちらのお客さんが……」
「わ、私はもう年寄りやし置いていってもかまわへん…… 兄ちゃん早よ逃げえ」
あまり足の丈夫そうではない、すこし太ったおばあさんが優先席で伏せている。よく見ると運転手さんも事故の衝撃で足は血まみれ、とてもじゃないけどこのおばあさんを背負ってバスの中の階段を上れそうにはない。
「運転手さん!僕がおばあさんを背負いますから先に!」
「規則でお客さんより後に逃げるわけにはいかへんのです」
「そんなこと言って二人で死ぬ気ですか! 運転手さんが先に降りて、おばあさんを二人で下ろしましょう、他の人は子供やお年寄りだらけですし、おばあさんを下で受け取れません」
ここまで、普段の僕からすると、びっくりするくらい機転の利く立ち振る舞いだ。
僕はなけなしの力でおばあさんを背負い、後部座席へと登り、非常口から運転手さんを先に下ろし、おばあさんを抱えて下ろす。
「下ろします!」
「はい!」「大丈夫です!」
勇気ある中学生も協力してくれたお陰で、なんとかおばあさんをバスから降ろすことができた。これで、全員助かったのだ。
ただ、おばあさんを下ろした瞬間、安心してしまったのだろうか。
吸い過ぎた煙が急にクラッと頭に来る。目の前が一瞬ホワイトアウトし、いけない、と思った瞬間だった。
僕は非常扉からバランスを崩し、体ごとアスファルトに叩き付けられた。
「大丈夫か!」
「兄ちゃん!」
ああ、ここで死んじゃうのか。
先輩の一言、ただそれだけでも聞きたかったのに。
「やっぱり、僕は、だめなのかな……」
僕がそうつぶやくと、ものすごく大きな音がして、一面がオレンジに染まったことだけは、覚えている。
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