仏間、北枕

朱雨轩

木鳴りと北枕

小さな頃から、シンと冷え込む暗がりな応接間に寝かされていた。


− おじいちゃんのお父さんのお父さん、サヨのひいひいおじいちゃんが、仲間といっしょにこの家を建てたんで。


家の話になると、決まっておばあちゃんはそう教えてくれた。

父と母、わたしを含めた4人の兄妹に、父方の両親の2世帯、8人家族が住まう、ずっしりと大きく、長いながい廊下のある2階建てのこの家。

わたしが高校を卒業し、大学進学のために一人暮らしを始めるまでの17年の間、ただ静かに、じっと家族8人と居続けてくれたこの家。


私がまだ幼い頃、友だちを家に招くと、誰かが必ず迷子になった。


ぐにゃぐにゃと歪に曲がりくねった、長い廊下。うろ覚えの今でも、ざっと数えれば20はあった部屋。集合住宅や築年数の浅い家に慣れ親しんでいる子ばかりで、正しく歩かなければまず間違いなくトイレにさえたどり着けないらしかった。


数々の来客を出迎えもてなす役目を終え、わたしの自室となった応接間。わたしよりも先に実家を離れた兄妹たちの勉強机や教科書がきちんと片付けられ、今は物置と化した客間。祖父の釣具やゴルフ用具が納められたピアノ演奏室。祖母の念仏声が時折ぶつぶつと唱う、線香の香りで満ちた仏間。来客の用の寝室や、親戚一同が集う時にしか開かれない大広間 −−。


− いっちゃーん? どこまで行っとるんー?


わたしはその都度応接間に友だちを残し、戻らなくなった子を探しに行かなければならなかった。あまりに戻りが長いと、おおよそ迷子になっていることが多いからだ。


クラスの男の子の噂話をしていた彼女たちは、あまりにその噂話を聞き逃したくないのか、それとも誰かが迷子になるのがいつものことだと分かっているからか、私がすくと私が立ち上がり戸口からいっちゃんを呼んでも、目も来れなかった。


− いっちゃんどこ行ったんか見てくる。


彼女たちに反応はなく、やはり話に入り込んでいるようだった。


− うん、とか、わかった、とか言ってくれたらいいのにさ。


まるで初めから、わたしがそこにいなかったかのような素振りに見えたので、少しなじるように、でも彼女らには聞こえないようにぼやいて、応接間を出た。


迷子になったいっちゃんを呼びながら、トイレにたどり着く方向へ足を進めた。きゃっきゃっと彼女たちのはしゃぐ声がまだ廊下にまで聞こえてくる。ちょっとむっとして早足で歩くと、踏まれた廊下の軋む音だけが嫌に耳につくようになった。


− いっちゃーん。迷子になっただかあ?


瞬間、ぴき、とすぐ側の壁が鳴いた。

そういう音は、家の木材が乾燥し、表面が割れる時に鳴るのだと、ずいぶん昔におばあちゃんが話してくれた。

それじゃあおうち壊れちゃうの?そう私が泣きそうになりながら尋ねると、おばあちゃんは、なんでだあおじいちゃんが建てたんに、ちっちゃい木ぃが割れてかやれることないっちゃあと、笑いながら教えてくれたのだった。


ただ、今の木鳴りは、わたしの呼び声に応えたようにも聞こえた。

廊下をしばらく歩いた、しんとした通路でも、まだ部屋に残した友だちの声がかすかに聞こえてくることだった。周りの友だちに比べ、背丈がまだ120センチに届くだろうかというほど小柄だった私は、小学校を抜けきる頃まで廊下の天井までの3分の1ほどしかなく、所々にしつらえてある小窓の光にさえ与らなかった。


廊下の曲がり角。


そこだけがとりわけ暗く、まるで墨を撒かれたかのような場所に突き当たる。一目散に走り去ると、その先でようやくトイレにたどり着く。

大人であれば、ひと一人と行き違うものならどちらか一方が先を譲らなくてはいけないほどの通路の先、ベニヤ1枚に剥き出しになった骨組みと角材の取手とを打ちつけた、心許ない扉が待ち構える。


ことん、と陶器製トイレのタンクが揺れ、控えめなししおどしのように音が鳴った。いっちゃんはまだ用を足しているらしかった。


− いっちゃん、まだトイレ?


喉を絞りながら出した声は、今や友だちの声さえ聞こえない廊下にこだまし家自体が吸い込むようにして消えた。またぴき、とだけ廊下の木鳴りが響いた。


ベニヤの扉を見つめる背後広がる細い廊下、その先の暗がりな曲がり角から、ぬっと何かが目を覗かせてやいないか。いっちゃんの返事のない中、いらない恐ろしい事ばかりが頭をよぎって、何となく、今は後ろを向いてはいけないような気がした。

動けずにいて仁王立ちのような体の私は、いっちゃん、ともう一度だけ声をだした。


− はあい。


おかしい、と思うべきだった。

幼い女の子のその返事は、私の背後の廊下から上がったのだ。だが、恐怖心よりも誰かがいてくれたと安心感が勝ってか、不意首だけが反射的に背を向いた。


自分の肩の先くらいまで視野が広まった途端、目にしなくとも感じられるほどのことがその先で起こっていた。


夜になっている。


肩先まで傾けた首からわかったのは、細い廊下の影った曲がり角の闇が、周囲を塗りたくるように光を飲み込んでいるようだった。さっきまで自室の応接間で友だちと居た時はまだ陽が部屋へ差し込むほどで、廊下を歩いた時にも小窓から光が溢れていたはずなのに、異様な暗さが廊下とその曲がり角だけは夜のように闇に包まれる。

体は固まって、首を戻すことも瞬きさえもままならず、声も呼吸も喉の内へ内へと吸い込まれるばかりになった。


まるで黄昏時の夕焼けが早送りで消え去っていくように、視野に映る限りにまで影が広まって、ぼんやりと見えていた廊下の板張りや砂壁もが、徐々に飲み込まれていくのが分かった。

黄昏時は、「誰そ彼時」つまり相手が誰だかわからなくなるような暗がりな時間を指すが、もはやあたりは一面暗闇になっていた。


途端、硬直した体にふっと自由が効きいた。ぴんと張った糸を手放すように、首を捻ったまま硬直していた体が意図せず廊下の曲がり角の暗闇に進んでしまった。

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仏間、北枕 朱雨轩 @kishimoto_kishimoto

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