忍びても云わざりし

川谷パルテノン

第1話 少年と祖母

 二頭の大狗が歩いている。彼らは飛来した星によって穿たれた穴に出来上がった湖を発見した。初めて見る水に初めは畏れをなした。冷たいのだ。二頭の大狗はこの時、生まれて初めて冷たさというものを知った。すっかりと怖気付いた一頭を尻目に、もう一頭は果敢にもそれを舌で舐めてみた。そのまま口に含み飲んでもみた。するとこれが心地よいではないか。果敢な狗はもう一頭にこれを薦めた。けれど水があまりに怖しい狗は誘いを頑なに拒んだ。

 やがて陽の落ちぬ日が続いた。夜が来なくなったのである。すると大地は渇きはじめた。水を飲める狗はその日照りを耐えた。ところが水を飲めぬ狗は渇きに従って命を終えてしまう。生き残った狗はせめて死後が潤うことを祈って亡骸を湖へと沈めてやった。一頭だけになった狗は寂しさを紛らわすかのようにひた歩いた。狗と大地と湖の他に何もなかった時代である。狗は何を目指すでもなく歩き続け、そして老いた。歩く力も失われ、ただそこに突っ伏していた。もう渇きを癒す湖の場所は思い出せなかった。この世に唯一の友が眠る湖に今一度辿り着きたいと痩せ細った脚を力一杯起こしてみる。脆くなった骨は折れ、遂に狗は死を予感した。こんなことならばあの時、水など知らぬまま彼処で友と朽ち果てればよかった。狗は死を前にして幻をみた。何やら光の中に見たこともない形が浮かんでいる。怖かった。この期に及んで畏れを抱くことが次の瞬間には可笑しかった。狗は嗤った。もう何年と発していない声が出て、命の灯火がこれで掻き消えるのだと、大きく嗤った。すると光の中から何かが狗に語りかけた。それが何を言ったか、狗にはもう届かなかった。何故なら狗は死んだのだ。しかしながら狗の亡骸を包むようにして光は一帯に広がった。その光は永遠と思われるほどの長い時間にわたって光り続けた。そうして悠久の時が流れ、ようやく光が消えると再び夜が成った。夜は静かだった。その静寂の中で何かが脈打つ。その鼓動は渇いた大地を割った。その亀裂にいつかの湖が水を注いだ。やがてそれは川となり、ほとりには草木が芽吹いた。いくつかは実り、森となった。森はどこかで枯れ果てると風に乗って種を蒔いた。種はまた新たな緑を生みいつしか大地は生命を宿した。これが世界の始まりとされる。


 少年は大きく欠伸した。老婆が語る、もう何百と聞いた創世譚。声変りの始まった多感な時期に、子供騙しの御伽噺は退屈を通り越して苦痛だった。老婆は片目を開いて少年の腑抜けた面構えを珍妙な形の杖で思いきり殴った。

「ッ痛てえ! 何すんだ糞婆!」

「シャクマァアアア!」

 少年の名は釈摩しゃくまといった。彼は天豹の里で祖母とたった二人で暮らしていた。文明から切り捨てられたこの里で少年は育った。彼は両親を知らない。物心ついた時には祖母だけが身寄りだった。釈摩は退屈だった。獣と緑しかないこの地で彼は何処かの旅行者が捨てた色本を拾ってしまったのだ。それまで内なるものでしかなかった性の欲動は見事に刺激され、その煩悩は激しく熱を持ったのである。祖母は頭を抱えた。よもやこの里になんの偶然か文明が呟いた。そして見事に絆された莫迦な孫が雌鹿を犯そうとするのを鉄拳制裁する日が来ようとは。これは時間の問題だと祖母は考えた。今日まで釈摩には様々なことを教えてきた。それはある目的のため。しかしこの莫迦孫にそれが成せようか。祖母の悩みは尽きなかった。

 ある晩の事。天豹の里に一羽の金糸雀が降りた。金糸雀は釈摩と祖母が住う襤褸小屋を訪れる。釈摩はすっかりと眠りごち、鼾をかいてはそれが止んだかと思うと寝言を言った。都、都と繰り返す釈摩の好奇心は再び祖母を悩ませた。金糸雀はしばらく様子を見ながら、やがて祖母に語りかけた。

「時は満ちたか?」

 その小さなナリからは想像しえないひどく低い声だった。

「まだ待てないだろうか」

 祖母はどことなく寂しげな声で言った。しかしそれは叶わぬことと知りつつ。

 翌朝、釈摩が川で顔を洗い小屋に戻ると祖母は神妙な顔つきで待ち構えていた。釈摩を手前に座らせると祖母は短剣を彼の前に置いた。事情の飲み込めない釈摩は不思議そうに祖母の顔を見たが、祖母はしばらく黙ったまま俯いていた。

「婆ちゃん、腹でも壊したか」

「釈摩よ。よく聞け。お前には使命がある。そのためこれより邏陽を目指すんじゃ」

「ラヨウ? もしかして都のことか? 本当か? いいの?」

 釈摩は飛び跳ねて喜ぶ。しかしながら祖母の面持ちはいまだ苦渋に歪んでいた。

「してこれは最後の教えじゃ。その剣でこのオババを討て。出来ぬというなら儂がお前をここで殺す」

 釈摩の表情は一瞬にして鎮まった。意味がわからなかった。祖母が何を告げたか理解出来なかった。

「何言ってんだよ婆ちゃん」

「よいか! お前がこれより赴くは修羅の道。ここで儂ごときを斬れぬでは到底生きて渡れぬ鬼の宿命!」

「やだよ。なんでだよ! なんで俺が婆ちゃんを斬ったりしなくちゃならないんだ!」

「覚悟!」

 祖母が杖から刃を抜き釈摩目掛けて斬りかかった。釈摩にはどうしても祖母を斬るなど出来なかった。それでも彼は剣を拾ってしまう。祖母がそのように彼を育ててきたからだ。反射的に、本能的に、釈摩は抜いた刃を向かってくる祖母の首筋へと突き立てた。溢れ出る血は祖母が何かを告げようとするたびに飛沫をあげた。釈摩は泣きながら力が抜けていく祖母の体を抱き上げた。

「なんでだよ」

 祖母は言葉を持たなかった。空気の掠れる音だけが鳴った。しかしながら彼女の顔は彼を祝福するようで、またどこかでは憐れむようにして釈摩を見ていた。

 釈摩は祖母の亡骸を小屋の近くに埋めた。夜通し一頻りに泣く。そして翌朝、彼は里を後にした。祖母が最期に手渡した一枚の便箋にはこの先に待つ少年の過酷な運命が記されていた。少年の負った使命。それは帝都邏陽で最も地位の高い存在、この大陸で神に一番近い人の子、すなわち帝の暗殺。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る