ねえ、もっと×××××
数ヵ月経った頃、私は飲食店の帰りに彼女とツーショットの写真を撮った。
彼女は、数ヵ月前私を宅飲みに誘った日のようにガリガリに痩せていた。
私は、その写真と以前撮ったテーブルの上の写真を別の友人へ送った。
嫌な予感ほど当たるんだな。
友人からのメールを見たとき、そう思わずにはいられなかった。
「その子、摂食障害かもしれない」
お腹の中にはね。誰だってバケモノを飼ってるの。
何かを無性に食べたくなる時、ない?
食べても食べても物足りない時、ない?
そのバケモノはね。いつだって何かを欲しがってるの。もっと、もっとって。
食べ物が欲しい。
煙草が欲しい。
お酒が欲しい。
お金が欲しい。
権力が欲しい。
麻薬が欲しい。
欲しくて欲しくて、おとなしくしていないの。
少しでも不満だと暴れだすのよ。
もちろん私のお腹にもいるわ。
ほら。もっとたくさん美味しいものたべさせろー、ってね。
だから、バケモノを飼ってる人は健康でいなくちゃいけないの。
バケモノの「欲しがる欲求」に勝たないと、自分がバケモノになっちゃう。
私は、そう思っているのよ。
バケモノに負けちゃった人からはね。
どろどろしたものが滲み出している気がするわ。
心の隙間、心の弱い部分から、じわりじわりと滲み出すの。
それがバケモノ自身なのか、バケモノの涎なのかはわかんないけど。
ほら。「喉から手が出るほど」欲しがるって言うでしょ? あの手はバケモノの手なのよ。知ってた?
私の友人はね。我慢して我慢して我慢して我慢して、そのバケモノに負けちゃったの。
我慢した分、ううん。それ以上の物をお腹に入れようとしたの。でも、やっぱりそれじゃダメ。食べちゃダメって彼女の意識がストップをかけてくる。
食べたい。
食べちゃダメ。
食べたい。
食べちゃダメ。
食べろ。
食べるな。
彼女はどれだけ葛藤したんだろう。
あんなに幸せそうに食べ物を口にしていた彼女。「食べる」ことの大切さと、その意味を知らないはずなかった。
彼女の中のバケモノはどっちを迫ったんだろう。
食べろって?
食べるなって?
わかんない。でも、結局彼女は「ああ」なっちゃった。
しばらく経って、私はその子に連絡を入れた。
ちょっと会えない? って。
彼女からはいいよって返事がすぐに来た。
約束の時間になって二人が揃うと、私はすぐに要件を言った。
貴女、摂食障害でしょ。
彼女は小さな声で、なんでと言った。
手、出して。
私は差し出された彼女の痩せた手をとった。
まさに骨と皮だけの痩せた指だった。その指に、硬いタコができていた。最後に握ったときはこんなものなかったはずなのに。
私はそのタコを指差して言った。
これ、吐きダコなんでしょう?
彼女の表情が凍ったように冷えた。そして、少し迷った後で、うん、と頷いた。
ああ、やっぱりかぁ。
「吐きダコ」っていうのはね。
口の中に限界まで指を突っ込むと、指の関節が歯に当たるんだって。それを何回も何回も続けると、タコになる。これが「吐きダコ」。
何のために口に指を突っ込むのかって?
決まってるじゃない。
食べた物を吐くためよ。
摂食障害の症状にはいくつかあるの。
食べて食べて食べまくる。
お腹の中のバケモノが際限なく「寄越せ、寄越せ」って欲しがるパターン。
こうなると、後はぶくぶく太っていくだけだよね。
全く何にも食べない食べられない。
これは逆にバケモノが「食べたくない」って拒否するパターン。
ガリガリに痩せて点滴生活、かな。
それと、これが彼女の症状。
食べて、吐く。
バケモノは欲しがってるけど、本人は食べたくない。だから意識的に口の外に出そうとする。
もしくは、その逆。
本人は食べたいけど、バケモノは食べたくない。
そうなると、1回は口に入れるの。1回はね。でも、次の瞬間には吐き出すの。べっ、とね。
すぐにじゃなくても、胃に吸収される前に吐いちゃう。
だから、体は「食べていない」状態。つまり、彼女みたいにガリガリに痩せている状態になるの。
でもね。ここが恐いところよ。
すぐに出すとは言っても一度は食べる。
「どうせ吸収されないんだから、いくら食べても大丈夫」って考えになるのよ。
そう、思っちゃうのよ。
だから、心は軽くなるよね。我慢しなくていいんだからさ。
頭も満足するの。実際に「食べる」行動をして味を感じて。自分は食べてるんだ、美味しいなって思うことができるんだもん。
だから、たくさんたくさん口にするの。
異常な量を食べる人は、その全員が消化できてると思っちゃダメよ。中には、こういうふうに吐いてる人もきっといるはず。
これを治そうとするには、ただ単に吐かなければいいっていう話じゃないらしいわ。
何回も繰り返すと癖になっちゃうんですって。食べたら吐くっていうのを体が覚えちゃってるの。
食べたら吐かなくちゃって思うのよ。
いくらバケモノがおとなしくなっても、吐かなければいけないって刷り込まれちゃってるのよ。
きっと、彼女も。
可哀想に。
あんなに美味しい食べ物も、美味しいって笑っていた彼女自身も、みんな吐き出しちゃったのね。
本当に、本当に、可哀想。
だから私は彼女に言うの。
「吐かなくなるまで、私、貴女に会いたくないわ」
彼女、すごくショックを受けた表情だった。私は笑って言った。
「笑顔で、本当に美味しいって言える貴女と一緒に出掛けたいの。一緒に食事したいのよ」
うまく、笑えたかな?
彼女は「わかった」と言った。
どれくらいかかるか分からないけど、お医者さんに診てもらってしっかり治す。だから、また会って一緒にお食事にいきましょう。
彼女の言葉に、私は「うん。また会いましょう」と返した。
それ以来、私はまだ彼女に会っていない。メールのやり取りはあっても、約束通り会うことはしていない。
誰だって人は自分の中に「バケモノ」を住まわせている。
バケモノはいつだってもっと、もっとと何かを欲しがる。
私の友人はダイエットをしていたの。ただの、ダイエットよ。
それがいつの間にか摂食障害を引き起こしてしまった。彼女の中のバケモノを飼い慣らそうとする余り、我慢をし過ぎたのね。
姿形も見えない、いるかもわからない得体のしれないバケモノ。欲と衝動に飢えたバケモノ。
彼女は、そのバケモノにいいように扱われたわ。
ねえ、周りを見てみて。
ストレスだと頭をかきむしってる人、タバコを何十本も吸っている人、家の冷蔵庫に何十本もアルコールを冷やしている人、ほんの数分だってスマホの画面から目が離せない人、ゲームの課金が万を越えても止められない人、他の人の悪口が止まらない人。
こんな人たち、知らない?
バケモノはもっともっと、足りない足りないって喚いてる。
バケモノが暴れていると、こんな風に何かが表に出てくるの。
どろどろした、何かがね。
私は自分の腕を見る。
自分でつけた古い傷がいくつも残る腕を見る。
例えばね。
リストカットの癖を完全に治したいなら、
最低でもリストカットを続けた年月と同じ時間を止めないと治ったって言わないそうなの。
私の場合は20年位かな。
最近、やっとバケモノが落ち着いてきたところよ。
昔は私のバケモノは、「もっと痛みを寄越せ。生きているという実感を見せろ」ってうるさかったわ。
最近、やっとおとなしくなってきたとこなの。
私の友人は、どれくらいで摂食障害が治せるのかな。
治ったらまた一緒に食べに行こうと約束した彼女。
彼女と食事に行けるのはいつになるだろう。
彼女とは、まだ、再会できていない。
バケモノがまた騒ぎだしそうだ。
私の古傷だらけの右手には、キラリと光るカッターが握られていた。
バケモノは、今はまだ、おとなしくしている。
今は、
まだ。
ね。
そういえば。彼女がダイエットを始める前によく話してくれた菜摘っていう妹ちゃん。確か、次の三月に高校を卒業して製菓学校へいくって聞いていたはずなんだけど。どうなったのかな?
今日も私は歩道橋を渡って仕事に行く。
鞄の中にはカッターを、心の中にはバケモノを仕舞い混んで。
歩道橋の下から甲高いクラクションが肌寒い風と一緒に吹き抜けていった。
私は。彼女がどうしてそうなったのか全く知らない、外側の人間よ。相談もされなかったし、一緒に居ることもできなかった人間。
そう、彼女たちの話のエキストラ。
でもね、どうかこの話たちを聞いている人に考えて欲しいの。
自分はどうなのか、って。
欲しい欲しい、もっともっとと無闇に手を伸ばしちゃいけないわよ? 手を伸ばした先に何があるかなんて、わかんないんだから。
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