遙か遠くのきみへ

SAhyogo

第1話

 スマホから聞こえてくる声のあなたは、一体どんな人なんだろう。

 小柄なのか、はたまた大柄なのか……。童顔なのか、それとも大人びているのか。分かるのはただ一つ。スマホから聞こえてくる、透き通るような歌声だけだった。

 不定期にライブ配信さられる彼女のラジオ。その出会いは運命と言って相違なかった。

 その日俺は、日々学校終わりのバイトに追われ、疲れ切っていた。帰宅後、何かをするわけでもなく動画サイトをボーッと眺めていると、合間に入る広告に表示されたのが彼女のラジオだった。

 いつもならスキップのバナーが出た瞬間に広告は飛ばしてしまうのだが、その時に限っては聞き入ってしまった。疲労感で荒んでしまった心を潤してくれる。そんな気がしたからだ。運営会社の思う壺だと思いながらも、心の渇きには抗えず、アプリをダウンロードするサイトへと飛んでしまった。

 専用アプリをダウンロードし、アプリを開くと丁度彼女がライブ配信している最中だった。案の定、時間も忘れ聞き入ってしまい、彼女の「それではおやすみなさい」の言葉で十二時前だと気付いた。それからである。それからと言うもの、何かにつけて彼女の声が脳裏を掠めるようになってしまった。

 休み時間になると音源をアップしていないか確認したり、帰宅すると真っ先にアプリを立ち上げる。そんな日が数日間続く。そして、俺はついに一大決心をし、ライブ配信中にコメントを投稿したのだ。

『初見です。“まさ”といいます』

「まささん、いらしゃい。ゆっくりしていってくださいね」

 素早いレスポンスだった。配信者の鑑と言えよう。

『配信お疲れ様です。毎回、うみさんの歌声に癒やされております』

「わー、ありがとうございます。今日は雑談枠なんですけど、数曲なら歌えると思うんで是非聞いていってくださいね」

 配信環境を整えているのか、スマホの向こうからガサゴソと物音がしている。

「すみません。ちょっとうるさいかも知れません。なにぶん最近忙しくて、掃除が出来てないんですよ。だから、デスク回りが散らかっていて……」

 尚も環境音が続く。ガサゴソと音がする中で、彼女は陽気に鼻歌を歌っている。それは実に至福の瞬間だった。

「あれっ、配信切れちゃったかな……。まささん、聞こえてますか」

 不意の投げ掛けに、俺は思わずドキリとしてしまった。

『聞こえてますよ』

「よかったー。急に静かになったので、上手く配信できていないのかと思いましたよ。この配信過疎ってるんで、何でも質問してください。じゃないと枠が保ちません」

 と言われても、咄嗟に質問など思い付くはずもない。それに彼女のことを知りたい反面、あまり踏み込んでしまうと自身が傷ついてしまうんじゃないかという恐怖心もあっ控えめあに言って俺は性格がいい方ではない。根暗だし、お喋りな方でもないし。

 初対面の人間とは差し障りなく接するものの、無用な気遣いに疲れ徐々に態度がおざなりになっていく。それを悟られ、離れていった人間が何人かいた。自身の態度が態度なだけに当然の帰結と言えるのだが、やはりそれはそれで傷つくものだった。だから、自然と人との距離を保つようになったのだ。

 まあでも、ラジオDJとリスナーの距離なんて計り知れないというのも事実である。当たり障りのない日常会話なら、彼女の言う枠というのも保つはずだ。

『うみさんは社会人の方なんですか?』

「あっ、質問。ありがとうございます。どうしてそう思うんですか?」

『配信をしながらデスク周りを掃除されているので、パソコンで配信しているのかなと思って。ITバブルの時代とは言え、未成年で自分のパソコンを持っているのは珍しいんじゃないかと』

「当たりです」パチパチと手を打つ音がする。

「すごいですね。まささんこそ、その物言い社会人の方ですか?」

『いえっ、自分は未成年ですよ。高校生です』

「へー、そうなんだ。高校生かー。若いなー。お姉さんも高校生時代が懐かしいよ。これも何かの縁と思うからさ。悩み事とかあったらなんでも相談に乗るよ」

 社交辞令とは言え、その言葉は今の俺にとって胸に刺さるものに他ならなかった。今俺が置かれている状況を、率直に相談してしまっていいものなのか。

 悩ましい限りだ。しかし、深い仲でないとできない相談事があるように、初対面尚且つネットを隔てているからこそできる話だってあるはずだ。俺が抱えている問題は、おそらくその類のように思う。

 意を決して、俺はコメントを打ち込んだ。友人の話という体で。

『自分はとくに悩み事はありませんが。この前友人から相談を受けたんですよ。でも、上手く助言できなくて。うみさんなら、的確な助言ができるかと……』

「まささんに解決できないことが、私にできるかな」

『まあ、一つの意見として、自分の意見と総合的に判断して伝えようと思います』

「そっか。それなら安心。……」

 そして、いざ本題を打ち込もうとスマホに指を乗せた矢先のことである。間髪入れずに、「それと」と前振りをして言葉を続けた。

「できればその子にこのラジオのこと宣伝してもらえたら、お姉さん嬉しいな」

 意外とちゃっかりしているうみさん。しかしながら、そんなことで彼女、いや彼かもしれないが評価を下げるほどにまだ切迫感には苛まれてはいない。それに、この件に関しては徹頭徹尾俺に非があるのだから。ここで非難するのはお門違いと言うものだ。

 俺は素直に『了解です』と打ち込み、本題へと入った。

『その友人は一人っ子で、シングルマザーの家庭なんです。幼少期に父親が蒸発してしまって、それ以来母親が女手一つで彼を育ててきたそうなんです。ですが、高校に入学して直ぐに、無理が祟って母親が倒れてしまったんです。生活保護の受給もできず、やむを得ず彼が昼夜問わず、働くことになりました。母親のためと言ってせっせと働いているんですが、分かるんですよ。気丈に振舞っているようで、目に生気が感じられない。灯されている弱い火が、今にも消えそうな気がして心配なんです』

 打ち終え、俺はひと呼吸置く。理由は先程と同じ。こんな重たい話を癒しの空間である彼女のラジオでしてしまっていいのか。この配信がアーカイブとして残ったとき、それを聞いた未来のファンが果たしてどう思うだろうか。あらゆる疑念が脳裏を過ぎり、送信ボタンを押す指を押し留めていた。

 すると、痺れを切らした彼女が口火を切る。

「やっぱり言いにくいかな。お友達のとは言え、いきなり悩みを打ち明けてほしいは強引だったね。でも、興味本位で聞いてるわけじゃないよ。私だってまささんのお友達の力になれたらいいなって本気で思っているから」

 その言葉に俺は背中を押され、ようやく踏ん切りがついた。送信されたことを通知する間の抜けた音とともに、コメントが表示された。コメント欄におびただしい文字の羅列。それを見た瞬間、我ながら抜かったと後悔の念にかられた。

 読みにくいこと、この上ない。

 謝罪のコメントを送ろうか迷ったが、謝ったところで送信したものを取り消すことも出来ない。大人しく返答を待った。すると……。

「なるほど。なかなか重たい相談事だね。これに的確なアドバイスは難しそうだ。そうだな……。えーっと、それは今にも自ら命を絶とうとしていると言うことでいいのかな?」

 今にもと言うわけではないが、話は概ね合っている。このまま同じ生活を続けていると、そうなる可能性が高いということだ。それが不安定な思春期特有の病気みたいなものと言われればそれまでだが、当人にとっては切実だった。

 俺は『今にもというわけではないと思いますが……』とだけ答える。

「そっか。そんなに追い詰められてるんだ」穏やかに且つ包み込むような声音だった。

 そして、「でも、これだけは言えるよ」と続けるわけだが、その言葉からは打って変わって確固たる意思のようなものが感じられた。

「――何があっても死だけは選ぶべきじゃないってことは」

「分かってるよ。そんなこと」リビングに寂しく俺の声がこだました。

 ありきたりで、もはや古典と思えるその言葉。声色を変えたとしても、今の俺に刺さることはなかった。

 膨れ上がった期待も徐々に萎み、感情がクールダウンして行く。やはり俺の人生は齢17にして、すでに詰んでしまったのか。

「もうダメだ」ボソリと呟く。

 頼みの綱だったうみさんでさえ現状を緩和できないいま、打つ手なしだった。そんなときふと脳裏に過る。俺はどうして生きているのだろうか。こんな途方もない疑問に誰が答えてくれようか。思い当たる節はなかった。

 急に黙ってしまった俺を心配してか、うみさんが頻りに話を振ってくれていた。しかし、どうしても集中して聞くことができなかった。心ここにあらずというか、絶望感に苛まれているというか……。話題が右耳から入って、左耳から出て行く状況だった。それでも、配信を終了する旨は聞き取れ、彼女は締めくくりにこう言った。

「それでも死にたくなったら、私に言って。その時は引き止めはしないから。最後くらいは楽しい時間を過ごしましょ。それじゃあ、今日の配信は終了するね。来てくれてありがとう」

 そう言い残し音声が切れる。画面には『うみさんの配信は終了しました』と、表示されていた。

 終了して改めて思う。うみさんはおそらく気付いていたんじゃないかと。最後の言葉も俺の架空の友人ではなく、明らかに俺に向けて言っていたし。

 その日から俺は、うみさんの配信に寄り付かなくなった。理由はじつに子供じみていて、無用に気を遣われるのが煩わしかったからだ。一応、サイトは覗くものの、今日も配信してるなと思うくらいで配信画面を開くことはなかった。それから気付けば一週間が経ち、その間欠かさずうみさんは配信を行っていた。それが邪推という可能性もあるが、俺のためと思うと相当心が痛む。だから、明日は必ずうみさんに会いに行こう、そう思った。

 それが叶うことはなかったが……。


 その日以降、うみさんが配信をすることはなかった。


 ―数日後―


 心境とは裏腹に、本日は天候に恵まれていた。それはもう、身を投げ出したくなるくらいに。ちょうど今、校舎で一番空に近い場所にいるし、そこの淵からいつか見た映画のように駆け出そうか。そんな気さえさせた。今日の天気は。

 グランドからは昼休みということもあって、賑やかに生徒たちが戯れている。以前なら恨めしそうな目で眺めていた彼らに対して、今となっては何も感じない。脳が理解することを拒絶していた。

 物思いに耽るわけでもなく、ただ呆然と空を眺めていると、不意にうみさんのことが脳裏に過る。空の青さが海を連想させたのだ。

 それにしても、俺がログインしなくなったからといって配信をやめてしまうとは。いくら過疎っているコンテンツとはいえ、続けていればリスナーも増えただろうに。うみさんにはその才があると思う。

 離れたリスナーの言うことではないが、嘘偽りなくそう思った。

「……うみさんの声が聞きたい」か細く俺は呟いた。

 思わず口にした言葉に、自分でも驚く。そして、気付く。自分で思っている以上に、うみさんの存在が生活に浸透していたことに。

 繋がりを失ったいま、胸にポッカリと穴が空いた気分だった。聞くところによると、うみさんはSNSの類をやっていないようだし。万事休すとはこのことだ。

「んー。俺のバカ野郎」

 泥だらけになることを承知で、辺りをのたうち回った。案の定、制服は泥だらけになったが、どうせ怒ってくれる人もいない。思う存分、後悔の念に駆られた。それが自分勝手に離れてしまった人間の報いだろう。

「せっかく、うみさんが俺のために言ってくれていたのに。俺って奴は。クソッ」

 丸く縮こまり、震えた。そして、何度も何度も自分を戒める言葉を叫んだ。ついにはうみさんの名を叫ぶという暴挙に出ようとした瞬間、ガチャっという音とともに何者か屋上へとやって来た。

 気分が良いのか鼻歌混じりだ。

 タッ……、タッ……、タッ……、という調子で歩を進める来訪者。ずいぶん遅い歩調であった。真下で鳴っていた足音も、徐々に遠のいて行く。ともすればフェンスに手を掛ける音が聞こえた。

 ギシ、ギシ、ギシ。ひと呼吸置いて、またギシ、ギシ、ギシ。タタンッという小気味よいステップの後、音は止んだ。

 しかし、終始歌っていた鼻歌はなおも続いている。

 聞き覚えのあるそのリズム。何の歌だったか思い起こそうとすると、それはうみさんが好きでよく歌っていた曲だった。

 くじけそうになったとき、どうしても前を向けなくなったとき、その曲が背中を押してくれた。うみさんはそう言っていた。俺もその曲と、うみさんの声に支えられていた節はある。そんな曲だから歌い手に興味が湧き、声の主に視線を向けた。

 スカートをなびかせて、一人の女子生徒がフェンスの向こうに立っている。快晴というのにずぶ濡れで、制服も所々破れていた。その様子から彼女に何があったかは容易に想像がつく。折角、同志を見つけたと思ったが、厄介ごとはゴメンだ。

 そろりと態勢を直し、再び視線を空へと戻した。

 あそこに立っている以上、飛び降りようとしているのは明白である。阻止するのが当然だが、この世の理不尽から逃げ出したくなる気持ちも痛いほど分かっているつもりだ。だから不用意に止めたりはしない。仮にそれを冗談でやっているとしても、それこそ声を掛けるのはかえって危険を招く結果になりかねない。やはりここは、そっとしておくのが吉だった。

 グランドからの喧騒に混じって、トボトボと淵を歩く音がする。

 そう言えば、この曲もそろそろAメロに入るあたりか。

「……」鼻歌で奏でた伴奏が消え、Aメロが始まる。

 うみさんの十八番だったその曲。それだけに中々の腕前だった。

 故に彼女がこれから歌う曲に対して、俺の評価が厳しくなるのも必然だった。さて、お手並み拝見と行こうか。

 轟き渡る彼女の歌声。それなりの音量だった。グランドで青春を謳歌している生徒たちもさぞかし驚いていることだろう。かく言う自分が一番驚いている。その歌声に……。

 考えるより先に駆け出していた。2メートル強の高さから躊躇することなく飛び降り、その衝撃に顔をしかめる。よろけつつ、なおも走り続けた。

 そして最難関のフェンスも、怪我を承知で強引に腕をねじ込んだ。女子であることをためらわず、華奢な腕を掴む。驚きの表情で振り向く彼女の瞳には、涙を浮かべていた。

「誰ですか、あなた? 離してください」

「離さない」

「どうして?」

「人類の損失だから」

「意味が分かりません。離さないのであれば腕を噛みますよ」

「構わない」

 ンッ。本当に噛まれた。

「クッ」痛みに顔が歪む。でも、離さなかった。

「どうして、そこまで」

「言っただろ。人類の損失だって」

「……だから意味が分かりません」大粒の涙が溢れ始めた。

「それを聞いてからでも、遅くないんじゃないか」

 語りかけたが、恐らく耳には入っていない。人目気にせず、彼女は泣いている。フェンス越しであるが故に、宥めることが出来ない。もどかしい限りだった。

「離してください。私は死ぬんです」

「そうか。じゃあ、俺の腕を切り落とせば良い。もしくは強引に飛び降りればいい。もれなく俺の腕も一緒に火葬場まで行ってやるよ」

 彼女はためらわなかった。重力に身を任せ、俺の腕に彼女の全体重がのしかかる。

「クソがっ。本当に飛び降りる奴があるか」

 火事場の馬鹿力とはよく言ったものだ。こんな細腕でも女子一人支えるだけの力はあるのだから、正直驚きだった。俺は渾身の力で彼女を引き上げ言った。

「もう飛び降りるなよ。絶対にだ」念押す言葉には少しの怒気も含まれていた。

 鼻息を荒げ恫喝する俺。目も血走っていたかもしれない。その、勢いに気圧され萎縮したのか、しおらしくなった彼女は呟く。

「分かったわ。だから離してよ」

 さらに俺は睨みを利かす。

「そんな怖い顔で見ないでよ。飛び降りたくなるわ」

「すまない。でも……」

 大きく溜息を吐く彼女。

 ギシッ、ギシッ、ギシッ。往路と同じリズムでフェンスを上り、下りは億劫だったのか飛び降りた。

「ハハハッ、あの高さからだと流石に足が痛いね。君はあの高さから飛んだの? どれだけ必死だったのよ。笑えるわ」スカートを叩きながら彼女は言う。

「で、私が人類の損失ってどういう意味なの?」

「そのままの意味さ。そんな歌声の持ち主を見す見す失うなんて、損失以外の何ものでも無い」

「こんな声、どこにでもいるわよ」

「どこにでもいたら、俺は君の声に惹かれたりしない。特別だったから、救われたんだ」

「救われたって……」

「君、うみさんだろ?」はっとする彼女。

「もしかして、まささん?」

「そうだよ。ずっと、謝りたかったんだ。急にいなくなったことを」

「いいのよ、べつに。そんなこと。もう全部終わったことだし」

「いいや。終わらせない」俯く彼女に、俺はグイッと詰め寄った。

「ど、どうしてよ。あなたは救われたんだから、もう十分でしょ」

「救われたと言っても一時的なことだ。死なれたら俺が困る」

「なによ、自分勝手な」

「自分勝手はどっちだ。君は俺に死ぬなと言った。でも君は死のうとしている。一体どういう了見なんだよ」語気を強め、俺は言い放つ。

「仕方ないじゃない。私にはどうしようもないもの」負けじと彼女も言い返す。その瞳には再び大粒の涙が込められていた。

「なにがどうしようもないだ――」俺は怒りに震える。

「君には死以外の選択肢だってあるはずだ」

「無いわよ。死ぬ以外に。私、もう疲れた。学校に来たらロッカーはゴミだらけ。机には落書き、教科書は引き裂かれ、常に孤独。遂にはこの有様よ。あなたはこれを耐えろと言うの?」

 思っていたよりも悲惨な現状に俺は言い淀む。しかし、それでも死を選ぶべきではないのは明白で、それに。

「どうして耐えようとするんだ。逃げたっていいじゃないか。命あっての物種という言葉だってある。そこまでして学校に来る必要なんてない」

 晴天の霹靂だったのか、目を見開き彼女は唖然としている。緊張が解け、次第に彼女の態勢は崩れていった。そして、一気に力が抜けて、ストンッ、と地べたに座り込んでしまった。

「いやっ、でも出席日数足りなかったら進級できないかもしれないし」

「そうだな。まあでも、いいじゃないか。それはそれで。留年するのもありだし、それが嫌なら自主退学して高認を受ければいい」

 徐々に彼女の表情が晴れていくのが見て取れた。

「でも……」潤む瞳で真っ直ぐ見つめてくる彼女。

 その瞳からは先ほどの不安げな眼差しは消え、一縷の望みを帯びていた。

 あと一押しといったところか。

「それは決して生易しい道ではないのは確かだ。でも本当にここで人生を投げ出していいのか? 君をそんな目に合わせた人間に一矢報いたいとは思わないのか?」

 怒気を抑え、あやすような声音で俺は言った。

「それは思うけど、そう簡単にはいかないわ」

「そりゃ、そうさ」ひざまずき、優しく彼女の頭を撫でる。

「一朝一夕に解決する問題だったら、君だってこんなに悩む必要はないだろ。急ぐ必要はない。着実に相手を追い込んで行くんだ」口の端を釣り上げ、微笑みを浮かべる。これで彼女も少しは気が休まるだろう。俺はそう思った。

 しかし、返ってきた言葉は意外に辛辣なもので、一生立ち直れない気がする。

「こわっ」

「なっ」思わず声が漏れた。

 せっかくの思いやりを無下にするとは、ふてえ奴だ。許すまじ。

「心外な。和むだろうが」

 彼女は俺の反論をよそに、ブレザーのポケットを漁る。そして、コンパクトを取り出すと、こちらに向けた。無残に割れた鏡で見にくかったが、合点がいった。

「なるほど。これは凶悪だな」

「でしょ。でも、ありがと」引きつりつつも、笑顔を見せた彼女。

「和んだわ――」

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