第24話 水槽

 

 本館の一面に広がる水槽の前でぼんやりと立つ。

 周りの人たちは結構、足を止めつつもしっかりと前へと進んでいく。

 ひとつの水槽の前でじっと止まったりはしない。


 俺も間宵も、ひとところにとどまることを良しとした。

 分厚いガラスの向こうの深い青の中を、あざやかな魚たちが水の重さを感じさせないくらい軽やかに尾びれを揺らしている。


 水槽に齧り付くように魚たちを眺める間宵を横目に、俺は説明書きの前に移動した。

 じっくりと学名をひたすら目で追ったりする。

 普段スーパーの売り場で見るような魚に仰々しい名前が付いているのを見るのがなんとなく好きだった。

 身近なもののことって結構意外に知らなかったりするんだよな。

 まあ、学名を見たからって三秒で忘れるんだけども。

 流石に意味まではわからないし調べない。

 確か、結構人の名前が含まれているんだっけ。

 学名なんていうきっと本当の名前みたいなものなのに、勝手に関係のない思いを込められて他人の名前を付けられるなんてごめんだと思う。

 俺は一種しか残っていない人類のホモ・サピエンスでよかった。

 魚なら種類が多すぎて違う種を羨んだりしそうだけど、種類がなくって選択の余地もないなら文句をいう余地もない。



「生まれ変わったら何になりたい?」


 そんなことを考えていたのがバレたのか、絶妙なタイミングで間宵が振り向き質問を投げかけてきた。

 心臓に悪いったらないけど今更だ。そういうやつだし慣れっこだった。

 唐突なのも。


「水族館縛りで考えるなら……イルカかな。イルカになりたいっていうか、イルカが何考えてるのか知りたいってのも近いかも。すごい表情豊かな感じに見えただろ」


 なるほどなるほど、と楽しそうに頷く。

 よくわからないが俺の答えはそこそこお気に召したらしい。


「なんだかわからないけど、すごくあなたらしい気がしたわ。イルカになったら全国の水族館を回ってあなたを見つけてあげるわね」

「それ死んでるじゃねーか。勝手に殺すな。長生きするし」


 間宵は反論には取り合わず、くすくすと笑いながら「野生だとお手上げね」と言った。

 分かりやすく瀬戸内海とか東京湾とかを目指すことにしよう。

 来世で覚えていたらだけど。


「間宵は?」


 水族館縛りで、と付け足すと彼女は顎に人差し指を当てて考え出した。

 目線は水槽の中をぐるぐると巡る。


「イソギンチャク」


 短い熟考の末に間宵はそう言った。


「なんでだ?」


 イソギンチャクには悪いけど、一般的に魅力的とはあまり言えないのではないか。

 俺はあの毒々しさがあまり嫌いではなく、むしろ好ましく思うけれど。


「だって、分厚いガラスにぶつかることは絶対にないもの」


 小さな魚がトン、と間宵の眼前でガラスにぶつかり泳ぎを止める。


「ここが水槽の中だなんて、気付きたくはないじゃない」


 間宵の端正な横顔は青い光の中、ひどく冷たい。

 俺は息を飲んだ。


「それって、どういう……」

「あ、見てみて! ほら、クマノミが出てきたわ!」


 間宵が食い気味に大きなイソギンチャクを指差した。

 橙と白の小さな魚がそろそろと顔を覗かせてはふわりと翻る。


「ね、かわいいでしょ。イソギンチャク」

「クマノミじゃないのかよ」

「わかってないわ。クマノミとイソギンチャクのかわいさは相互補完のものなんだから」


 得意げにちょっとうざったい笑顔を浮かべていた。


「なるほど。理解できそうにないけど善処しよう」

「ええ、そうしてちょうだい。そしていつか語り明かしましょう」


 スマホが鳴る。

 茨城からメッセージが入っていた。


 そろそろ合流どきだ。

 大きな水槽に背を向けて、俺たちは並んで歩き出した。




 ◇





 その後は土産物でだらだらと時間を潰し、水族館を後にした。


「いやー、充実した一日だった。明日が学校なんて信じたくはないな」

「サボる? サボっちゃう?」


 耳元で悪魔の囁き。


「やー、明日は小テストあるし。再テスト面倒くせーし」

「……え。そんなのあったっけ」


 泡井が捨て犬のような顔をする。

 テストを気にするようになったんだよなあ最近。


「仕方ないですねー。わからないところがあったら聞いてください」

「さすが頼れる後輩だな」

「ありがとう、こいとせんぱい」

「むぐっ。つるぎさんそれはアリなんですか。アリなんでしょうか?」


 ナシかも。




 間宵そっちのけで会話をしてしまったためだろうか。

 隣で間宵は「てやー」と思いっきり石を蹴ろうとして、足を空ぶらせていた。


「何やってんだよ」

「今のなし!」


 そう言ってもう一度、今度はちゃんと石を蹴る。

 ただ今回はうまくいきすぎた。

 道路を渡り向こう岸の歩道にまで転がっていく。


「あ」

「何やってん、だ……ん?」


 間宵の動きが止まっていた。

 視線は向こう岸へと釘付けに動かない。


 俺は顔を上げる。

 眼鏡はかけてないが、視力がいいわけでもない目で、向こう岸に目を凝らす。


 歩道を歩く女子生徒たちに気付いた。

 それは、間宵と同じ制服の女の子たちだった。

 楽器ケースを背負った彼女たちがこちらを見る。

 日曜日の吹奏楽部……どこか遠くの学校から出場した、コンクール帰りとかだろうか。



 ──あれ、ショーコ?



 その、女子生徒たちから。

 微かにそんな声が聞こえた時にはもう。


 間宵はふっと姿を消していた。

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