第2話 誰か追いかけてくるようです。
ミーナが追い出された聖堂は、直近の街から少し離れたところにあった。周囲に建物はなく、街灯すらない。
一年前、婚約締結後にミーナの両親が事故で亡くなった頃に建設されたものだ。
両親を失った後、公爵家としての務めや領地を管理することが難しいと判断したミーナは、その一式を親戚に預けることにした。
そして、婚約相手のコリン伯爵がミーナのための聖堂を建てるというので、言葉に甘えたのだ。
しかし、聖堂の建立には裏があった。
ミーナは、身分によらず分け隔てなく聖女の力——癒やしや悪魔払い——を行使してきたし、そうするつもりだった。
にもかかわらず、コリン伯爵は一定の金品を伯爵家に納めない者に、聖女の力を行使してはならないと言い放ったのだ。
冷たい雨が少女の体を打つ。
ゴロゴロと雷鳴が響く中、遙か遠くに街の明かりがぼんやりと見えた。その光を目印にミーナは街道を歩いていく。
彼女が身につけている物は、碧い宝石をあしらったペンダントと聖女の衣だけだ。
宝石の値打ちは大変高く、高級宿に一ヶ月は宿泊できる価値がある。
ただ、ミーナは、それを売るという発想がなかった。
コリン伯爵とのやりとりで傷つかなくて良かった、そう安堵していた。
「はあ……はあ……」
慣れない徒歩での移動に息が上がる。街までの距離を体感で知り得ず、そのことが余計に体力を消耗させる。
一人で夜道を歩くこと。それがどんなに危険なのかミーナは分かっているつもりだった。
案の定、歩きながらも妙な視線を感じる。それが野犬や魔物であるなら、かなり厄介だ。
気を抜けばすぐ休もうとする足に活を入れ、ミーナは歩みを早めた。
ひたすら歩いていると、厚い雲の隙間から月が顔をのぞかせている。
相変わらず遠くから雷鳴の音が響いているものの、雨は上がっていた。
遠くに見えた街の灯りも、いつのまにか大きくなっているとミーナは思った。
「ああ……あともう少し……」
気が緩んで、つい安堵の言葉が口から漏れ出た。
ミーナは慌てて、口を押さえる。何者かに、ここに誰かいるとう事実を悟られないように。
しかし、願い叶わず、わずかな衣擦れの音が聞こえた。
振り返ると、フード付きのマントを羽織った者の姿が月の光に照らされているのが見えた。
「誰?」
ミーナの心臓が早鐘を打つ。
「やっと追いつきましたよ? ミーナ様」
声の主は聖堂に勤めていた侍女の一人だった。ミーナより歳上で、二十歳程度。
ショートカットのブロンドの髪がよく似合っている。
名をヴァネッサといった。
しかしミーナは無口な彼女とほとんど話したことがない。
一度だけ、彼女の怪我を治療したことがあったがそれっきり。嫌われているような気がしていて、どちからというと避けてきたのだ。
「は……はあ?」
状況を飲み込めず、実に間抜けな声がミーナの口からこぼれた。慌てて口を塞ぐ。
「あらあら……こんなにずぶ濡れになって……お直しが必要ですね。お着替えもお持ちしました」
侍女ヴァネッサは、着ていたフード付きのマントを脱ぐと、ミーナの背中にかけた。
聖女の衣が濡れて肌にまとわりついていたが、マントは暖かく、ふわっと良いせっけんの香りがする。
「あ……ありがとう、ヴァネッサさん……でも、どうして……?」
「今はそれどころではありません。街まで急ぎましょう。悪しき者が複数、接近しているようですし、ミーナ様も体が冷えきっているようです」
「悪しき者って?」
しかし、その質問の答えをミーナは感じ取ってしまった。
魔物……それも小さいながらも悪魔の波動を放つ者が数体、彼女らの背後から接近しているのを感じた。
「なぜ悪魔が……街道に……?」
「分かりません。とにかく、急ぎましょう」
闇の中での危機的な状況。
しかし、側に誰かがいてくれるという事実は、まるで夜空を照らす月のようにミーナの心を包んでいた。
街に入ったミーナたち。彼女らの耳に最初に飛び込んだのは、住民の絶叫だった。
「な、なんだこいつは……!」
「きゃああ!!」
何者かの襲撃を受けているようで、人々が右往左往していた。
頭に生えるツノに、牙、赤い鱗の肌に、鋭い爪。そして蝙蝠の羽の異形のものが複数、街を徘徊している。
「悪魔……
悪魔払いの儀式を行うと、
もちろん、儀式の際はそれを倒せるだけの人員を準備しておく。万が一倒すのに失敗した時のために、頑丈な建物内で悪魔払いを行うのが取り決めになっている。悪魔が市街に逃げ出さないようにするためだ。
ミーナの目にしているのは、かなり異常な状況だ。
街道といい、不穏な空気がこの一帯を覆っていた。
「ミーナ様、取り急ぎ宿まで急ぎましょう」
「で……でも」
躊躇するミーナの手を、侍女ヴァネッサがひっぱる。その時、力強い男の声が市街に響いた。
「怪我をした者は聖堂へ!」
ここにも聖堂がある。であるなら、私が向かうべきは……。その場の流れにただ従うのは、もううんざりだ。ミーナはそう思った。
「ミーナ様、どちらへ?」
「私は……聖堂に向かい、怪我をした人がいるなら助けたい」
「しかし、この状況では……なにっ!?」
ミーナとヴァネッサの周囲には、いつのまにか数匹の
ヴァネッサは、悪魔の目的に気付く。街道からの追跡といい、明らかにミーナを標的としていることに。
「こいつら……。私が応戦します。ミーナ様は、急いで聖堂へ!」
「いいえ。援護します!」
ミーナは目を開けたまま、精神を集中する。手のひらを悪魔の方向に向け、大きく息を吸った。
「【
カッ。
閃光に悪魔たちがよろめいた。放たれた光があまりに強烈で、真昼のように道沿いの建物を照らす。その光景を見た住人たちは、街中に太陽が生まれたと思い驚き、目が眩んだ。
「こ……この魔法は……私を守り強化している?」
侍女ヴァネッサは驚きつつも、悪魔に生じた隙を見逃さない。すかさず、【
のけぞる悪魔たちが流すどす黒い血で、石畳が染まっていった。
何だ……この力は……。自分の力が数倍になり、温かく守られている……ミーナ様にこんな力が? 侍女ヴァネッサは驚いた。
「さあ、今のうちにここを離れま……しまった!」
悲痛な侍女ヴァネッサの声がミーナの耳に届く。
いつの間にか現れた悪魔が長い爪を振り下ろそうとしていた。
ミーナが避けようにも、体が重く動かない。このままでは……爪は確実に彼女の首元を切り裂くだろう。
侍女ヴァネッサは、ただ呆然と悲鳴を上げるミーナを見つめるしかなかった。
「助けて……!」
刹那、そこに白い大きな馬に乗った男が割り込んできた。
華麗な装飾が施された白い胸当てをしたその男は、やすやすと悪魔の体に剣を突き立てる。
仄かに光る剣に貫かれ、あっという間に最後の絶叫を上げた悪魔は、その姿を霧散させたのだった。
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