第二十一話 鵲

 恋をしていた。


 夏みかんの黄色を薫風くんぷうと錯覚するほど穏やかに、そしてうららかに。そうやって頬は撫でられる。彼の声は心地よかった。


 その絵が好きだった。アヴァンギャルドではない、それでも意味深長な色が私の世界には新しかった。彼の美学が、私の哲学だった。彼は私の名前と同じ、そらの色をよく使った。


 私は昔、言葉を持っていなかった。彼と一緒にいるための言葉。大好きな彼の色を寸分狂わずぴたりと言い定められる言葉を。


 その背中を借りてたくさんの物語を読んだ。探したかったから。彼がどうして、私の大切なのか。説明するための言葉が欲しかった。


 彼は反対側で新しい世界を作っていた。

 そんな日々が続いていた。


 私は彼に手紙を書いた。自覚せざるを得ない彼への好意を伝えたかったからだ。四年生まで習っていた硬筆で、できるだけ綺麗に。


 結局最後まで正解と言える言葉は見つからなかった。どの物語にも載っていなかった。それは私たちの教科書にはならなかった。


 百十一人の王様がいたって、九十万人の実業家がいたって、七百五十万人の酔っ払いがいたって、私の王子さまは一人しかいなかったから。


 これを渡したら彼はどんな顔をするんだろう。わからない。

 そもそも私の一方通行な想いだったら? 彼の方は今みたいな友達でいたいと思っていたら? そもそも、私に彼の大切になるなんて権利がなかったら?


 そんなことを考えてしまって、なかなか渡せなかった。直接会って口で伝えようかと思ったけど、彼と一緒にいる時間はいつもの温もりに負けて心の内で幸せを噛み締めるだけで精一杯だった。


 六月の終わりに彼の十二歳の誕生日があった。彼にとっても私にとっても大切な記念日。プレゼントにはインターネットでたまたま見つけた人気の絵の具の限定セットを用意していた。したためた手紙もその日に一緒に渡そうと考えていた。


 胸の奥がむずむずした。それが恥じらいなのか、恐怖なのか、はたまた全く別の何かなのかはわからなかった。手紙まで渡していいものか。時間が経つにつれて自信がなくなっていった。


 だから渡すかどうかを彼に任せることにした。

 プレゼントした絵の具を彼が使い切ってくれたら、絶対に手紙を渡して気持ちを伝える。そうでもしないと、いつまで経っても言えないと思った。


 絵の具にシリアルナンバーがついていた。それを御呪おまじないにした。





 恋をしていた。


 それはいつでも柔らかなベビーブルーで、昼に残ったコーンポタージュのような温みがある時間だった。僕はそれをさち色と呼んでいた。


 その瞳が好きだった。優しさに溢れた笑顔とバリアリーフを移植したような綺麗な虹彩に、僕はよく見惚みとれていた。あまりにも目を奪われてしまうから、絵を描く時は彼女と背中を合わせた。


 誰かに受け取ってもらわないと、何を作っても作品にはならない。

 小さい頃、部屋で一人絵を描いていた僕に父さんが言った。絵も音楽も言葉も、いつの時代だってその美しさは誰かが受け取らないといけないものだった。


 だから初めて彼女に見せたのだ。年長の夏、黒いパレットにこぼされた星くずの川。


 彼女は僕の絵を受け取ると、ただ黙ってじっと見つめ、「綺麗」と一言呟いてくれた。それだけでも僕はすごく嬉しかった。その言葉が聞きたくて絵を描いた。僕を作者にしてくれたのだ。


 彼女は反対側で夢を見ていた。

 そんな時間を噛み締めた。


 五年が経とうとしていた。日に日に大きくなっていく心臓の鼓動に、僕は初めて好きを知覚した。隣にいる。ただそれだけなのに。


 情けないけど、どうしようもなく好きだった。


 七千人の地理学者がいようが、四十六万と二千五百十一人の点灯人がいようが、三億一千百万人の大物気取りがいようが、蒼い薔薇と寄り添った時間はここにしかなかったから。


 もしこの気持ちを伝えたら、彼女はどんな顔をするだろうか。わからない。

 そもそも僕の一方通行な想いだったら? 彼女の方は今みたいな友達でいたいと思っていたら? そもそも、僕に彼女を幸せにする権利なんてなかったら?


 壊れてしまう方が怖かった。それに僕の持っている色じゃ、彼女にこの気持ちを伝えることができなかった。


 十二歳の誕生日、彼女が絵の具をくれた。見たことない種類の色と画材が詰まった限定品。


 僕はその色でラブレターを描こうと決めた。レターといっても手紙ではない。二人の時間を約束する、誰にも邪魔されない僕らだけの世界を、真っ白なキャンバスにえがくのだ。


 そうやって気持ちを伝えよう。

 繋いだ手の温もりを忘れないように。いつまでも隣で。






 法務省は先ほど、死刑囚一人の死刑を執行したと発表しました。


 今朝死刑が執行されたのは、2017年に発生した東京都下とうきょうとか連続少女誘拐殺人事件の、職業未詳・古部ふるべじょう死刑囚です。古部死刑囚は2017年、武蔵野むさしの市、調布ちょうふ市、昭島市、小平こだいら市で約二週間に渡って当時十歳から十二歳だった少女四人を誘拐し、暴行、うち三人を死亡させたとして、殺人罪に問われ死刑が確定していました。死刑執行は今年に入ってから初めてになります。






 レジ袋を揺らしながら革靴から足を抜いた。綺麗に掃除されたフローリング。今日は制作室の明かりがついていない。リビングにいるのだろうか。部活をちょっとだけ早退してお母さんのところへ行って、いつもより早く帰ってこれた。


 リビングをドアをぐっと押し開ける。ソファに座ってテレビを見ている彼を横目にレジ袋の中身を冷蔵庫にしまおうとキッチンへ体を向けた。


「ただいまっ。今日ね、お刺身がすっごく安かったのっ。えへへ〜買って来ちゃったぁ」


 私の声を吸い取ったのは壁だった。その違和感に私は冷蔵庫に向けていた顔をソファに座っている彼に向けた。彼はただじっと黙ってテレビの方に体を向けている。


「こ、高坂君?」


 お刺身を冷蔵庫にしまって彼の元へ行った。同時にテレビに映されているニュースに全身の筋肉が硬直する。私はゆっくり彼に目を向けた。


 彼は何色でもない瞳で液晶を眺めていた。足の上に組まれた手は、爪の痕が残るほど強くお互いを噛み殺している。


「こうさかくん……」


「え? あぁ、おかえり」


 やっと私に気がついた彼はさっとテレビを消した。それから何事もなかったかのようにいつもの柔らかい笑顔を私にくれる。


「今日は早かったね。部活、なかったの?」


「いや、今日は、早退しただけで……」


「そっか」


 ソファ脇に通学鞄を置いて、立ち上がろうとする彼の隣にさっと腰をおろしてその手を取った。やっぱりくっきりと爪の痕が残っていて、少しだけ血が滲んでいた。


「あぁ、これは何でも」


「手当てしないと。高坂君の手、とっても大事なんだから」


 彼はたくさんの人を幸せにしている。その手で直接包まなくても、遠い誰かの心を温めている。私とは違う。


 私は急いでキャビネットから救急箱を取り出して、絆創膏を彼の両手に優しく貼り付けた。


「ニュース、あおいちゃんの?」


 恐る恐る聞く。


「うん」


 彼は落ち着き払った顔で息を深く吐いた。


「死刑確定から五年で執行。日本じゃダントツで早い方じゃないかな。それでも遺族にとっては長い五年だっただろうけど」


 間違いなく、高坂君にとっても長かっただろう。


「わ、悪いことしたんだから、罰を受けるのは当たり前だよ……」


 私は傷に染みないように彼の手をそっと握った。彼はゆっくり顔を上げて私たちの姿が反射しているだけの生気を失った液晶を遠い目で眺めた。


「父親が酒とギャンブルに溺れて母子共に虐待を受けていた家に生まれた」


「え?」


「小学校、中学校では周りからいじめを受け、中学二年生の時に母親が自殺。父親は遺体の処理を当時十四歳だった被告にさせた。高校へは行かず稼ぎに出て、その収入もほとんど父親が蒸発させて常に超貧困状態。その後暴行事件で父親が逮捕。地域の人からも村八分にされた」


 無機質な一秒が心臓にこたえた。


「小さな女の子が苦しんでいるのを見るのが好きだった。動機はたったそれだけ。それに死刑になれば、誰にも望まれなかった自分の名前を世間に残すことができるし、犯罪者の息子にされた自分が、父親を死刑囚の父親にして復讐できるから。だからできるだけたくさん殺したかった。生まれた意味なんてないから、死ぬときは意味のある死に方をしたい、と」


 それで、葵ちゃんは……。


「花恋さんはさ、この話聞いてどう思う? 犯人に同情する?」


 彼はいつもみたいに声を和らげてこちらに顔を傾けた。その目に優しさは宿っていない。


「し、しないよっ! どんな事情があったとしても、大事な人たちを奪ったことに変わりはないもん。そんなの、自分、勝手だし」


 高坂君はふっと息を解いた。


「花恋さんは優しいね」


「……え?」


「ちゃんと、自分の大切な人を真っ直ぐに想えるから。僕はさ、この話聞いて少しだけ、同情した。自分は恵まれた家庭に生まれたけどさ、みんながみんなそうじゃない。僕にとって当たり前だったものが全然そうじゃないんだって、気付いたんだ」


 彼はもう一度遠くを眺める。


「犯人を許すわけじゃないよ。葵はまだ腕も脚もくっついて帰ってきたからよかった方だし。それくらい、凄惨せいさんな事件だった」


 黄土色の抒情が腹の底から湧き上がってくるのを感じた。目頭が鉄を溶かすほどの熱を持つ。


「犯人からの謝罪や償いなんて一切なく第一審であっさり極刑が確定したから、遺族は何も得られてない。なんでとどうしてだけが残って、あとは何もない」


 気が付けば彼の傷のことなど忘れて、その手を強く握っていた。


「わからなくなった。誰を悪者にして納得すればいいのか。だから自分を悪者にした。葵は奪われたんじゃなくて、僕が守れなかっただけ」


 その声が湿気を持ち始めた。私は顔を上げて彼の源流を探り当てる。


「その方がさ、怖くないし、楽だから……」


うそ


「え?」


 彼の頬に流れるそれを親指でゆっくり吹き払う。


「泣いてるもん……」


 戸惑うようにまぶたを震わせた彼を、衝動的に抱きしめた。





 天竺葵ゼラニウムの花はすっかり冷えていた。乳白色のキャンバスだけが残って、色を失って、それでも忘れたとは言わせない記憶だけが横隔膜にへばりつき、呼吸をするたびに世界の汚れを伝えた。それを噛み殺すには一人が一番だった。


 柔らかい彼女の感触と、弱塩基性の吐息。それが鳩尾みぞおちの奥の方をゆっくり温める。


「私は高坂君の痛みが直接分かるわけじゃないけど、辛い時はそばにいたいっ……」


 心の傷は伝染病ではない。少なくとも、外傷は。


 彼女は少しだけ体を離した。前を外してはだけたブレザーの下に白いワイシャツが見えた。


「ハグは、嫌かな」


 耳元に囁かれる。


「……嫌じゃない」


 彼女の背中に手を回した。羊水の本能がその温もりを欲していた。瞼の裏には黒しかないのを分かっていながら、ゆっくり瞳を閉じる。


「ありがとう。花恋さん」


「ううん」


 彼女の声の振動が肋骨を伝って内臓の奥底の方まで届いた。頬は乾かなかった。

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