第十六話 唇

「お兄ちゃんお兄ちゃん」


 生物の課題を机に広げていると、部屋の扉がゆっくり開いて美咲が侵入してきた。


「どうしたの?」


「お姉ちゃんは今日もお兄ちゃんの部屋で寝るんだよねっ?」


「そうするって言ってたよ」


「ほぉ……」


 彼女は親指と人差し指でチェックマークを作って顎に添え、遠くの地平線を眺めるように目を細めた。


「何?」


「いや、今日お姉ちゃんお風呂長かったから。それだけ言っておくね」


「はい?」


 美咲は本当にそれだけ言い落としてパタンと扉を閉めた。彼女が何を言いたかったのはなんとなくわかるけど、別に花恋さんは普段からお風呂は長い。僕はプリントの上の細胞壁をなぞりながら、時計の催促を背中に感じた。


 美咲が出ていってからしばらくして僕の部屋着に着替えた花恋さんがドアを開いた。いつもの部屋着はスタジオに置いてきている。病院の帰りに取ってくればよかったのに、あれこれしているうちに忘れてしまったようだ。


「た、ただいまっ」


 彼女はなんだか緊張した面持ちで胸元をきゅっと握った。美咲の一言が無意識にフィルターを貼ったのか、いつもの彼女のお風呂上がりとは色が違って見える。


「おかえり」


 僕はプリントを裏返してノートに挟んだ。立ち上がって時計を見ながら前に敷布団をこしらえていた押し入れを開けた。


「花恋さん、もう寝る? だったら僕も布団出しちゃうけど」


 人工の恒星が部屋にはぶら下がっている。


「あ、え、いや……」


 ベッドに腰を下ろして言葉を詰まらせる彼女に目をやった。


「どうしたの?」


 ぴくりと跳ねながら徐々に頬を赤らめる彼女にどこか見覚えがあった。ここまではっきり仕草に出ることはなかったけど、彼女はいつも寝る前必ず僕を探しに来て、一言「おやすみっ」と声をかけるのだ。お風呂上がりの血色と、抱かれていた黒猫。


 黒猫が、いないのか。


「……たい」


「ん?」


「い、一緒に、寝たい……」


 細い声。


「え、一緒って、ベッドに?」


 花恋さんはシーツに皺を寄せた。恐る恐る瞳の撫子をこちらに向ける。


「一人じゃ、寂しい?」


「うん。ちょっと」


 そういう彼女の肩はすごく小さい。


 まだ幼稚園に通っていた頃の美咲を思い出した。眠れない夜を迎えた彼女の枕元に腰を下ろして、柔い橙色の灯りのふもとで、掛け布団の上から一秒とその半分に一回腰を叩いてあげるのだ。それが僕がお兄ちゃんと呼ばれる理由だった。


 眠れない夜も寂しい夜も、数えればいくらでもある。何かを失えばその夜の黒は一層深くなった。時間が経てば、またあおい空が来るのが信じられなかった。


「今は、高坂君に、隣にいて欲しい……」


「わかった」


 灯りを暗くして彼女の隣に腰を下ろす。大きくなった時計の秒針音とけい動脈の周波数が平行になるのを感じた。


「こうさかくん」


 メニスカス分の濃度の囁きと、少し遅れて首筋に何か柔らかいものが張り付く。鼻の奥に彼女の色香いろかが染み付くと、ちゅ、という音を立ててそれは離れた。


「……え?」


 薄暗い中に照明の橙を受け継いだ彼女の顔が見えた。恥ずかしそうにキュッと瞼を閉じる。


「お、おやすみのちゅー……、高坂君も、してっ?」


「えっ、ちゅ、ちゅう?」


「どこでも、いいよっ」


 どこでもいいって言ったってキスはキスでしょ? 


 彼女は僕の袖口を摘んで上目遣いに僕を見上げた。僕を逃さないようにじっと。離さないようにじっと。


 僕は迷った挙句、袖口を握っている彼女の手をさっと持ち上げてその甲に軽く口づけをした。


 おやすみ。

 そう呟いて、その手を包む。


 掠めるような一瞬だったけど、彼女はくっと喉を閉めて目を泳がせた。


「は、恥ずかしいっ」


「花恋さんが始めたんじゃん」


「そ、そうだけどぉ……!」


 笑みが鼻を抜ける。彼女の可愛らしさは自然と広角を持ち上げるのだ。


「えへへ。おやすみ、高坂君」


「うん」


 薄い毛布一枚になった掛け布団を広げて枕に頭を置く。彼女は少しだけへたくそにその中へ入ると、浮きに食いつくように僕の手を取った。湯船から引き継いだ温もりが金星丘きんせいきゅうに透かされる。


「ねぇ、ぎゅー、してもいい?」


 彼女の息がそう言った。僕の担当が抱き枕だったことを思い出す。


「いいよ。おいで」


「えへへ」


 嬉しそうに僕の胸に顔をうずめる花恋さん。僕は掛け布団の上から彼女の頭の後ろに手を当てて彼女の体を包んだ。ふと、優しさだけは毒だと言った美咲のため息が耳の奥をくすぐる。


「……いいにおい」


 突拍子もないことを呟く。口が勝手に。それと同時に彼女が僕を抱きしめる強さが増した。熱は隠すのにも求めるのにも最適だった。気が付けば結果的には誰かさんの期待に応えている。別に彼女が明日笑えるならそれも悪くはないけれど。


「ごめんね、わがまま聞いてもらっちゃって」


 顔を埋めたまま、彼女は言った。


「ううん」


「一回だけにするからっ。今日、だけにするから」


 一回。何かその制限になにか理由があるのかわからないけれど。


「……うん。わかった」





 温かい。


 お母さんのお腹の中にいた時のような、得体の知れない安心感があった。もちろんそんなこと覚えてはいないけど。


 包んでくれる手のひらがひたすらに優しかった。


 心臓の動きが速くなったり遅くなったり。忙しく私を惑わす。


 ママ。私、一回だけ甘えちゃってもいいよね。彼は私のこと、家族って言ってくれたんだ。ママと一緒。檸檬さんとも一緒。


 まだ、一人じゃ大人になれないかもしれない。早く、早くしなきゃいけないのに。


 にじんだ街頭。かすむ白線。



 家族。家族かぁ。



 嬉しかったよ。それはもうめちゃくちゃ。家族がいるなんて特別すごいことじゃないけど、私にとってはすごく大きな心の港だから。


 でも、首筋に唇を押し付けた時の心拍数は、やっぱり。


 ……ううん。いいんだよ。


 私は、充分だから。家族でも、充分だから。大切にしてもらえているし。


 彼の心より前に、私のを立てるなんてできない。先駆けるのは、勇気なんてえらいものじゃないから。



 高坂君の苦しそうな息が聞こえてきた。押し付けていた顔をゆっくり離して、彼の顔を見る。


 彼は眠っていた。額には少し汗が滲んでいる。


「こ、こうさかくん? だ、大丈夫?」


 はぁ、はぁ、はぁ。


 苦しそうに眉間に皺を寄せて、彼はそらの名前を呼ぶ。


「あおいっ……」


 肋骨の芯を冷たいものが通った。


 彼が眠っているところを見るのは、そういえば初めてだった。どんな夢を見るのかとか、左を向いて寝るのかとか、そういうことは何も知らなかった。


 寄り添ってくれる彼にも、むしばみがある。


 彼が口づけをしてくれた手の甲が、ちくちくした。

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