第十五話 期待
「大丈夫か画伯」
「うん」
気を失っている間に応急処置をしてくれたのか、目覚めたら医務室の天井があった。別に平気だったけど、生田くんは家まで送ると言って聞かなかった。立川の方に行くと花恋さんがいるのがバレてしまうから、僕は昭島の実家の住所を教えたのだ。
花恋さんへは後で連絡しよう。なかなか心配性の彼女だったら実家まで戻って来てしまうだろうか。
「お、ここか」
生田くんは僕の家の表札を見てインターホンを鳴らした。
「もう大丈夫だよ。一人でも」
「ばか。責任持って俺が説明するわ。お前のその頭で親が心配しないわけないだろ」
彼は僕の包帯だらけの頭を指差して目頭をぐっと
「はーい」
「え?」
聞こえて来た甘い声は母さんの声でも美咲の声でもなかった。となると候補はもう一人しかいないが、彼女はここにいるはずが……。
「こ、高坂君っ!?」
機械を通して少しだけ荒くなった彼女の声はその向こう側で弾ける。インターホンは通話を終了したのかカチッという音を立てた。
「え、お前家族から高坂君って呼ばれてんの? なんか複雑なあれ?」
生田くんは神妙な面持ちで僕の肩に手を当てる。
「え、えっと」
がちゃり。
説明する余地もなく玄関から絹舞家の花が飛び出して来た。あっという間に僕のところへやって来て一気に抱きつく。
「だ、大丈夫!? ど、どうしたのっ、この頭」
「か、花恋さん……」
「え?」
吐息を感じるほどの距離まで迫って僕を見つめていた彼女は、隣にいる背の高いイケメンに気が付いた。
「っ! い、生田君っ。ど、どうして……」
彼はあんぐりと口を開けて呆然と立ち尽くしていた。花恋さんの声に反応して二、三瞬きをすると、口元に手を持っていって何やら考え出す。その目玉の矛先は僕であったり彼女であったり、あるいは光の屈折を示唆する橙色のパレットであったりした。
しばらく無言を貫き、指をパチンと一つ。
「結婚してる?」
「してないよ」
「じゃあどういうことだよっ。え、だってだって付き合ってないんだべ? で、これ何? 同棲? しかも画伯の実家で?
彼はひたすら困惑の表情をこねる。
「いや、実は双子? いやいや今年知り合った感じだったしな」
「ちょっと訳あってうちに居候してるの。普通に実家だから僕の家族もいるし。絶対、誰にも言わないでよ」
とりあえずここに住んでることにしよう。本当に二人暮らしってなったら彼の思考ロックが進みそうだ。
「ほーお? まあ俺は他人のプライベートは漏洩しない主義だからあれだけども」
「助かるね」
パニック気味にもじもじ指を絡めて遊ばせる花恋さんを柔く眺めた。それから口元を隠すように俯く生田くんの方へ視線を移す。
「まあ、少しの間うちに居候してるだけだし、特に生田くんが期待しているようなことは起きないよ」
「え? 俺の期待してること?」
「とぼけないで。にやけてるじゃん。その、変な噂とかさ」
「あー立てねぇ、立てねぇよ。恋人とか家族とかの問題で変な噂立つの嫌だろ。誰にも言わないから安心しろ」
「絶対だよ? 僕は何言われてもいいけど、花恋さんが傷つく原因作ったら許さないからね」
「完全に彼氏のセリフじゃねーかよ」
生田くんは口角を上げて白く笑った。それからいきなり真剣な表情に切り替えて、僕の肩に、とん、と手を置く。
「秘密は守る。これはマジだから。俺もね、人が傷つくの大っ嫌いなんだ。高校生のノリでさ、取り返しのつかないことなりたくねぇもんな。絹舞ちゃんも安心して。どんな事情があるのかはわからないけど、二人の平和は約束する」
「破ったら?」
彼の真摯な声に画鋲を刺した。
「誓約には罰を設けないと、か? んーそうだな。俺の秘密を言いふらしてもいい」
「秘密?」
「あぁ。教える日は来ないと思うけどな」
「なるほど」
「あ、あのっ」
花恋さんが口を開いた。結んだ指が震えるのを必死に抑え込んでいる。
「ほ、本当に、誰にも言わないでいてくれるっ……?」
なぜだか泣きそうになっている彼女に、僕も生田くんも一瞬戸惑った。僕よりも先に生田くんはふっと息を解いて微笑む。
「俺は約束破んない男だよ。じゃあ、あとは夫婦水入らずで。俺、帰るね。あ、画伯の頭のこと、やっぱ説明した方がいいか」
「あ、あぁううん大丈夫だよ。ありがとう送ってくれて」
「そっか。じゃあな」
生田くんは僕らに手を振ると
僕は花恋さんを振り返った。
「大丈夫? ごめん。まさか
彼女は涙を拭きながら懸命に首を横に振った。
「居候してるの、そんなに知られたくなかった?」
「いや、だって……変な噂とか、立てられちゃうと思ったから」
彼女は僕の言葉をペーストして、僕の制服の袖ボタンを小さく摘んだ。
色々、誤解されることもあったみたいだから。
刹那に檸檬さんの言葉が脳裏をよぎった。彼女にとって秘密を知られることはトラウマなのだと思う。
思い返してみれば、僕は彼女の昔の話を全く知らなかった。時として現れる彼女の涙の裏側は、
だからこそ彼女の笑顔に安心する自分がいた。逆に言えば彼女の笑顔は僕にとってそれだけなのかも知れない。少なくとも僕の中にはそんな認識があるのかも知れない。朝の天気予報に傘マークがついていなかったから、今日は傘を持っていかなくていい。その程度のランドマークであって、ロゼッタストーンではなかった。
生田くんには見破ることのできた彼女の笑顔の裏が、彼の言う通り本当に僕への好意なんだとしたら、彼女は今ここで
「そう言えば、高坂君っ、その頭大丈夫なの?」
彼女は僕の頭の包帯と眼とを交互に見つめた。
「あぁ、バスケしてたら壁に激突しちゃったんだよね」
「げ、げきとつっ!?」
「うん。生田くんの足に引っかかっちゃって、ドーンて。気づいたら医務室だった。でも、心配いらないって」
安心したように花恋さんは息を深く吐いた。空っぽになった身体の底から弾ませるような笑いを浮かべた。
「よかったぁ。もう、ドジしないでよぉ。私の周りの人みんな怪我するから呪われてるのかと思ったじゃん」
「ごめんごめんっ。今日はこれから立川帰るの?」
「どうしようかな。これからお母さんのところ行くから、高坂君に合わせるよっ」
僕は灯りのついたリビングの窓を眺めた。
「今日は、こっちにいようかな」
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