第八話 銀枸櫞
花恋さんはふと雑貨屋さんの前に足を止めた。ブレザーからはみ出た白いセーターをつまみながら店の棚をじっと見つめている。
僕は彼女の所へ戻って、その棚に目をやった。
「どうしたの?」
「え、あ、いや……」
棚に置いてあったのは可愛らしい黒猫の抱き枕だった。ちょうど僕の上半身くらいの全長で可愛らしい笑顔をこちらに投げかけている。
「猫好きなの?」
そういえば彼女の携帯ケースも猫だった。
「うん。これね、お父さんが小さい頃買ってくれたの。ずっと一緒に寝てたんだけど、もう……」
彼女は黒猫をお腹に抱きかかえてその頭を撫でる。その横顔に彼女の失ったものの大きさを見た。平気そうにしてるけど、彼女の家族やその象徴は思ったよりもごっそり無くなってしまっている。
「そ、そっか」
「可愛いよね、これ。にゃぁぁ……」
彼女は風船を手のひらで空へ押し上げるように柔らかく笑った。僕は両手いっぱいの紙袋をその場に置いて、猫の短い前足をフリフリして遊ぶ花恋さんに手を伸ばす。
「ちょっと貸して」
「え? うん。はいどうぞ」
僕は彼女から猫を受け取るとそれを真っすぐレジカウンターに持って行った。
「え? え、え、何やってるのっ」
花恋さんは慌てて紙袋を抱えてとてとて追っかけてくる。
「何って、買うんだよ」
「ど、どうして?」
「今夜花恋さんが抱っこして寝れるように」
彼女は大きく目を見開いて首をぶんぶん横に振った。
「い、いいよっ。わざわざ買わなくてもっ」
「気にしないで。僕からのプレゼントってことで良いから」
レジへ向かおうとする僕の腕を彼女はがっちり摑んで引き留める。
「よ、よくないよっ。申し訳ないし」
僕は黒猫の顔を彼女に向けた。花恋さんは笑うにゃんこの顔をじっと見つめて唇を震わせる。
喉の奥を結んで声の高さのしぼりを捻った。
「欲しく、ないの?」
彼女は胸の前で指を組んで、小さく首を横に動かす。
「抱きしめて、くれないの?」
「うぅ、かわいいよぉ……!」
我慢しきれずに獲物はにゃんこに抱きついた。
「じゃあ買うね」
僕は湊に戻ってにゃんこを彼女から取り上げる。彼女は、あっ、と口を開いて僕の袖をつまんで引き留めた。
「本当に、いいの?」
「うん。別に抱き枕くらいあっても邪魔とかにはならないし。花恋さんが安心して寝れた方がいいから。だからこれは、檸檬さんに報告しなくてもいいよ」
「ご、ごめん。私のために……」
「そもそも今日は花恋さんのために来たんだから」
僕は申し訳なさそうに唇を噛む彼女に背を向けてにゃんこを会計に通した。
「
「檸檬さん。連れてきたよっ」
彼女はベッドを覗き込みながらそう言って、病室の椅子の脇に紙袋の束を下ろした。
「失礼します……」
僕は恐る恐る病室の中へ足を踏み入れた。
「あ、君が高坂君!? うわーっ、えっ、生で見るとイケメンだねぇ!」
「は、初めまして」
檸檬さんの姿を見るのは実は二回目だった。初めては一昨日の閣議決定の際の画面通話だ。驚くほど想像とはかけ離れていた容姿に思わず度肝を抜かれた。
花恋さんとの血縁関係が浮かばないほど少年的に整った顔に短い黒髪。首に下げられた
男子大学生でも通用する若々しさである。
「こちらこそ初めまして。いやほんとにね、君には一生分の感謝をあげたいよ。花恋ちゃんのこと、本当にありがとう」
「いえ、当たり前のことしただけですよ僕は。それよりお怪我の方は大丈夫なんですか?」
僕は花恋さんがベッドに寄せてくれた椅子に腰を下ろす。
「まあ完全に
「檸檬さん
花恋さんはスカートの上で手を組みながら呟いた。
「まあ流石に、敵わないものもあるよ。生きてるだけでも奇跡だからね。レスキューの人たちにも感謝しないと」
「檸檬さんまでいなくなったら私……」
「あらら、隣に素敵なお
「なっ、何言ってんのばかっ!」
花恋さんは顔を真っ赤にしてぶんぶん腕を振った。
「はははっ。冗談だよ、冗談。ったく可愛いんだから」
「も、もうっ! の、飲み物買ってくるっ」
花恋さんはすっと椅子から立ち上がって、ハーフアップの髪の毛を揺らしながら病室を出て行った。
「今日はありがとうね。わざわざ寄ってくれて」
「いえ、ちょうど必要なものの買い出しもしてたので」
僕は花恋さんの椅子の脇に置いてある紙袋に目をやった。中には日用品と下着や服、それからにゃんこが入っている。
「檸檬さんって意外と中性的な方なんですね」
「ん? 美人じゃなくてがっかりした?」
「いや、そういうわけではなくて」
檸檬さんはふうっと息を吐く。
「
僕は磨かれた床に焦点を投げた。
「素敵だと思いますよ。少なくとも、花恋さんにとっては必要な存在だと思いますし」
「なんかあったのかい?」
「泣いてるんです、花恋さん。毎晩、布団の中で」
檸檬さんは瞳の黒を
彼女と共に越した夜はまだ数えても中指までしか折ることができない。でもその全てで彼女は何かを
「そっか。そりゃ、無理、させちゃってるもんね」
「きっと、今まで当たり前にあった存在が遠くなったこともあるんだと思うんですけど。だから花恋さんが僕と二人で暮らしたいというのも、少し違和感があるように感じるんです」
人にはきっと心の
彼女の両親。檸檬さん。安達さん。それを差し置いて、僕になんの価値があったのだろう。
僕はただ、彼女を助けただけに過ぎないのに。
「そういえば」
「ん?」
「あの、あんまり大きい声では言えないことなんですけど、花恋さんって、月経困難症の
「えっ」
「いや、低用量ピルを服用しているようだったので、もしかしたらそうなのかなと。一緒に過ごす上で、それは知っておかなきゃいけないし」
見られないように丁寧にピルケースに入っていたあの薬。
「ふふ……」
檸檬さんはギプスに笑みをこぼした。
「
「いいや。そんなところまで見抜けるんだって思って。そら花恋ちゃんも一緒に暮らしたいって言うよね。うん、そうだよ。当たり。元々は生理痛が酷かったみたいでね、内膜症のリスクも考えて中学生から飲んでるみたい。今でも眠気だけはどうも克服できないみたいだけど。まあわかりやすく甘えんぼになるから、前兆は高坂君でも察せれると思うよ」
「そうなんですね」
「そっかぁ。高坂君は理解ある男の子だったんだね。そりゃラッキーだ」
「やっぱり、なんかあったんですか?」
「んー。まあ、中学校じゃあの薬、避妊薬って習うでしょ? 色々、誤解されることもあったみたいだから。ボクもそういうことについては明るくないし、それは苺姉さんじゃないと包んであげられないからさ」
檸檬さんは僕に苦い笑顔を向けた。
「高坂君は優しいんだね。花恋ちゃんにとっちゃ、たった一人の大切な男の子だ」
「……そんなの、僕には相応しくないですよ」
「そんな立派な銀金具を引っ提げて何を言う。あの子はいい意味で高嶺の花じゃないし、その気ならボクも二人のこと応援するよ? 結婚式なら手配してあげるさ」
いや、高嶺の花ではあるはずだけど。
「僕は幸せになるべき人が幸せであればそれでいいんです。後は別に何も求めてなくて」
「それじゃあ、君の幸せも望まれるべきものなんじゃない?」
檸檬さんはしばらく僕の顔を見つめてから、枕に頭を預けて天井を眺めた。
「……君も、何か抱えているものがあるんだね」
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