彼女
彼女は優しく強い
僕がどんなに落ち込んでも彼女は忽ちに僕を立ち直らせてくれる魔法を知っていて。
彼女が疲れたときにはそっと僕の側にやってきて「今日は甘えてもいいかな……?」だなんて耳元で囁いて。
強さと弱さを兼ね備えた僕には勿体無いくらいの、女の子。
それが彼女だった。
事故だったらしい。信号無視のトラックが一台。彼女の乗る車に突っ込んで、そうして、彼女はこの世を去った。
怖かっただろう。辛かっただろう。悔しくて、痛くて、それで……。
たった一人の身勝手で彼女の意識は永遠に奪われてしまった。
昨日の朝に、いってらっしゃいのキスをした筈の彼女にもう会えないだなんて理解が追いつかなくて。もうこの世界の何処にも彼女が居ないだなんて、信じられなかった。信じたくなかった。
通夜を終え、そうして骨だけになった彼女と対面してもまだその実感は湧かなくて。
よくある話で、だけれども、まさか自分の身の回りに起こるだなんて想像もしていなくて。その悲劇の中心に自分が立つことになるだなんて、考えたこともなかった。
直接見ることさえ憚られる程に傷付けられた彼女の抜け殻が脳裏にチラつき、それを優しさだ、とさえ思う自分に吐き気がしたのだ。
行くあてもなく、しかし、だからといってこのまま、独りきりの家に帰りたくもなかった僕は誘い込まれるようにして電車に乗り込んだ。
席について一息。電車に揺られ、都内を懸け巡る。そうするとよく観察せずとも車内の人間は皆一様に何かしらの疲れを浮かべていることに気付く。時間帯がそうさせるのか、はたまたこの降り注ぐ雨がそうさせるのか。
理由は人それぞれにしろ、夕立が彼らの疲れをより一層濃いものへと変えているようだった。
そして、僕もその一人に違いなくて。
――もうあの家は売りに出してしまおう。
これから帰ることになる場所を思い、その度、自分の中にある空白を埋めようと苦しくなるくらいならば、いっそ、その方がいいとさえ感じた。
十数年分のローンが今は虚しく、残るだけ。そんな家に価値なんてもうないのだ。
ふと、彼女がここに居たならと僕の頭が勝手に考え始める。
その幻を追うな、追うなと内心で呟く度にその虚構は現実味を帯びていく。
隣に彼女が座って、あの、お得意のユーモア溢れる笑みを僕に向けて。
『皆、こういう時こそ笑わなくちゃね』
そうだね、すみれ。君ならきっとそう言うよね。
――でも、まだ僕はそんなに強くなれないよ。隣に君がいてくれなきゃ、僕は……。
幻影は現れるだけ、現れて僕の心を深く抉り、爪痕だけを残して消えてゆく。
不思議と涙は出なかった。昔読んだ、小説にこんな一節があったのを思い出す。
曰く、《涙というのは悲しんで、怒って、苦しんで、そうした末にどうしょうもなくなって出るものなんだ》
だとしたなら一体、僕はあと何をやり残したと言うのか。
電車が停まり、人で出来た暗幕が引かれていく。そして、次なる人たちを乗せて、電車はまた動き始める。
僕の目が彼女を捉えたのはそのほんの一瞬。その間隙。
幻は未だ留まるところを知らず、そして、それを知りながら追い続ける僕の愚かさを他ならない僕自身に思い知らせる。
髪型も服装も化粧の仕方まで、彼女を彩るどれもこれもに特別似た所がある訳じゃなくて。なんとなく雰囲気が似ていた。たったそれだけ。
人が注意を向ける理由に自分にとって大切な何かを絡める必要はないのかもしれない。けれども、そう、なんとなく彼女はすみれに似ている気がして、そんな彼女の顔に色濃く差す、憂鬱がふとすれば、昨日の朝に見たばかりの愛しい顔に重なるのだ。
しかし、だからといって僕にできる事なんか何もない。電車でたまたま、乗り合わせただけの赤の他人に喋りかける勇気も気力も今の僕にはない。
時折、波間から見える彼女を見ている自分が、まるで彼女をすみれに重ねようとしているように思えた僕は気晴らしに、対岸の窓の外に広がった暗闇を見ることにした。
そうしているとふと、小さな頃に地下鉄が嫌いだったことを思い出す。
今みたいにスマホだったり、携帯ゲーム機を持っていなかった時分の話だ。お喋りを制限された電車の中ですることと言えば、ただひたすら窓の外を眺めることくらい。
だから、そんな唯一の楽しみを減らしてしまう地下鉄が僕はあまり好きではなかったのだ。
でも、と記憶の中の彼女が言う。
『風景に注目しない分、電車の中にいる人へ注意を払えるでしょ?』と。
底抜けにポジティブな、その考え方を僕は些か賛同しかねるとして、話半分に聞いていたけれど、いざ、何もする気力が無いときにやってみるとなるほど、小さな何かを見つけた気分になれる。
《間もなく南千住です。足元にご注意下さい。出口は左側です。》
そんな僕の下らない感慨を他所に電車は定刻通りに駅へ着く。
人が電車から吐き出されていき、その中に例の女性がいるのを見かけて、なんとなく頑張って欲しいだなんて、内心で空っぽのエールをその背に投げる。
そして、彼女の座っていた対面の席に視線を戻したときだった。
色とりどりのビオラを咲かせた傘が立てかけてあるのが目に止まる。
たった数瞬、息が止まり、僕はこれを届けなくてはならないという使命感に突き動かされるまま、人を掻き分け、傘を引っ掴み、また人を掻き分けて、電車から飛び出す。
幸い、彼女は急ぎではなかったのか。電車から飛び出した僕の位置からでも十分に見える範囲に彼女の背を見つける事ができた。
「あの、すいません……!」
声を掛ける。これで止まってくれないなら仕方がない。
ここまで来て、そんな消極的な自分の本音に軽く苦笑したくなるのを堪える。
そんな僕の一抹の不安を打ち消すように、僕の呼びかけに対して、躊躇いがちに自身を指差す彼女。消え入りそうな「私ですか……?」という声に頷きを返し、僕は手に持っていた傘を差し出す。
そこまでして、彼女も漸く合点がいったらしい。
「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をして、恥ずかしそうに「ぼんやりしていて……」と零す。
「いえいえ。僕も今日は色々と電車の中で考え事しちゃって。だから、なんとなくぼんやりしちゃう気持ち、分かりますよ」
そう、僕もぼんやりしていたかった一人だから分かるのだ。
「それから、これはただのお節介なんですけどね」
そんな前置きをするのは僕と彼女の間に傘を渡し、渡された以上の関係性が無いから。
それに彼女の助けになりたいとか、ましてや助けられなかった愛しいあの人の代わりになんて、そんな烏滸がましさからのものじゃない。
ただこれは――
「そういう時こそ、笑顔で。そしたら幸せは向こうからやってくるものだよ、です!」
――大切な人から貰ったものを僕も誰かに返したくなっただけ。
彼女が僕の道化じみた仕草に思わずといった体で吹き出す。
彼女を深く知らずとも、そのパっと花の咲くような笑みが彼女にはよく似合っているように思った。
「笑って頂けて良かったです。じゃあ、僕はこれで!」
ビオラの花があしらわれた傘を手に微笑む彼女を後に残し、僕は少しだけ、軽くなった足取りで帰路につく。
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