第10話 野良じゃない

 夜、八時くらい。

 ちょうど夕飯を食べ終わって「ごちそうさま」と手を合わせた時、玄関先で物音がした。


 その正体が何なのかは、すぐにわかる。



(ヒロト!! 今日は帰ってくるの早い!!)



 走って玄関へ向かえば、そこには案の定ヒロトがいて。


 靴を脱ぎながら、



「ただいま、ちょび」



 そう言って、彼はいつものように優しく微笑む。



(なんだか、懐かしい)



 ずっと昔にもこうして、帰ってきたヒロトを出迎えたことがあるような気がする。



(あっ!)



 ふと、お昼に見たドラマを思い出し、



「お、かえり、なさい、あなたっ!」



 ご飯にする?お風呂にする?

 それとも……わ・た・し?


 セリフの意味はあまりわからなかったけれど、頑張って言ってみた。


 出迎える時にはお決まりのセリフだって、テレビで言っていたから。



「…………」



 けれど、ヒロトはぽかんと口を開けたまま言葉を失っていて、なぜだろうかと首を傾げる。


 少ししてから、



「……ちょび……どこで覚えたの? そんなセリフ」



 とても悩ましげに、片手で眉間を揉みつつ呟くヒロト。



「?」



 テレビだよと答えれば、



「余計なことを覚えるんじゃありません」



 彼はそう言って私の肩を両手で掴みくるりと向きを変えると、ぐいぐい背中を押してリビングまでつれて行くのだった。




 ***




「ごちそうさまでした」



 箸を置き、手を合わせるヒロト。


 彼がご飯を食べている間に私はお風呂に入って、ぽかぽかした体にスウェットをかぶせテレビを見ていた。


 今見ているのは“げつく”ドラマ。

 月曜の九時に放送してるから、“げつく”って言うらしい。



「好きなんだよ! お前のことが!」



 テレビの中では男の人が女の人を抱きしめて、感動的な『愛の告白』をしている最中……だったのに、画面が暗転すると場所が変わり、急に暗い室内を映し始めた。



「……?」



 ベッドの上で、さっきの二人が裸になっている。



(……? どういうことだろう? なにしてるのかな? )



 どうなっているのか状況がわからなくて、食い入るように画面を見つめれば、



「んん……っ! ゴホンッ!」

(うるさい……)



 ヒロトはなぜかわざとらしい咳払いをして、チャンネルを変えてしまった。



「あっ!」



 なんで変えるの!?見てたのに!!


 ソファーに座っているヒロトの足元に座り、抗議の眼差しを向ける。

 すると、彼は赤くなった顔をふいとそらした。



「ひろ、とっ!」



 さっきのなあに?ドラマ見せて!


 ひしと足に抱きつけば、



「だーめ!」



 ヒロトはそう言って、私の額を指でぴんと弾く。



「……」



 納得のいかない私。

 ドラマを見せてくれない意地悪なヒロト。


 それじゃあ……と、彼の顔をまっすぐに見上げる。



「……すき、って……な、に?」



 好きにも色々な種類があるのだと私は知った。


 ライクと、ラブ。


 ライクは「お魚が好き」とかのことを言うらしい。

 でも、ラブの『好き』がまだよくわからない。


 ドラマではよく耳にするけれど、「愛してる」ってどういう意味?



「……」



 ヒロトはテレビのリモコンをわきに置いて、じっとこちらを見てくる。


 交わる目線。

 それから、大きな手が頬に優しく触れてきて、じわりと伝わる熱が少しずつ全身へ広がる。



(……あ、これ、)



 ヒロトのこれは、キスをする合図。



「……」

「……っ、」



 ちゅっと、小さな音を立てて唇が触れた。


 今度は両手で私の頬を包み、ぐいと顔を持ち上げる。



「……好きっていうのはね、ちょび」



 息がかかるほど顔が近くて、唇が再び重なると、隙間から熱が入り込んできた。



(……っ、これ、)



 前に一度だけされた、へんになるキス。


 頭がぼーっとして、顔もあつくて、心臓は壊れたみたいに大きく脈打って。

 恥ずかしいけど……嬉しくなるキス。



(どうしてなの? ヒロト)



 理由を聞きたいのに。

 一回唇が離れてもまたすぐに塞いでくるから、息継ぎをするので精一杯。


 視界がくらくらしそうになった頃、やっとヒロトは口を離した。



「……『好き』っていうのはね、ちょび……こういうことだよ」

(こういうこと、って……? キスをすること……?)



 ヒロトの長い指が私の前髪をそっとかき分け、額に口づけを落としてくる。



「俺は……」



 ためらうように一度言葉を飲み込んだけれど、少しの間を置いてヒロトは再び口を開いた。



「俺は……ちょびのことが、好きだよ」

「!!」



 好き……?ヒロトが、私を?

 好きだと、キスをするの?



「これからも……ずっと、側にいてほしい」



 私も、ヒロトとずっと一緒にいたいよ。



「なんだか……前にも、ちょびと会ったことあるような気がする。不思議だよな」

(私もだよ、ヒロト)

「……ちょび、好きだよ」



 側にいてほしいって思うことが、好きっていう気持ちなの?


 それじゃあ、



「ひろとっ、」

「ん?」

「わたし、もっ」



 私も、ヒロトのことを好きになっていい?

 ずっと、側にいてもいい?


 そう聞くと、ヒロトは頬を朱に染めて小さく笑った。



「なに言ってるの。いいに決まってる……当たり前でしょ」



 愛しそうに目を細め、片手で私の髪をすくヒロト。



(本当に? 好きになってもいいの?)



 嬉しくて嬉しくて、思わず立ち上がりヒロトに抱きついた。


 彼は一瞬驚いたような声を出したけれど、すぐに私の背中へ腕を回し抱きしめ返す。



「ひろと、」



 好き、好き。

 私ね、ヒロトが好き。


 ぽんぽんと背中を優しく叩き、彼は囁くように言葉をこぼした。



「よしよし……ちょびはもう、野良じゃないよ」

「――っ!?」



 ――……とてつもない、既視感。……ううん、違う。



(……前にも、同じことを言われた)



 どくりと、心臓がひときわ大きく脈打った。



(何か、)



 何かを、思い出しそう。

 とても大切な『何か』を、忘れている。



(私は、)




 ***




「――はもう、野良じゃないよ」



 これは、



「――、綺麗な毛並みだね」



 この記憶は、



「ごめん……ごめんな、ちょび。ごめん……」

(あやまらないで?)



 お願い、泣かないで?


 きっと、すぐに会いに行くから。

 そうしたら、今度はずっとあなたの側にいるから。


 だからどうか、泣かないで。笑って見せて?



(――……ちひろ、)




 ***




「……ち、ひろ……」

「!?」



 私がそう呼ぶと、ヒロトは驚いたように目を大きく見開いた。


 ああ……そうだ。私は、



「ちょび、何で……何で、俺が子供の時に呼ばれてたあだ名、知ってるの……?」

「わ、たし……わた、しっ」



 ――……全部、思い出した。

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