第3話 (最終話)

7


 さらに2週間ほどが経ったであろうか。既読の付いたメッセージは、やはり咲嬢宛に送られているということで間違いないようだった。ふとその画面を見返すと、今は多くの「送信が取り消されました」というマークが表示されている。咲嬢との邂逅の翌朝、陽子はメッセージの誤送信に気づいた。あまりにいたたまれなくなった陽子は、その場ですべての妄想を差し戻したのだった。このメッセージングアプリに「送信取り消し機能」が実装されたのはつい最近のことだったので、『該当機能を含むアップデートがなされる前にもし自分がこのような愚行をしてしまっていたら、より取り返しのつかないことになっていただろう』と思い、陽子は身震いした。


 咲嬢からは、特に何らのフォローもコメントもない。『あれだけ支離滅裂で一方的な発言を目にしてしまったならば、言葉の魔術師といえど返すための言葉を用意できなかろう』、陽子はそう思っていた。久々に発生した羞恥心などというものは1週間もあれば消え失せてしまい、今や陽子の心の中には一握りの申し訳なさと、ささやかな希望のみが残っているだけだった。


 嘔吐から数日で情緒が安定した陽子は、日々の暮らしに精を出していた。何かの罪を滅ぼすかのように、普段掃除していない窓のサッシを雑巾がけしたり、テーブルを消毒したりしていた。キッチンに溢れていた大量の酒瓶を洗ってビニールに入れ、所定の曜日に提出して回収してもらったりもしていた。まるで、年末の大掃除のようである。キッチンが使えるようになったので、自炊も始めた。昨日は大根と豚バラを醤油とみりん、だし汁で煮たものを食べた。ほろほろに煮崩れした、味のしみた大量の大根は大変に美味であり、食にがめつい陽子は何度も舌をやけどしてしまうほどであった。もちろん、料理の後にはキッチンに重曹をまき、ブラッシングをした。フローリングの雑巾がけをしたあとは、洗面台の上にぞうきんを置き、少し水をためてから、塩素をふりかけた。丁寧な生活。他人にとっての自分の価値はなくとも、こうして最低限達成しておくべき基準を満たしておけば、いつかはまた、陽子も「誰かに会ってもよい資格」を付与されるかもしれない。社会的な距離をたがいに取ることを否応なく強いられる昨今においては、他人に見向きされるのを目指して、何よりも「自分磨き」に有り余る時間を使うべきなのではなかろうか。陽子は意識を高く保っていた。もうすぐ年が明ける。


 今日は火曜日、可燃ごみの日なので、片手に一週間分の重みをもったごみ袋を持って玄関の鍵をあけ、廊下を通り、観葉植物と鏡が彩るエントランスを抜け、マンション最寄りのごみ捨て場へとむかった。空はカラッと晴れており、柔らかな日差しが陽子の顔面をあたためた。この日は例外的に暖かい一日で、最高気温は16℃程度であった。陽子はゴミ袋を所定の位置に放り投げた。その後ふとスマートフォンを取り出し、女性向けメディアの占いサイトを見た。今週のおひつじ座は1位であった。キーワードは「直観」「理解」「誠実さ」。陽子は特に占いを信じているわけではなかった。陽子にとって占いにおいて重要なのは、その内容でも、その的中率でもなく、テキストによって自分がどれくらい勇気づけられるかということであった。今日は天気も良く、洗濯物もよく乾く。占いの結果も良い。何より、自分はきちんと生活をしている。これほど幸先の良い一日など、今後あるのだろうか。


 陽子には、『咲嬢は必ずや自分を理解してくれ、真摯に応じてくれるようになるだろう』という確信があった。今日まで頑張ってこれたのは、陽子のこの確信のおかげである。占いの結果を真に受けているわけではないが、陽子はいよいよ咲嬢と真摯な付き合いを始めたいと思っていた。それは「友人関係」かもしれないし、「先輩・後輩関係」であるかもしれないし、単なる「恋愛関係」になるかもしれない。どのように名付けられようと、陽子は構わなかった。陽子が興味を持っていたのは人間関係の「本質」であり、関係にくっつけられた「ラベル」ではなかった。真摯な付き合いというものは、本音で語り合うものだ。思っていることを正直にぶつけ、ぶつけられ、互いが弁証法的に高めあっていく関係のことなのだ。その関係には啓蒙的な価値がある。仮に自分が相手にとって価値がない存在であるとしても、相手にはこれからの自分の成長を期待してもらい、価値を発揮できるまで気長に待ってもらい、良い関係になるまで耐えてもらうしかないのだ。それがいつか達成できるならば、陽子はいくらお金を使っても構わないとすら思っていた。ところで、やがてはぴかぴかになったこの部屋に、いつかあの人を呼ぶようなことがあるのだろうか。


 陽子は咲嬢に対して、どのような感情を自分が抱いているのかを正確に把握できないまま、今夜の予約を入れることに決めた。ついに今日、咲嬢に再び会うのである。陽子は既に、咲嬢にもう一度会うならば、それは後にも先にも今夜しかないと踏んでいた。この2週間、何度も何度も何度も推敲し、紆余曲折あった末に非常に簡素になった慇懃無礼なメッセージが、しゅぽっという効果音とともに画面に投下された。


「今夜、咲さん指名でお店に伺いたいと思います。よろしくお願いいたします」




8


 歌舞伎町は、2週間前に見た時よりもアットホームな雰囲気をまとっていた。初めて見たはずの、濃い緑色の看板を掲げた横浜系ラーメン屋の前で掃除をしているお兄さんも、ピンク色に輝く風俗店の前で寒そうなバニーガールの格好をしている女たちも、既に陽子がどこかで会ったことのある人々であるように感じられた。排気ガスの煤で黒く汚れたガードレールと歩道の淵の不潔さにも、どこか安心感を覚えていた。その安心感は、『仮に今日よくないことが起こったとしても、歌舞伎町に来れば、自分は一人ではなく、寂しくない』という陽子の心理的なセーフティネットを形成していた。


 ガードレールの上にはたばこを吸いながらレザーのジャケットをまとった、金髪の男性が2~3人座っているようだった。首からジャラジャラと金属をぶら下げ、髪の毛はワックスで重力に抵抗している。これらの人影はコンビニエンスストアの青白い光に照らされて、劇画風の印影を呈していた。戦う男たち、労働者たちの姿である。彼らもこれから仕事場に出勤したり、自らの生活をかけて営業をかけたりするのだろうか。歌舞伎町には客として訪れたことがあるだけなのに、その舞台裏としての情緒すらもすべて把握してしまったかのように陽子は感じていた。『私は歌舞伎町の女になったのだ』という誇りと自信が陽子を貫いていた。その喧騒を抜け、陽子は少し落ち着いた路地裏に入る。あの丁寧なボーイに声をかけた。宇宙ステーションの入り口で、「いつものように」彼はその女性客を建物の穴の中へと誘導していった。時刻は19時半。咲嬢の出勤のタイミングに合わせて予約を取ったため、前回よりもやや遅い。今日は、決戦の日である。


 陽子は前と同じ席に通された。黒いつるつるの壁も、インテリアを彩る暖色の照明も、水色にライティングされた水槽とその熱帯魚も、前回と似て非なる拍の強い音楽も、もはや陽子にとってはすべて「馴染みのもの」だった。泣きそうになりながら無心でレーズンを食べていたあの時間を思い出しながら、陽子は自分の「成長」を実感していた。キャバクラなんて利用しそうにないアラフォーの女性が2度もこの店舗に訪れたのだから、嬢やスタッフの中で私のことは有名になっているに違いない。しかし私はもうこの景色を知っており、自分の位置づけも把握しているのだから、何も恐れるべきものはない。初めて見た時の咲嬢の目の輝きが、自分にもほんの少しだけ宿っていたならば、それほど嬉しいことはないだろうな、と陽子は考えていた。


 陽子の他に客は一組。しかもその人もたった一人でキャバクラに来ていた。座高が高く、白髪と黒髪が5:5の割合で混在しており、痩せこけた顔をしている陰気な男性。スーツをピシッと着ていてサラリーマンのようだった。暗い紺色のネクタイをしめており、それは買ったばかりのようにしわ一つなかった。年齢は50代ぐらいだろうか、顔にはほうれい線がくっきりと刻まれている。彼は主張の強い黒縁の眼鏡をかけており、細いが小さくはない彼の目の周りのほの暗さを、一層際立たせていた。『こんな系統の男性も、キャバクラに来るものなのだな』と陽子は感心していた。もっとも、陽子にそんなことを言われたくはないだろうが。


 席に現れた咲嬢は、前とは違う黄土色のドレスに身を包み、美しかった。銀色のネイルの装飾と、スカートのスパンコールがキラキラと輝き、陽子はあの夜のジンジャーエールの姿を思い出した。しかし、あの夜の新鮮さはなく、特別な感じはしなかった。咲嬢は「前と同じですが、」などと言いながら、新しい名刺を渡してくれた。


 「前と同じ」、「新鮮さがない」とはいえ、落ち着いた眼で見てみても、咲嬢が容姿に恵まれているというのは明白な事実であった。彼女はおまけに(、そしてそれにもまして)頭も良いのだ。『この人は、自分とは対極の存在だ』と陽子は思った。肉体面でも精神面でも、咲嬢は人理の発展に貢献するあらゆるポテンシャルを秘めており、逆に自分自身は全ての可能性が搾り取られた後の、出涸みたいな存在であるように陽子には思われた。


 閑話休題、まずは目の前の美しい咲嬢に集中しなければならない。しかし何か話を始めようにも、話題がないことに陽子は気づいた。口をパクパクさせながら、陽子が何かを言おうとしては引っ込めていると、丁寧なボーイがジンジャーエールを運んできた。何か言わねば、しかし何を?


 見かねた咲嬢が、一般的な話題を提供した。最近寒いこととか、感染者数の動向とか、最近流行している人狼ゲームについての話などをしていたが、陽子はそれらには一切興味がない。言葉の高級魔術師の繰り出す「世間話」という低級魔法が、陽子の左から右へとすり抜けていった。ジンジャーエールの結露は大粒になっていき、前回とは異なるタイプの緊張感を陽子に与えていた。陽子は、「本題に到達するために本題以外のものを使ってアイスブレイクする」という作業が非常に苦手だった。咲嬢の方が懸命にアイスブレイクを試みても、それらに応じるためのコミュニケーションスキルすら陽子は持っていなかった。陽子はいわば永久凍土であった。陽子の中に埋まっている好奇心の宝物を取り出すには、誰もが苦労しなければならない。それどころか陽子は、自分の求めていない話をずっと続けている咲嬢に対する苛立ちを隠しきれなかった。それを察知したらしい咲嬢は、ついに口数を減らし始めてしまった。


 すでに陽子のテンションは地に落ちていた。が、いまさら引き返すわけにもいかない。どんなに気が乗らなかろうと、誠意だけは見せるべきだと踏んだのだ。陽子は靴を脱ぎ、ドライマンゴーをほおばりながら、金色のソファの上で座禅を組み始めた。さすがにぎょっとした咲嬢は、目の前の女の奇行に耐えられなくなったのだろうか、ついに口を開いた。


「あのー私、そろそろ時間なので失礼します。あの、指名してもらえてとっても嬉しかったです。また来てくださ…」


「あの、いや、ごめんなさい、少し待ってください」陽子は相手のセリフに被せて、そう言い放った。


 咲嬢の表情には「何を?」という疑問符が貼りついていた。自らを限界まで追い込んでしまった陽子は、遂に咲嬢に対し、単刀直入に質問した。


「あの、この間、私送ったじゃないですか。変なメッセージ。ごめんなさい、びっくりしましたよね。わけ、わからなかったですよね。迷惑かけて本当に申し訳ないです。ところで、あれについて咲さんはどう思いました?あれ、実は咲さんに会った後、小説を書いてみようと思って、アイデアを書き留めてみたものなのです。えへへ…あの…その、作品とかにはなっていなくて、でもどうですかね、作品になりそうですかね、あの、どうでしたか?」


 咲嬢は20秒ほど石のように固まっていたが、やがてどう返すのが最も「誠実」な回答であるかを心得たらしく、懇切丁寧に語り始めた。


「あぁ…あのメッセージですね。わたし、正直びっくりしたんです。でも、読んでて楽しかったですよ。面白い発想をするなーと思いました。アフリカの文学とかだとそういう突拍子のない展開が多くみられるんですが、授業でそういうのを取り扱ったのを思い出しました。なんか、久々にああいう小説、読んでみたくなってきました笑」


 この期におよんで授業の話をしてくる咲嬢に好感を覚えつつ、一方で、議論の核心となる「咲嬢自身という対象」を意図的に話題からズラす咲嬢の狡猾さに、陽子は憤りを感じ始めた。引っ込みがつかなくなった陽子は、腹に力を入れて、「最初の一言」を口に出した。手がプルプルと震え、頭皮からは脂汗が猛烈に噴出して、額を通って瞼に差し掛かり、目の周りの化粧を溶かし始めているのを感じた。


「あの!良ければ今度、図書館に一緒に行ってもらえますか。教えてほしいことがあるのです。そのあともちろん、このお店にはいきますし、ご飯とかも全部こちらが負担します。だから…」


「ごめんなさい、私は正規じゃなくてバイトで、しかもキャバ嬢としてのランクもすごく低い立場なので、時間外に会うことが禁止されているのです。でも気持ちはうれしいので、また来てくださいね」


 その言葉を聞き終わるころには、陽子はこの女のことが心底どうでもよくなっていた。この女は自分に興味がない。自分に興味がないことが明白な人には、興味を向けても仕方ない。



 その後ローテーションでみえ嬢が回ってきた。


「ねーねー陽子さん、咲ちゃんとすごく仲良しなんだね。あの子ここの店に入ったばかりで緊張してたけど、陽子さんに気に入られてとっても嬉しそうだったよ。これからも絡んであげてね」そう言いながら、またみえ嬢は10本の触手を陽子の腕や太ももに「絡ませ」てきた。これは宇宙人なりのスキンシップなのだろう、と思うと、みえ嬢のことがどこか可愛く思えてきた。


 のちにお手洗いでスマートフォンを使って調べたところ、キャバクラではいきなりボディタッチをしまくる嬢というのはさほど多くないらしい。相手に警戒心を持たせないよう慎重にふるまった後、ここぞというときに相手に触れるのがコツ、とのことだった。だとすればこの女は、私のことを少なからずよく思っているのではないか。顔はいささかタイプからははずれていたものの、相対的に自分(の身体)への好感度が高そうに見えることを鑑み、しばらくの間の妄想のターゲットにすることにした




10


 時刻は24時頃。最寄り駅についた陽子は、このまま家に帰るのも癪だったので、近所を深夜徘徊することにした。駅の南口からシャッターの全て閉まった商店街を抜け、隣接している団地の敷地に勝手に入った。道中には自販機があったので、陽子は何かを供養するように280mlのミルクティーを2本買っていた。


 団地は複数の巨大な棟に分かれており、そのうち2棟ほどが、高台の上に乗っていた。低所得者層が集まる団地の中にも、棟や地上からの階数による序列が存在しているだろうか。団地の入り口付近にある駐車場には多くの安っぽい車が停まっていた。それを抜けると、高台に上るための石造りの白い階段があった。階段にさしかかると無心で足を動かし自分の体を高く運んで行った。階段の両端を挟む雑草が、風に揺られてさらさらと音をたてていた。蛍光灯に照らされて、それらの草は昼間には見せないようなしっとりとした緑色を陽子の視覚情報に提供していた。


 高台の上は小さな公園のようになっていた。テニスコート程度の広さの、楕円形の砂場を、駐輪場と低木の茂みが囲んでいた。高台の四辺のうち、二辺は巨大な「A棟」「B棟」に挟まれており、もう一辺は別の高級分譲マンションに接していた。残った一辺は空中に開かれ、そこから杉並区の住宅地の夜景を見下ろすことができる。陽子は背の低いマンションや一軒家の明かりの一粒一粒に焦点を当てた。それらの小さな光は、風に吹かれてゆらゆらと揺らいでいるようだった。これらの光一つ一つの中で、人間が生活している。なんだか文明社会が途方もないフィクションであるような気がしてきて、その壮大さに背中がぞわぞわと毛羽立つのを陽子は感じ取った。そういえば、もうすぐクリスマスがやってくる。あの光の中で多くの人が彼氏や彼女、妻や夫、そして子供たちと共に、西洋から輸入された誕生祭を心待ちにして、カレンダーに予定を入れたり、インターネット通販ででこっそりプレゼントを買ってあげたりしているに違いない。今年もそんな「特別な日」に、家で誰に待ってもらうこともなく、また誰を待つこともなく、いつもと変わらないやり方でただただ時間を使い捨てるであろう自身のことを想像し、陽子は心臓がきゅっと締まるような感覚を味わった。


 陽子は高台の近くの茂みに歩み寄り、ミルクティーのキャップを空け、低木の根元に内容物を注ぎ込んだ。陽子の他に誰もいない広い空間の片隅に、じょぼじょぼという音と、茶葉の香りを含んだ湯気が立ち上る。お香を焚いているような気持ちになった。すると地面の中からもぞもぞと、一匹のミミズが顔を出した。もっとも、正確に言えば、それが顔なのか尻なのかは、陽子の知るところではなかった(両親から教えてもらったところによれば、「おーい」、と呼び掛けて振り返ったほうの先端が、ミミズの「頭」であるとのことだった)。ミミズはきれいなピンク色をしており、滑らかな曲線のところどころに、虹色のつやのようなものがかかっていた。近くで見ると、こんなに洗練されたボディを持った生き物だったのかと陽子は感心した。


 陽子はミルクティーのかかっていないところの土を右手一杯に持ったかと思えば、そのままミミズに土を振りかけた。ミミズは徐々に身動きがとれなくなっていくようだった。すると陽子は鞄の中から日本酒を瓶ごと取り出し、ミミズに少しずつ垂らしていった。ミミズは感じたことのない強い刺激に苦しみ、断末魔を上げるかのように激しくのたうち回っていた。


 見上げると、都会の夜の明かりによってふるいにかけられた、少数の星がキラキラと揺れている。


 陽子は目線を目の前の盛土に戻すと、つつじの葉をちぎり、パセリのように小さくちぎりながら、その盛土の上にパラパラと載せていった。さらに、鞄の中から今度は家庭用食塩を取り出し、中身を全て振りかけた。そうしてから、「すみませんでした」と小さくつぶやいた。浸透圧に耐えられなくなったミミズは徐々に活力を失い、息絶えた。


 家に帰った陽子は、布団の上で再び座禅を組み、妄想を始めた。妄想の対象となる人物は、みえ嬢のようであった。暗闇の中から目の前にぼうっと現れたみえ嬢は、手だけではなく目や耳や鼻、口からありとあらゆる触手を伸ばし、陽子の身体を隅々までいじり尽くし始めた。それぞれのピンク色の触手はうねうねと動き、ベタベタとした粘液に包まれており、動きに合わせて透明なゼリー状の糸がつーっと垂らされていた。みえ嬢は何かをしゃべっているようだったが、聞き取れないし、理解できない。だが陽子は不思議とその状況に対して、明らかに興奮していた。およそ10年ぶりに感じた性欲のようなものだった。


 それは別に自分が求めているものではなかったが、他方で陽子は『自分の求めていないものを求めていると勘違いすることで、本当に欲しいものをごまかすというのが、欲望というものの本質なのかもしれない』という悟りを手に入れ始めていた。


 とはいえ、みえ嬢の湿った触手にまさぐられながらも陽子は冷静に思考を続けた。


『妄想にふけり、みずからの行動にいかなる「何か」をも反映せず、40年近くの間ただ外界との距離を保ち続けていた自分には、欲しいものがあるかないかの如何にかかわらず、幸せになる資格などないのだ』


 そのような考えを、自らのシナプスに刻み込んでいった。陽子はこれ以上自分が落ちぶれるのを防ぐため、「自分より部屋が汚かったり自炊ができなかったり、仕事の能力が低い人ですら、他人と結婚して幸せになったりしている」という事実からは、意図的に目をそらすようにしていた。




-99


 大友光太郎とは、22歳に陽子が大学を卒業してから3年後、文芸サークルの同窓会で再会した。出会った時から、彼はやせ細っており、今にも消えてしまいそうな儚さを持っていた。身長は180センチ程度だろうか。顔は小さく、すっと高い鼻筋を持っていた。目の下には深い隈があり、あごには無精ひげを蓄えていた。やや癖の付いたショートヘアーは特にもみあげが強固であり、太めで濃い眉毛には彼の人格の安定感が宿っていた。専攻は倫理学で、西田幾多郎を研究しているとのことだった。あの人は間違いなく、咲嬢のような「頭の良い人」だった。


 大学生活は陽子の片思いに終わった。陽子は彼に話しかけてもらうための口実として、頑張って小説を執筆していた。『この作品ができたら、あの人と一緒に作品について話し、ゆくゆくは付き合ったりもするのだろう』、と妄想していた。だが、小説の執筆は遅々として進まず、ついに完成しなかった。そうこうしているうちに別のサークルで忙しくなった光太郎は、文芸サークルに顔を出さなくなってしまった。しかし、1年間で会誌に何の作品も提供できなかった陽子も、幽霊部員としてひっそりと籍を残し続けた。そして3年生のころ、全く別のテーマで、短編を1つだけ書いてからサークルを引退した。引退後も、光太郎からのアプローチを受ける妄想を続けていたが、大学生活が終わるころには、その妄想ネタも尽きてしまっていた。


 大学卒業後、地方都市で働き、再び東京に戻ってきた光太郎は、同窓会に参加し、陽子に会った。その後、何度か陽子を遊びに誘ったのち、彼は自分の思うところを告白した。曰く「ずっと好きだった」とのことだった。それから一年、そのあと二人は「健全なお付き合い」を続けた。平凡なデートを重ね、いつの間にか一緒に暮らすようになった。人から好意を寄せられるという初めての経験に驚きつつも、陽子は謹んでその幸せをお受けした。


 大学卒業から4年後の12月24日、2人はフランス料理店でデートをしている。この日は何かが違うようだった。奮発して予約したであろう高級なフランス料理店の、白いテーブルクロスや赤と黒のカーペット、金属のバケツの氷水に漬かった白ワイン、頭上に君臨する立派なシャンデリア。それらのアイテム全てが、あの人の決意を表象しているかのようだった。


「陽子、僕と結婚してくれないか」




-98


 こんな奇跡、自分には二度と起こらないだろう。自分なんかに興味を持ってくれる人は、後にも先にもあの人だけなのだから。


 それから4年後、あの人は病に倒れた。泡のようにぶくぶくと、儚く時が流れていった。陽子は仕事の合間を縫って病院に見舞いに行き、差し入れや元気付けるような言葉をかけたり、かけなかったりした。病気が発覚する直前、2人は子供を設けようと努力を始めていたが、今やとてもそんな状況ではなくなってしまった。もっとも、陽子自身は子供を持つことにあまり興味を持っているわけでもなかった。男性に対してもともと性欲を感じる体質でもなかったため、子供を授かるための「行為」に励むのも苦痛であった。でもあの人の優秀な遺伝子を残すことに貢献できるならば、陽子はこの程度の苦痛は耐えねばならなかった。『これほど報われることが目に見えている苦痛もなかろう』、と当時の陽子には思えていた。来たるべき幸せのために陽子は耐えた。とはいえ、既に陽子は幸せであった。だから、病気程度で自分が不幸になったとは思わなかった。この世に自分を大切に思ってくれる人が今まで存在し、これから数か月は存在するであろうことが、既に奇跡に近いことであったからだ。


 病室であの人は陽子に対して、しきりに「ごめんね、ごめんね」とつぶやいていた。時折申し訳なさに耐えかねて、あの人は泣き出してしまった。陽子はあの人にそのような気持ちを抱いてほしくなかった。自分なんかのために、「未来の可能性をつぶしてしまった嘆き」など感じないでほしかった。陽子に未来はいらなかった。陽子はただ、「今・この瞬間」、あの人に一緒にいてもらいたかったし、あの人と一緒にいたかった。それをうまく伝えるための自らの言語能力の欠如を、陽子は深く憎悪した。


 だが、あの夏は来てしまった。バスを降りると、ミンミンゼミが似たような音程で何重にも合唱し、それにせかされるように陽子の鼓動は高まっていた。ベタつく額をティッシュで拭いながら、陽子は小走りで大病院に向かっていく。病院の屋内に入ると、もう音らしい音は聞こえず、一層速まった自分の鼓動だけが聞こえていた。節電のためか蛍光灯の大半は切られており、陽子は暗い廊下をずんずんと進んでいった。非常口の緑色のライトが廊下に反射し、痛々しい雰囲気を醸し出していた。


 病室に着くと、1人の医者と1人の看護師が横に座っていた。クーラーが効いており、手についた陽子の汗が、病室の手すりをひんやりと伝っていった。彼は二度と意思疎通できない状態になっていた。そこから「死」という判定が確定するまで、いくばくも時間はかからなかった。意外にも、そんな時に陽子の心に走ったのは、「こんなことなら、先に仕事をやめておくべきだった」という後悔だった。


 最後に伝えるべき言葉はいくつもあったはずだ。最後が近くに迫っているということを知った時点で、それを自分は伝えるべきだった。なのに、どうしても手も口も動かなかった。なんでこんなふうになる前に、あの人に何も言うことができなかったのだろう。


 陽子は夢で何度もその夏の光景を見ては、ただ夢の中でだけ、わんわん泣いた。




11


 ミミズを葬り去ってからさらに3週間ほどが経ち、新年が明けた。部屋は相変わらずきれいなままで、家具、食器、洗濯物、ベッドシーツなどは全て整って配置されていた。新年だからといって特段抱負などを立てることはしなかったが、陽子の心は晴れやかであった。あの日、あの場所で咲嬢に振られることができて、良かったと今では思っている。感染症の蔓延による影響を受け、「Sweety Gorgeous」は昨年末に閉店してしまったらしい。もし、あのタイミングを逃してしまっていたら、咲嬢は業務用アカウントを消してしまい、二度と連絡が取れなくなってしまったに違いない。


 携帯の画面にはレズビアン風俗の予約表が表示されている。「お金が尽きる」というタイムリミットは確実に近づいてはいたが、「その時」に向けての準備が進んだ気配は一切ない。予約フォームの要望欄にはただ一言、触手プレイ、と書いてあった。16時。そろそろ出発の時間だ。化粧も念入りに済ませた陽子は、鞄に財布とポケットティッシュ、食塩、日本酒を放り込み、玄関に立った。


 マンションの部屋の扉を開けると、正面からびゅうと風が吹きつけた。空を見上げると、黒く厚ぼったい雲の塊の隙間から、黄金に染まった空が見える。『自分には物語も、ロマンスも、プラトニックラブも味わう資格がない』という確固たる自覚を胸に、陽子は今年も敢えて同じ過ちをくりかえすのである。

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