人生に疲れた39歳未亡人がキャバクラに行ってみた

ひょんた

第1話

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 大友陽子は顔の方向を正面に固定したまま、眼球だけであたりを見回して、冷静に状況を整理しようとした。


その1: 私はいま、一人でキャバクラに来ている。私の他に客は2組。真っ黒な壁と真っ赤なカーペット。照明に照らされて、複数の金ぴかのソファとテーブルがくっきりと強調されている。そのうちの一つの真ん中に、私と、一人の女とが密接して座っている。小柄なボーイが私たちを遠くから見つめている。


「おねーさん、緊張してる?」



その2: 目の前にはドライフルーツやチーズが乗った皿と、ジンジャーエールと、ウィスキーの水割りが等間隔に鎮座している。隣の女がくれた名刺は、飲み物の結露に巻き込まれしわくちゃになりはじめている。


「わー女の子だ!みえっていいまーす!よろしくね!何飲む?」



その3: 私は泣きそうになりながら、机の上の皿に乗ったレーズンを手づかみで取り、急いで口の中に運ぶことを繰り返している。食べるのに忙しいので、隣にいる女に、私が何らかの返答をする余裕はない。


「最近感染者増えててやばーい」



その4: 店内を流れるトランスの重低音が、隣のテーブルで繰り広げられているおじさんのカラオケ音声と混じって、私は聴覚情報を全く処理できない。


「女の子がくるなんて珍しいね。おねーさん、こういうとこはじめて?」



その5: 隣の女はやたらベタベタとこちらの腕や太ももを触りながら、相も変わらず私に話しかけてくる。香水のにおいが私の鼻の粘膜をくすぐる。


「じゃあ、いただきま〜す!」



その6: 私は挫けそうになりながら、それでも、一つの確固たる「抵抗」の意思に基づいてお菓子を食べている。


「おねーさん、めっちゃ食べるじゃん

かわいい〜」



結論: 混乱、混沌。何もかもがめちゃくちゃで、何も理解することができない。陽子の胸の中は『帰りたい』という気持ちでいっぱいだった。


どうしてこんなことになってしまったのか。




1


 陽子がこの不可解な状況に巻き込まれる、およそ6時間半ほど前…


 働いていない陽子には、目覚まし時計なるものも必要ない。彼女は目をこすりながらティッシュを手探りで探し、徐に、しかし大胆な音を立てながら鼻をかんだ。ぶん!と勢いの良い射出音が頭蓋骨に響く。夜中に溜まった重量感のある鼻水の塊が、2枚のティッシュによって受け止められた。

 スマートフォンの指紋認証を解除すると、画面上部のデジタル時計欄には12:45と書いてあった。流石に午後に起きるのは少し罪悪感がある。必要のない小さな胸の痛みがちくりとその存在を開示し、たちまちに消えていった。


 ここから少しの間、1人のアラフォー女性の身の上話が続く。それは記述として退屈かもしれないが、今後の彼女の行為を理解するために、少しだけお付き合いいただきたい。

 陽子は今年39歳になった。女とは言え、今のご時世でこの年齢の女性が働いていないというのはあまり多い事例ではないだろう。かといって家にお金を入れるパートナーがいるわけでもない。彼はもう2年前に死んだのだ。

 1人になってからも数ヶ月は働いていたものの、陽子は突然むなしくなってしまい、結局は会社を辞めてしまった。何度か転職を繰り返した陽子にとって、今までで一番自分に合う環境で働くことができてはいたのだが、働くこと自体に全く意味がないようにしか考えられなくなったので、辞める以外の選択肢も考えられなかった。

 32歳で結婚し、それなりに幸せな5年を過ごした後、なんらかの病によって陽子の夫はこの世を去った。それは「これまでの人生で唯一愛した相手」と二度と会えないということを意味したので、しばらくは涙に暮れる日々を過ごしたが、葬式が終わり、会社も辞めてしまったあたりからは、何だか落ち着いてしまった。1人の人間の人生の面倒を見るという重荷から解放されたという実感を拭えなかったのだ。それから陽子は、「それはそれで享受しがいのある自由を手にした」という満足感を得るようになってしまったのである。自らのこの薄情さを、彼女は人並み程度に嫌悪し、人並み程度に楽しんだ。


 39歳という年齢は、この時代の社会によって、「取り返しのつかない」ものとして認識されていることが多い。世の中には40代でも現役として働き、前線で戦いながら新たなキャリアを積み始める人々はかなり多いのだが、少なくとも陽子は、前述のような世間の認識を受け継いでいた。特に女性に関して言えば、肉体のピークはとうに過ぎており、これからの出産には大きなリスクが伴い、新たに仕事を始めるための気力と体力もなく、うだうだしているうちに、およそ10年後には更年期と閉経が忍び寄ってくる。試しに仕事をを探してみても、この年齢の女性を正社員として採用する企業はほとんどなく、契約社員・アルバイト求人ですら、かなり待遇の悪いものしか残っていない(尤も、陽子にはそもそも働く気もないのだが)。レールを外れた女性の可能性というものは、物凄い勢いで閉じられていく。自分がもし男ならば、努力とコネクションによって正社員の仕事だけでも再開することができるのだろうが、女性にはそういうチャンスを一切開いてくれないというのが、この国の社会というものだった。労働社会は無限の階層構造でできている。お金を持つ少数の男性権力者にまず男性が群がる、その男性のおこぼれに、ようやく女性があずかることができる…といった仕組みになっているのだ。法の制定から40年近くが経過した「男女雇用機会均等」なる理念など、結局は建前に過ぎず、現実にはその1%も達成されていないように陽子には思われた。この絶望感を味わうことなく人生を終えられる男性たちに対して、陽子は憤りすら覚えている。


 収入源のない陽子が今住んでいるのは、家賃7.2万円、駅から徒歩12分程度、杉並区の外れ、閑静な住宅街にあるマンションの一室である。間取り1K、洋室8畳程度、築5年以内の白っぽい小綺麗な洋室であり、バス・トイレ別、ガスコンロも二口ある。夫が亡くなった後、彼との生活との思い出として多くの荷物をこの一室に詰め込んだものであったが、やがて精神的にもそれを重荷に感じるようになり、また単に生活上不便ということもあり、その大半を陽子は夫の実家に送り返してしまった。今ではこの部屋を占めるのはベッドと、冷蔵庫・洗濯機・電子レンジ、一つの小さなテーブル、オフィスにあるようなローラー付きの椅子、薄型のノートパソコン、それと巨大な本棚だけである。生活上必要な最低限の物質だけを家におき、書籍による概念の増加によって残りの人生を充実させんとしていたのである。そのため、決して広いとは言えないこの部屋ですら大きく思えてしまうような、殺伐とした空間が展開されていた。整然と並べられた最低限の家具たちと対照的に、ただ本棚だけが自らの内容物を床にまで溢れさせ始めていた。


 そのあふれ出した内容物のおよそ半分ほどを、『純粋理性批判』『論理哲学論考』といった哲学的古典が占める。もっとも、これらの書籍は彼女が最近買ったばかりのものであり、また彼女は人文学の専門的な教育を受けたわけでもないので、大してその内容を理解できるわけでもなかった。ただ、難解なテクストが自分の目の前においてあり、それを読む機会を得ている自分自身に酔っているだけなのだ。自分が陥っているそうした自己陶酔状態にも、陽子は自覚的であった。


 陽子は頭の良い人が好きであった。亡くなった彼女の夫もそうであった。陽子は『彼ほど自分の知的好奇心を満たしてくれる人はこの先現れないだろう』と予想して、部屋に引きこもりながら「読めない古典」を収集することにのめりこんでいたのである。


 布団の中でもぞもぞと寝返りを打ち、彼女はスマートフォンを見た。メッセージングアプリには、居酒屋のクーポンの類を除けば、もう2ヶ月以上も誰からもメッセージが届いていない。『私には友達と呼べるような存在はいないのだった』ということを彼女は思い出した。ただでさえ自分から声をかけて人間関係を広げるようなタイプではなかった割に、仕事もしていないとなると、当然話し相手はいなくなるし、陽子自身そのことに納得している。

 もう年単位で、他人と会話していないように思う。とある凶悪なウィルスが全世界に蔓延してからというものの、陽子の引きこもりには拍車がかかった。特に今は11月であり、気温も低いので、なおさら外出する気にならない。


 しかし、陽子がスマートフォンで徐にWebブラウザを開くと、そこにはなぜか、歌舞伎町の安めのキャバクラ「Sweety Gorgeous」のWebサイトが映っていた。形容詞+形容詞という、文法を冒涜するような反知性主義的な店名にすら、陽子は興味を抱いている。


 実は陽子は、昨夜の3時ごろ浅い眠りから覚めてしまい、何を思ったのかネット上で、「これなら私でも行けそうなキャバクラ」を探していたのだ。彼女が寝付いたのは早朝の5時ごろであった。

 未知のウィルスの蔓延を受け、政府から激しく迫害された「夜の街」では、営業時間の短縮や自粛に追い込まれたキャバクラや風俗店が「感染割」などという些か不謹慎な割引制度を作成して客引きを継続していた。そこには確かに60年代さながらの演劇的カウンターカルチャーが展開されているかのように思えた。華やかな世界に一切縁のなかった陽子は、金色に彩られた不躾な広告と、反政府的でアナーキーな団結との不思議な親和性に魅了され、気づけば「一度でいいから1人で夜の街に突入してしまいたい」という欲望を抱いていた。


 陽子がホストではなくキャバクラを選んだことには、さして深い理由もなかった。単に、自分の夫だった人に対するなんとなくの罪悪感と、あとは自分より著しく身体の大きい人に無防備な姿を晒すことへの恐怖であった。陽子には知的好奇心はあったが、性欲がなかった。ワンナイトなどというものにも興味はない。ただ、金色に弾け飛ぶ無駄遣いのようなものに身を任せて、死ぬために不要な雑念を頭から追い出すことができそうという期待があるだけであった。


 ここで金銭の話をしておくべきだろう。キャバクラに行くのには金がかかる。陽子は働いていないのに、そんな余裕があるのだろうか?という疑問が生まれるのは当然である。それについては陽子自身、昨夜のうちに何百回も考えたのだ。

端的に言えば、陽子には金がある。銀行口座には、自分で稼いだ1,200万に、遺産やらなんやらで他人の手から譲り受けた3,600万を加えたものが入っていた。家賃で8万円弱、生活費を多めに見積もって12万円、合わせて月20万円で済ませれば、よっぽど大きな物価変動さえなければ4,800÷20÷12=20年ほどは生活できる計算であった。


 もっとも、陽子はこの先20年も生きるつもりもなかった。20年なんて、長すぎるのである。ゆえに「1か月あたりに使っても良い金額」の枠を20万円分広げることによって、『10年後には死んでしまおう』という決意のもと、贅沢をすることを自分に許したのである。そして月20万円というのは、現在の陽子の趣味である「読書」だけでは到底使い切ることのできない金額だった。そのうち何割かを、今度は夜の街に使おうという魂胆である。


 陽子は頭が切れるので、複数のWebサイトを見ることでキャバクラのシステムは概ね理解できていた。そして翌日の朝(昼)になってもキャバクラに行く気が失せていなければ、その日のうちに当日予約をしてしまおうと思っていたのだ。


 陽子は、キャバクラに行くとすればこの「Sweety Gorgeous」に行くと決めていた。女の子の顔が比較的素朴で、初心者にも優しそうという先入観からであった。新宿駅から徒歩12分、営業開始は18時とのことである。陽子は予約フォームから予約を確定し、アラームを16:30にセットし、寒かったので再び布団の中に身を埋めて、そのまま眠りについてしまった。




2


 未亡人という概念には、世間から独特の眼差しが向けられる。それはもっぱら性的な眼差しである。刑事ドラマであれ同人誌であれ、未亡人は欲求不満の象徴として描かれる。仮に見た目が貞淑であっても、脚本・キャラクターにおけるその貞淑さが抑圧の結果であることは目に見えて明らかであった。陽子は未亡人という単語にこのような「男の欲望」を投影するような世間の眼差しに対して、心の底から気持ち悪さを感じていた。

 などと陽子が布団の中で考えていたら、16:30にセットしたアラームが鳴ってから30分も経ってしまっていた。これでは出かける前に化粧する時間がない。しかし『それもまた乙なものだ』と思い、陽子はとりあえず布団から身を出し、クローゼットから貧相な外行きの服を取り出した。外出時にはかれこれ7年以上この服を着ている気がする。一旦台所に行き、気付け薬(※日本酒)をコップ一杯に注ぎ、一気に飲んだかと思えば、陽子はベッドの方に戻り、着替えをすることにした。


 陽子は最低限の身支度(着替えて、マスクをつけること)を済ませ、小走りでJRの駅に向かった。マスクの中はそれはもう大変に酒臭く、歯磨きをしなかったことを激しく後悔した。交通系ICカードには奇跡的に1,000が入っており、陽子は改札に引っかかることなく、大して混んでない中央線に乗り込むことができた。時刻は17:23であった。電車を降りた陽子は、携帯のマップを見ながら新宿東口から歌舞伎町へと大股で歩き、目当てのお店を探した。時折激しく自らの位置をずらしてしまう地図アプリの「現在位置」に憤りながら、陽子は人込みをかき分けて目的地を目指した。鞄の中身がコロコロと音を立てている。


 陽子の鞄の中には、ポケットティッシュ、財布、それから小さめの日本酒の瓶と家庭用食塩が入っていた。嫌なことがあった時や、気合いを入れたい時、酒や塩を舐めるという習慣が陽子にはあった。特段宗教上の理由でもなく、単に「酒や塩を舐めると、心が洗われるような気持ちになる」という理由でそれらを常備しているのである。とはいえ、「清め塩」といった日本の宗教的習慣の成り立ちは、なんとなく理解できるような気もしていた。


 何とか時間通りに到着した陽子は、さっそく看板の前に立つ小柄なボーイに声をかけることにした。身長およそ162センチほどのボーイの髪形はツーブロックであった。ジェルで前髪を片方に流しており、先端を縮れさせている。細くて温和な一重瞼に、整えられた眉毛。まっすぐ立つことになれており、指先をそろえて重ねて道行くおじさんに至極丁寧に「キャバクラいかがっすか」と声をかける。台詞の内容のわりに、育ちがよさそうに見える男だった。

 日が暮れていたので、看板と入り口はLEDの電飾に彩られていた。エントランスは白ベースで七色に輝き、SFに出てくる宇宙ステーションのようだった。スピーカーが、トランスのような音楽を歌舞伎町の路地に響かせていた。


「ぁの、予約した大友!、ですが…」


 声のボリュームの調整具合が異様であっただけでなく、予想される顧客の対象外であるところの「女性」に話しかけられたということもあり、ボーイは「理解不能」と言ったような表情を浮かべた。陽子も声のボリュームの調整に失敗したことを自覚していたが、もはやその程度のことを気にしないほどには、羞恥心というものを捨ててしまっていた。

 ボーイはすぐに携帯を取り出し、予約表を確認し、こう言った。


「大友様ですね。お待ちしておりました。ぜひ、中にどうぞ」


 その瞬間、ギュルギュル!という異様な音があたりに響いた。陽子の腹の音である。朝から何も食べてないことを、陽子はようやく思い出した。




3


 エントランスの扉が開くと、そこには想像以上に広い空間が広がっていた。学校の体育館の4分の1程度だろうか、テーブルは6つほどあり、そのうち2つが使用されている。なるほど、人気店だけあって、このご時世でも客が入るものなのか、と陽子は考察した。

 入り口付近で小さく流れていたトランス風の音楽は、店内では大音量で流されていた。重低音が陽子の踵から鼻の先にかけて響く。

 この箱を取り囲む壁はすべて真っ黒で、ツルツルしていた。カウンターに乗せられた、水色のネオンに照らされた30cm四方の水槽には、凡庸な熱帯魚が数匹泳いでいる。照明はテーブルと客席を目立たせている。この空間には端的に言って刺激が多く、陽子は興奮していた。


 赤色のカーペットの上にガラス張りのテーブルが鎮座していた。その上におつまみ、灰皿、丁寧に巻かれた真っ白なおしぼりがあった。

 別のテーブルでは、数人のおじさんと嬢が交互に座りながら、大音量でカラオケをしていた。歌い手は申し訳程度のフェイスシールドをすることで感染対策に励んでいるらしい。あれをつけてもほとんど感染を防げないことを知らないのだろうか。みたいなことを考え、陽子はここ数ヶ月で自分がひどく神経質になっていることに気づいた。まるで何度も手を洗わないと気が済まない強迫神経症のように。


 陽子はおじさんの下手な歌声に不快感を感じていた。店内に流れていたトランス風の音楽が存外陽子の趣味に合っていたので、別の音楽を混ぜないで欲しいと思ったのだ。

店内には至る所にアルコール(消毒剤のほう)が置かれ、客同士は距離を取られているが、肝心の嬢と客の間には物理的な距離が一切なかった。あちこちからいい歳した男が大声で叫んでいるようなこの環境では、ウィルスの蔓延など防ぎようもないだろう。陽子にはこの光景が、かえって健全に思えた。


 ふと、視界に人影が入ってきた。


 陽子に最初にあてがわれた「女の子」は、やや大柄で、鼻筋が整った「お姉さん」っぽい人であった。大きな瞳に、大きな口。栗色の髪の毛をしている。酒を飲みすぎたのか、やや声が低い。全体的に「大味である」という失礼な考えが陽子の中に浮かんだ。香水の匂いがぷんとして、鼻炎待ちの陽子はいきなり鼻をかみたくなった。

 ワインレッドのドレスに身を包み、大きな胸の半分をあらわにしていた。寒くないのだろうか。とりあえず、『顔は悪くはない』、と陽子は思った。こうした判定を実施した後、結局は自らにもルッキズムの思想が浸透していることに気づき、陽子はひどく恥じた。


「わー女の子だ!みえっていいまーす!よろしくね!何飲む?」

 そう言うと「みえ」なる女性は猛スピードで陽子のパーソナルスペースに侵入し、陽子の太ももに接しながら腰をかけた。陽子はそのあまりにも素早いセキュリティの突破に対し、反射的に身構えた。緊張で喉がカラカラに乾く。それだけでなく、外出前に揮発性のある日本酒を飲んだことが影響し、その乾燥速度は大きく上乗せされていた。陽子はとにかく水分が欲しかった。


「ジンジャーエール…」

 陽子はボソリとつぶやいた。ボーイがいそいそと、陽子の頼んだ場違いなジンジャーエールを用意するために移動した。


 陽子はあたりを見回した。しかし空間の異様さにも慣れ、パーソナルスペースに知らない人の侵入を許してしまった陽子は、冷静な判断を取り戻さんとしていた。すると必要以上にキビキビした動きでボーイがやってきて、ジンジャーエールと、嬢の頼んだウィスキーが運ばれてきた。どちらも似たような黄ばんだ液体なのに、そんなに仰々しく持ってこれるとこちらも緊張してしまう、と陽子は思った。


「じゃあ、いただきま〜す!」

 みえ嬢はグラスを陽子のジンジャエールより下の位置に傾けて乾杯をした。こうするのがキャバクラの作法らしい。かちん、という音をきっかけにみえ嬢は真っ白な歯を見せて屈託のない笑顔を披露した。


「女の子がくるなんて珍しいね。おねーさん、こういうとこはじめて?」

 みえ嬢は、陽子の太ももや腕にベタベタと触りながら、くるくると表情を変えて陽子に話しかけてくる。

 みえ嬢は手汗持ちなのか、彼女が触った陽子の体の部位は、決まってナメクジが通った後のようにぬらぬらと濡れていた。先ほど見たエントランスのSF的な光景も相まって、陽子は宇宙人に身体をまさぐられ解剖されんとする時のような不快感を感じていた。陽子の首筋には大量の鳥肌が立っている。

「最近感染者増えててやばーい」


 陽子は尋問を受けているような気持ちになった。身体を触られていようといまいと、彼女はこのような薄っぺらいやりとりが本当に苦手なのだ。なぜキャバクラなんぞにきてしまったのか、と後悔し始めていた。みえ嬢は、媚を売り、相手を煽てるような声色でひたすらにキャッチボールを強制してくる。陽子は相手が何を言ったのかを一切記憶できなかっただけでなく、自分が何と返答しているのかもよくわからないようだった。


「全然人来なくて寂しかったー」

『売上が減ったのならば、さぞ財布が寂しくなるこったろう』

 皮肉を心の中で呟く余裕が陽子にできたとたん、陽子の神経はいよいよ絶対零度にまで落ち着いてしまった。トランスの音楽は、自分を置いてひとりでに鳴り響いているようだった。自分だけがこの空間において孤立している。ベタベタ触ってくるこの女と陽子との間には、無限の距離があるように感じられた。

そもそも自分はこのようなつまらぬやりとりから逃げるために、俗世のいろいろな関係を断ち切ってきたのではないか。それなのにうっかり人恋しくなって、わざわざこんな地獄に出向いて恥を晒すなんて、自分は究極の馬鹿だ。



 歯軋りをしながら陽子が黙りこくっていると、みえ嬢は慌てた様子で尋ねた。

「おねーさん、緊張してる?」



 『私は緊張しているのではない』と陽子は心の中で強がった。彼女はただ腹立たしく、惨めな気持ちになっているだけだ。早く終わってくれ。何もかも。営業時間も、この世界も。


「おねーさん、慣れるためにまず自己紹介しよっか」みえ嬢は眼前の狂人に対する適切な対応方法を知らず、あろうことが陽子に自己紹介を依頼してしまった!


『こんな時にやめてくれ』

 陽子には紹介したいと思うような自己などない。少なくとも、今夜消えてしまう関係の相手に、亡くなった夫やあふれる本棚など、しょうもない身の上話をしてしまうことが、陽子にとって決定的な敗北に思えたのだった。

 薄っぺらい関係を、陽子は求めていない。では、何を求めているのか。



 机の上には、沢山の供物(おつまみ)が積まれていた。ビニールに入ったチーズ、おかき、ナッツ、レーズンやマンゴーなどのドライフルーツ、それから小さなチョコケーキ、スナック菓子。再び陽子の腹から鳴ったギュルギュルとした音がトランス音楽にかき消された瞬間、陽子は勢いよく皿に乗ったレーズンに手を伸ばした!それらが口に投げ入れられると、陽子の歯は、待っていましたと言わんばかりの速度で乾いた果実を噛み砕いた。


 レーズンの酸味を伴った果糖は口腔内全体に広がり、唾液の分泌を促進した。しかし「ドライ」フルーツだけあって、日本酒と緊張が引き起こした喉の干ばつを解消するほどの即効性を、レーズンは持っていなかった。そのため、陽子は左手でジンジャーエールを手に取り、一気に飲み干した。数分の会話のうちにグラスの表面に大量に発生した結露が、手の指の隙間からぽたぽたとこぼれ落ちる。


 嬢は、がつがつと食物を貪る眼前の狂人が、果たして自分と同じ人間なのかを疑った。

「おねーさん、めっちゃ食べるじゃん

かわいい〜」


 心にもない誉め言葉の直後、陽子の横隔膜はゲエエェッと大きなゲップを発した。『こんな怪物のどこがかわいらしいというのか』と、陽子は少し自虐的な気持ちになった。

 それでも陽子はとにかく食べた。食べまくった。かつて高校のクラスのコンパで一人ぼっちになり、他人の何倍も食べ放題を楽しんでしまった時の自己嫌悪を思い出す。


 ふと、困惑した表情を隠せぬまま、みえ嬢が口を開いた。

「ごめーん、時間になっちゃった。おねーさんと話せて楽しかったよ〜、またね!」

 そういうとみえ嬢はそそくさと席を立ち、行ってしまった。


 『何が「楽しかったよ」だ。心にもないこと言いやがって。1人にさせてくれ。このまま意味不明にハイテンションな音楽を聴きながら、透明なテーブルの上で私はずっと、お菓子を食べるつもりだから。』

 陽子はお菓子を食べるペースをやや落として、チーズに手を付けた。装飾のない透明なビニールに包まれた親指サイズの白い本体は、お徳用パッケージのうちの一粒なのだろう。やや速度が落ちたとはいえ、「甘いもの→辛いもの→甘いもの」というサイクルでテンポよく一人で次々と物を口に運ぶ陽子の周りには、明らかに近寄りがたい雰囲気が漂っていた。


 しかし店は孤独を許さなかった。ふとやや小柄な影がまた、陽子の視界に入ってきた。陽子はうんざりしながら顔を上げた。


 澄んだ声が陽子の耳に届けられた。

「はじめまして、咲(さき)って言います」

 名刺を差し出してきた女の身長は陽子より少し低いくらいであろうか。背筋をすっと伸ばし、猫背が習慣になっている陽子と対照的な立ち振る舞いを見せた。その顔はどこかあどけなく、しかし目つきには独特の鋭さがあった。表情は凛々しく、何か将来の計画を見据えているかのような雰囲気を纏っていた。陽子は再び彼女の眼球に注意を向けた。店内の照明をハイライトとしてとらえたその瞳に、陽子は宇宙的な深さを予感した。

 陽子は何年ぶりかに、目の前の現実的な人間に自分のフェティシズムが強烈に刺激されるのを感じた。人影への嫌悪感は消え失せ、底なしの興味へと変わった。瞳孔がみるみる開いてゆく。


 陽子はぽつりと呟いた。


「あ、この子絶対、高学歴だ」

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