第130話 この世の人とは思えぬほど高貴な阿賀代姫



 当初、涼馬が予想していたより、内藤家上屋敷の奥はとてつもなく深かった。

 家老部屋から何度も廻廊を巡った先に、殿さまと奥方さまの奥御殿があった。


 ご家紋の下がり藤を打ち出した扉が外部からの侵入者をきびしく防いでいる。

 双子のごとき偉丈夫の警護が2名、重層な扉の両脇をいかつげに守っていた。


「星野涼馬さまをお連れいたしました」


 立て膝を突いた園の報告に半拍ほど置いて「入りゃ」柔らかな女声が返って来た。

 恐るおそる障子を開けた涼馬の双眸に、ぱあっと一気に華やかな色彩があふれた。


 30坪はありそうな広い部屋の四囲に、豪奢な花鳥図の襖が張り巡らされている。

 素人目にもとてつもない高級品と見える文机や脇息など、趣味のいい調度を配した部屋の中央に、内裏雛のごとく品格ある美しい夫婦の一対が静かに端座されていた。


阿賀代おかよ、これが星野涼馬じゃ」

 涼馬に声を掛ける前に、伊賀守は奥方にまず涼馬を紹介した。


 薔薇、芍薬、紫陽花、朝顔、芙蓉、百合、桔梗、竜胆、菊、萩、吾亦紅……。百花繚乱の絽の小袖を纏った奥方は、はにかむように微笑んで、涼馬をひたと見詰める。


 小さな口許から「涼馬か。よく参った」鈴の音を振るような細い声が降って来た。


「奥方さま。お初にお目にかかります。高遠から参りました星野涼馬にござります」

 失礼がないよう丁重にご挨拶しながら、涼馬は小刻みな身体の震えを止められぬ。


 ――理知と情愛を兼ね備えた人柄を示す黒紅色の双眸。春雨のごとく煙る眉。細い鼻梁。慈愛の笑みを湛えた唇。骨が見えそうに透き通った肌。かように美しい女人は初めてじゃ。鳥も通わぬ片田舎で高遠小町と囃され悦に入っていた身が恥ずかしい。


 心からの感銘のまま平伏する涼馬に、伊賀守がようやく声をかけてくれた。

「順番が後先になったな、許せ。涼馬、よく出て参ったな。会いたかったぞ」


 ――奥方さまのもとだと、こうまで様子が異なられるのか、殿さまは……。


 半ば呆れ、半ば感心しながら、涼馬も声音に懐かしさを滲ませる。

「お久しゅうござります。殿さまにおかれてはご機嫌お麗しく、何よりに存じます」


 指示を受け顔を上げた涼馬の視線が、一瞬、伊賀守と絡み合う。

 先に目を逸らせた伊賀守は、隣の阿賀代姫にうれしげに告げる。


「な、申した通りの武士であろう、奥の代わりに余の話し相手になってくれたのは。ひとえに涼馬のおかげで、高遠暮らしを無事にやり過ごせたようなものじゃわい」


 幼児が母親に報告するような甘えた口調を、涼馬は敏感に感じた。

「まことに。日ごろから殿の仰せのとおり、惚れ惚れするような男前にござります」


 やさしく受け留めた阿賀代姫の言辞も、つい深読みしてしまう。

 格別に聡明な伊賀守が、微妙な雰囲気に気づかぬはずはないが、奥方と涼馬、二人の気に入りに取り巻かれた現況を、伊賀守は素直に甘受することにしているらしい。


「涼馬。他人目の煩い田舎暮らしは何かと気が張るものじゃ。せめて江戸におる間は気楽にするがよい。余もな、爺の視野から逃れ来て、ほっとしておるところじゃわ」


 国もとの縫殿助ご家老のくしゃみを想像した涼馬は思わず噴き出す。

 それまで何処となく他人行儀だった伊賀守は初めて破顔してくれた。


「あ、ほれ。ようやく、いつもの涼馬になったわ。阿賀代、これがの涼馬よ。爺の件は冗談じゃが、若い内の経験はすべてが宝になろう。とにかく見聞を広めよ」


 高貴が匂うばかりの阿賀代姫も、こだわりのない笑顔で何度も首肯してみせる。

 開け放たれた縁先には、芸術作品と呼びたいほどに完璧な庭園が広がっていた。


 ――何事も変わらぬものはない。流るる水のごとく一か所に留まらぬが現世じゃ。要はな、変容を如何に受け留め得るか得ぬか。御仏のお導きは奈辺にあるのじゃ。


 小梢だった時代、兄と共に聴いた蓮華寺の和尚の説法がよみがえった。


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