第83話 初対面の江島の凛然たる人柄に撃たれる



「では、こちらへ参られよ」

 涼馬の観察をよそに、花畑衆副棟梁の飯島大膳は、泥田から拾って来たひるを張り付けたように色の褪せた薄い唇の、片側の端だけを、ひょいと持ち上げてみせた。


 自ずから皮肉たっぷりの表情が現出するが、その狭隘な性質から上役や朋輩からの忠告の親切に恵まれぬことが推察される当人は、まったく気づいておらぬのだろう。


 ――惜しい。


 せっかく苦み走った男前なのに、この一点で損をしておられる……と涼馬は思う。


 ほの暗い廊下を直角に曲がった大膳は、最奥の部屋の障子の前で立て膝を突いた。

「絵島さま。新入りの警護でございます。よろしければ、ご挨拶させたく存じます」


 落ち着いた女声が返って来た。

「さようか。しばらく待ちや」


 かすかな身支度の気配が、廊下まで伝わって来る。

 ややあって、「入りや」短く静かな声が聞こえた。


「ご無礼仕ります」

 大膳が畏まって障子を開ける。

 座敷内を見た涼馬は棒を呑む。


 ――何とおごそかな……。( *´艸`)

   神々しいほどのお姿ではないか。


 8畳の座敷の中央に、唯一の調度である小さな文机が置かれている。

 白橡しろつるばみ色の木綿の単衣を着た小柄な女人が、端然と座していた。


 粗末な机上には花瓶ひとつ置かれていない。

 写経でもなさっていたのか、傍らに墨が片づけられている。


 江島は能面の如き無表情を凝然と涼馬に向けていた。

 御歳のころは涼馬の母・彌栄より少し上ぐらいかと思われるが、まったく化粧っ気のない素肌が内側から透きとおり、丸髷に縁取られた面長が童女のように初々しい。


 理知的な双眸。

 左右対称に優美な弧を描く柳の眉。

 高過ぎず低過ぎず、形のいい鼻梁。

 意思的に引き結ばれた口許が、相対する者の胸に何事かを囁かずにおかぬ。

 絵島の無言の威厳に打たれた涼馬は、毒針を打たれた昆虫のようになった。


「これ、涼馬。何とか申し上げぬか。さように黙っていてはご無礼であろう」

 大膳に鋭く促された涼馬は、ようやくの思いで掠れ声を絞り出した。


「申し訳もござりませぬ。拙者は、星野涼馬と申します。若輩者ではござりますが、一所懸命につとめさせていただきますので、何卒よろしくお願い申し上げます」


 型どおりの口上を聞き終えると、絵島は大膳に訝しげな顔を向けた。

「補佐殿。いま、たしか星野とか申されたようじゃが、まさか、あの……」


 補佐と呼ばれた大膳は、大慌てで居住まいを正し、如何にもの堅苦しさで、

「さようにござります。徹之助の代わりに星野家に養子に入った者にござります」


 その事務的な返事は、絵島をして心底から驚かせたものと見える。

 深山に満々と水を湛える湖のような双眸を大きく見張って呻いた。

「ふむ。さようであったか。それは何とも奇縁なことにて……」


 何と答えていいのか分からず涼馬が戸惑っていると、絵島がふたたび口を開いた。

「徹之助殿は本当に気の毒であった。わたくしが送られて来ねば、あの若さで無念の死を遂げずに済んだのに……。すべてはわたくしの責任じゃ。どうか許されよ」


 陶器のごとく滑らかな頬を、釉薬ゆうやくのような涙がしとどに流れ落ちる。


 ――美しいお方は、泣き顔までがお美しい。

   お心根はもっとお美しいにちがいない。


 涼馬の胸から兄の仇への怨念は、忘却の噴霧器を噴射されたごとく消えていた。

 牢屋の内外を仕切る、嵌め殺しの格子の外には、清々しい朝の光が満ちている。

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